大場紀章

大場紀章

満開のホッキョクヒナゲシ。樹木限界以北と呼ばれる地方にも、このような維管束植物は生育する。温暖化の影響で北極圏の生態系は大きく変わりつつあるという。

脱炭素の思想
人類は地球に責任を負えるのか

「脱炭素」はこれからの社会や経済を考えていくために重要なファクターになることは間違いない。しかし、「2050年までに温室効果ガスの排出をゼロにする」という一見ラディカルともとれる発想は一体どこから生まれてきたのだろうか。すでに既定路線として進められている「脱炭素」には誰のどのような意図が隠されているのだろう。Modern Timesでは2022年の始まりにエネルギーアナリストの大場紀章に公開インタビューをし、疑問をぶつけてみた。内容の一部を編集してお届けする。

Updated by Noriaki Oba on January, 31, 2022, 9:00 am JST

独裁国家を説得できるのか

脱炭素の発想を考えるうえでもう一つ重要なのが「まだ間に合う」という思いである。脱炭素を訴える人は「温暖化を阻止するための時間はもう残されていない。けれど今アクションをすれば必ずまだ間に合う」と呼びかける。

現状では、「1.5℃目標」といって平均気温の上昇を1.5℃未満に抑えることが国際的なコンセンサスになりつつある。そのために「1.5℃の達成にはまだ間に合う」という言い方が必ずなされる。「現実は厳しいけれども努力すれば間に合う」。こう言われるのは「できない」と言ってしまえば諦めるほかなくなってしまうためである。

「人類は意思の力によって温暖化を1.5℃以内に抑えることが可能性としてあるのだ」。脱炭素の中心にいるのはそのように信じている人々である。一方で「できるだけの努力はしてみるが本当に達成可能なのか」「協力はするが不可能なのでは」と疑っている人も少なくない。さらにその先にいるのは「もう受け入れた方がいいのでは」という考えの人々である。脱炭素にがっちり取り組んでいる人にしてみれば無責任極まりないが、実際に意思の力によって達成可能だと信じている人とそうでない人はいて、脱炭素に対するリアクションには大きな差がある。

ゲートを閉める男性。
オーストラリアのアリススプリング近郊の牧場入口。ほぼ大陸の中央に位置し、真夏の最高気温は45℃に達する。

しかも世界はもともと一枚岩ではないのだから、アメリカ、中国、インド、このあたりの国々を他の国がコントロールすることは非常に難しい。その他の独裁国家にしても、他国の干渉をどのくらい受けるのかという問題がある。そういった国々を説得して「排出ガスをゼロにすることは必ずできる」という考えの人と、「それは無理なのでは」と考えている人の間では信じている未来像がかなり異なる。

「責任」という概念の変化

「責任」という考え方は、必ず「その問題を解決する能力がある」と信じられることとセットになる。解決能力のない人には責任というのは発生しないのだ。それは不可抗力になってしまう。法的な概念としても、基本的に責任とは権限がある人とか自由がある人にしか責任は発生しえない。

近代の法律の立て付けでは、自由な意思を持った主体としての個人が社会を形成し、その人たちが下した自由意思による決断によって行為が生じると考えられている。もともと責任とは過去に犯した行為に対して求められたものだが、実は現代ではその範囲が拡張しており、責任は未来にまで及ぶ。さらに最近では法律の枠を超えたいわゆる「道義的責任」という考えが現れてきており、刑罰を受けることはなくとも誠意を行動で示すことが求められることがある。

文献を調べた限りでは、英語の“responsibility”という単語には、もともと日本語で言うところの“説明責任”という意味しかなかった。今でいうところのaccountabilityである。つまりは何か行為があったときにそれを説明するのが責任だという考え方である。不慮の事故などに対する便宜的な概念として「責任」は存在したが、昨今のような「道徳的責任」の概念はここ200年くらいに登場したもので、ドイツ語の辞書にその意味が出たのは1920年くらいだといわれている。責任という概念はどんどん変化してきているのだ。

気候変動の正義は“Climate Justice ”や“気候正義”と呼ばれるが、これは実は「道義的責任」に含まれる。つまりこの考え方は少なくとも100年から200年前くらいからしか発生しえない。しかし実はこの「人類の自然に対する責任とは何か」という議題は、100年くらい前からあらゆるところで行われていて、すでに手垢まみれになるほど繰り返されている。このころに自然に対する責任という考え方が生まれてきた理由は、ごく簡単に言えば、近代に入って神が否定されてしまったことに由来する。それまで自然を含む万物を管理していたはずの存在がなくなり、そこ空席ができてしまったのだ。だからその空席を埋めるがごとく、人間が管理者として代わりにそこへ入っていったと考えられている。「責任」や「主体」、「人格」「個人」「生命」「社会」といった概念はこの過程で生まれた。そして社会全体、地球、自然全体に対して責任を持つのは主体たる人間であるという考えが構成されたのである。

その近代の枠組みを日本は輸入したわけだが、それがぴったりと馴染んでいるとは言い難い。一応は「社会」も「人格」も「個人」も「責任」も単語としては存在するが、「主語」という概念は実は日本語には存在しないという説があるほど、日本の文化には「人格」や「個人」という考え方は必ずしも馴染まない。結局、日本人はいまだに群れの中の一人なのである。だから「自然に対する責任があなたにあるよ」と言われても何かいまひとつピンと来ない。そのような考え方の構造のギャップが、「地球に対する責任」への何か違和感の根本にあるのだと思う。

だからといって対応しないわけにもいかないし、そこにさらに経済的な要素や政治的な要素が加わっている今この波に乗らないことは損失が大きい。モヤモヤとした気持ちを抱えながらも「なんとなく脱炭素」に加わっている人が少なくないのが日本の脱炭素の現状なのである。(次回、「日本人が理解しがたい『気候正義』」に続く)

参考文献
生きる意味』 著 イハン・イリイチ(藤原書店 2005年)
増補 責任という虚構』著 小坂井敏晶(ちくま学芸文庫 2020年)
(論文)自然に対する義務と人間中心主義 : カント哲学の人間観を手がかりに 田中 綾乃