大場紀章

大場紀章

満開のホッキョクヒナゲシ。樹木限界以北と呼ばれる地方にも、このような維管束植物は生育する。温暖化の影響で北極圏の生態系は大きく変わりつつあるという。

脱炭素の思想
人類は地球に責任を負えるのか

「脱炭素」はこれからの社会や経済を考えていくために重要なファクターになることは間違いない。しかし、「2050年までに温室効果ガスの排出をゼロにする」という一見ラディカルともとれる発想は一体どこから生まれてきたのだろうか。すでに既定路線として進められている「脱炭素」には誰のどのような意図が隠されているのだろう。Modern Timesでは2022年の始まりにエネルギーアナリストの大場紀章に公開インタビューをし、疑問をぶつけてみた。内容の一部を編集してお届けする。

Updated by Noriaki Oba on January, 31, 2022, 9:00 am JST

温暖化が自然発生したものであれば対応したのか

さらに、人の手で削減することにこだわるのにはもう一つ大きな理由がある。それは脱炭素で解決しなければならない最大の問題が人権に関わることだからである。

赤ちゃんを抱いた女性たち
ケニア・モンバサで2007年撮影。バスの近くに立つ人々。穏やかな人たちが多い。

現在の科学的知見を用いたシミュレーションによると、温暖化は海水面の上昇や洪水、干ばつなどの異常気象の増加などを引き起こす。被害を被るのは比較的経済的に恵まれない発展途上国が多く、そうした国々の人々の生活が脅かされないようにすることは、先に化石燃料を消費してその恩恵を享受してきた先進国の人々の責任であり、これが人権問題につながると考えられているのだ。

しかし仮に温暖化が自然現象によるものだったら、我々はどう反応しただろうか。少し思考実験をしてみよう。
もともと地球は多様な変化を経て今の状態へとたどり着いており、人類が出現する前には大規模な氷河期のほか、全球凍結といって地球が全部凍りついてしまったこともあると考えられている。隕石衝突などによる大規模な気候変動も繰り返された。つまり人の手によらない変化は昔から起きているのである。

もしそのように人の手ではない理由で気候変動が起きたとき、そしてそれが将来も続くと予想されたとき、人類はそれを止めようとするだろうか。
単純に自然現象として地球が温暖化したとしても水没する地域は発生する。しかしこの場合は誰に怒りをぶつけていいのかわからない。地球が勝手に水没地域を作っているのだからどうもしようがないのだ。その場合は、「そこに住んでいた人が運が悪かった」ということで、内陸部に移住したり、周りの国はせいぜいそれを支援したりするというアクションに留まるのではないだろうか。

このように考えると温暖化が人為的なものかどうかというのはリアクションに大きな違いを生んでいることがわかる。人為だからこそ、発生した不都合に対して責任が生じる。だからこそ「何とかしろ」というロジックが成立するが、もし自然現象だったら起きた結果が同じであってもそれを受け入れてそれに対応した生き方を選択するのではないか。

もちろん、自然現象であっても無理やりをそれを阻止するという考え方もできなくはない。しかしそこには責任がないため、人類が結託して邁進するのかというと、あまり可能性は高くないように思える。

地球に対する責任、地球に関する責任

そうすると脱炭素をドライブさせているポイントは「責任」だと考えられる。これはそもそも国際社会が交渉のテーブルにつきはじめた90年代から言われていることだが、温暖化は人類共通の責任であるとされている。ただし先行して排出してきた先進国と後から排出量を増やしてきた新興国では立場が違うので、「共通だが差異ある責任」という言葉が用いられる。

ではこの責任とは「誰に対する」責任なのか。一部では「自然に対する責任」という言い方をする人もいる。それは自然をある種人格化した感覚を持っているということである。「自然さん、ごめんなさい」「地球さん、すみませんでした」と罪悪感を覚えて行動をする人たちの考え方だ。しかしこのような考えは昨今あまり一般的ではない。

現在、多数派なのは「自然に関する」責任を負っていると考える人たちだ。自然に「対する」責任と自然に「関する」責任は微妙に違っていて、後者こそが先般記述したような人権問題に絡む。つまり温暖化によって家が水没してしまう地域の人たちや干ばつで災害が増えるような地域の人たちをなんとかする責任があるという考えに基づいているのだ。整理すると、自然に関して人類は人類の一部の特に被害の大きいと考えられる国の人たちに対して責任を持っているという考え方になる。

だから自然に「対する」で対策をしているか、自然に「関する」で考えているかで話が噛み合わないことがある。CO2を削減するという結論においては合意するわけだが、自然に「対する」という人々からしてみれば心情が絡むためそれを言い換えることはしにくい。さらには「関する」という考え方はあまりにも人間中心主義によりすぎているため不快感を感じるという人もいる。

しかし政治的には「対する」にしてしまうと科学的な表現が難しくなるため、基本的にはオフィシャルな文章では「関する」という立場が中心だ。

国による感覚の違い

エネルギーの専門家として国内外の人々と話していて感じるのは、ヨーロッパの人たちの「地球を我々がどうすべきか」という感覚と、日本人の環境問題に対する感覚にはギャップがあることだ。例えば、温暖化により東京が水没するとする。確かに大変なことではあるが、なにも日本が全部水没するわけではないし、日本人が絶滅するわけでもない。選択肢としては、それを阻止するのではなく内陸部に移住することもできるのである。

エアーズロック
真っ赤に見える巨岩・エアーズロック。アボリジニの言葉ではウルルと呼ばれる。

地震や台風といった自然災害が多い地域で暮らす日本人は「環境の変化を受け入れていることに慣れている」と評されることもあるように、比較的温暖化も「受け入れている」のではないか。

ようやく最近になって台風を制御する研究を政府が支援していくことが発表されたが、それまでは甚大な被害があったとしても、被害を最小化するための努力はあっても自然に発生するものを撲滅するという発想はなかった。来るものは仕方ないから耐え忍ぶというのが日本人の発想なのではないか。

温暖化は必ずしもそこで生きる人の絶滅を招くわけではない。少なくとも現段階ではそのように考えられているから、どこまで「我慢」をして脱炭素をするかといわれると立場や考え方によってリアクションは異なる。なかには「温暖化は絶対に阻止しなくてはならない」という人もいるし「できる範囲で取り組む」という人もいる。「別に温暖化してもすぐに死ぬわけじゃないからいいじゃん」という人もいるだろう。このように温暖化に対峙するといっても、取り組む人の姿勢にはかなりグラデーションがある。様子を見ているとどうやら日本人は比較的マイルドに温暖化を考えていて「住んでいる場所が沈んでしまう地域の人たちに申し訳ないけれど、そんな簡単に対策はできなさそうだから、ある程度は成り行きに温暖化に任せて、生き方を少し修正するくらいしかできないのでは」というように現象を受け入れる姿勢の人が少なくない。