仲俣暁生

仲俣暁生

ニューヨークで行われた人種偏見主義者のデモ。人々が、ユダヤ人や黒人を排除せよと声高に叫ぶ現実があった。1968年ごろ撮影。

(写真:佐藤秀明

「市民」と「大衆」の分断を再統合するために

分筆家・仲俣暁生氏が橋本治の著作から未来のヒントを読み解いていく企画第4弾。
今回は物の見方や様式を得ることについて考えを巡らせていく。

Updated by Akio Nakamata on April, 13, 2022, 8:50 am JST

前回はロシアのウクライナ侵攻という衝撃的な事件を受けて、やや筆が乱れたかもしれない。目前の出来事にとらわれることなく、引き続き橋本治の『江戸にフランス革命を!』(青土社)を読み返していこう。

近代以後の日本人は「江戸」という過去を「踏まえる」ことなく「切り捨てた」。そのためにこの時代にあった「様式」をまるごと失い、理解できなくなった。そしていまなお、自分たちのための新しい様式を生み出すことにも失敗しつづけている――バブル経済の絶頂期ともいえる1980年代の終わりに、橋本治はそのように考えた。この本で一貫して考察の対象とされる「江戸の町人」とは、昭和末期の日本人のことでもあった。

”オリジナルなものの見方”は人を不幸にする

江戸文化に関して書かれた様々な文章のアンソロジーである『江戸にフランス革命を!』の前半は、歌舞伎や浄瑠璃といった当時の大衆向けの「劇(ドラマ)」の解読を軸に、江戸時代の文化を支えた「様式=哲学」の説明に充てられる。それに対して後半は、浮世絵版画を中心とする絵画についての記述が続く。このうちもっとも古いタイムスタンプをもつ文章は、最後の浮世絵師とも呼ばれる月岡芳年を論じた「明治の芳年」だ。

芳年の活動期は二期に分かれる。嘉永2年(1849年)に歌川国芳に入門し「一魁斎」の号を用いた明治5年までと、「大蘇」の号を用いた明治6年から没年である明治25年(1892年)までだ。伸びやかな曲線を生かした「武者絵」や「無残絵」で知られた芳年は、明治に入ると画風を一変させ、「ギクシャクした癖の強い線」を多用するようになる。「美人絵」と呼べるものも描くが、そこに描かれた女たちは「男を受けつけない」、「一枚皮をめくれば色情狂の血が飛び出てくるかもしれない」ような不気味さを湛えている。

この芳年論における橋本の図像読解はきわめて明晰だが、のちの「桃尻語」、あるいは「昭和軽薄体」とも呼ばれたような口語的な軽やかさはない。というのも、これは橋本治が「作家」としてデビューする以前の26歳のとき、『美術手帖』に発表されたものだからだ。

もともと橋本は国文学の研究者となることを目指していたが、大学院入試に失敗し、この頃は東京大学文学部美術史学科で研究生をしていた。ここで橋本は近世美術史のゼミに参加するが、受講生は自分一人。橋本曰く、それは「なんにも知らないまんま古道具屋の丁稚になった小僧が受けてる、”目利きのレッスン”」だった。だが、このときの経験が橋本に自分のなかにある「オリジナルなものの見方」を発見させた。

「日本で”オリジナルなものの見方”なんていうものを開発しちゃったら、大体その先には”不幸”しか待ってない。しかもその不幸に押し潰されずにそれを克服する方法となったら、そのオリジナルなものの見方の向こうにある”既成の知識”なるものの全体像を把握すること――その全体像に目玉をくっつけるようにして”自分”というものを位置づけることという、とんでもなく膨大な作業を要求される」(「私の江戸ごっこ」)

のちに橋本は『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』という画期的な少女マンガ評論の本を書き、『ひらがな日本美術史』(全7巻)では縄文時代から1964年の東京オリンピックまでの「日本美術」を総覧するという偉業を成し遂げる。美術を対象とするものにとどまらず、橋本治のあらゆる批評文はすべて、”オリジナルなものの見方”を確固とさせるための「膨大な作業」を経たものだった。

「最初の詩人」と「最後の職人」

ところで『江戸にフランス革命を!』には、そのときどきの雑誌等の求めに応じた文章のほかに、先に引用した「私の江戸ごっこ」をはじめ「江戸の”総論”」「安治と国芳――最初の詩人と最後の職人」「立たない源内と『萎陰隠逸傅』、そして国芳の侠気はヤクザの背中に消えて行く」といった書き下ろしの文章も収められている。これらはアンソロジーであるこの本が書物としての構造をもつために要請されたものであり、なかでも「安治と国芳――最初の詩人と最後の職人」はきわめて重要な文章である。

タージマハル
日に照らされるタージマハル。ムガル帝国第5代皇帝の妃、ムムターズ・マハルの墓廟である。ムムターズ・マハルは第14子を出産した際に亡くなった。

江戸から明治への、つまり前近代から近代への移行のなかで受け継がれたものと受け継がれ損ねたものはなんだったのか。この大きな問いを、「最初の詩人」としての井上安治と、「最後の職人」としての歌川国芳という、明治時代と徳川時代の二人の「浮世絵画家」に託して論じたこの長編エッセイは、名古屋テレビから依頼された番組脚本がベースになっている。橋本はよく自身のことを「職人」だと語ったが、彼のなかには「詩人」も同時に存在していた(橋本は寺山修司という「詩人」を敬愛していたし、『大戦序曲』という唯一の詩集もある)。「職人」と「詩人」が分裂するのが近代という時代であり、そのなかで橋本自身も引き裂かれていた。

歌川国芳のもっとも有名な弟子は月岡芳年で、井上安治はごく短い期間、芳年と師弟関係にあった。国芳と安治との間にはそのようなわずかな縁しかないが、橋本は安治を「最初の詩人」と位置づけ、そこから「最後の職人」でありえた国芳へと遡ることで、近代の到来によって獲得された”オリジナルなものの見方”が「不幸」によって押し潰され、それを準備したはずの江戸の「様式」すなわち職人芸は、近代以後に様式としてのまとまりを失って霧散したことを、二人の間に小林清親という「光線画」で知られる版画家を置いて論じていく。

「井上安治は多分、小林清親の絵の中にあった、小林清親が描こうとしていた”絵なるものを作る核となる人間の情景”などというものを見ようともしなかったのだ。そんなものなら、もう彼はとうの昔に描けていた筈なのだから。日本の作家達が”自分を述べる言葉”というものを作り出すずーっと以前に、井上安治という少年は、自分にそのまま”自分”なるものを語らせてくれる”言葉”をつかまえていたのだ」(「安治と国芳――最初の詩人と最後の職人」)

日本で近代文学が誕生するよりもはるか前に、すでに近代的な「詩人」がいたことを綴ったこの文章は、はるかのちに橋本が書くであろう一連の「近代文学論」の起点ともなるものだった。

「大衆」は自らの「劇」を演じる身体を失った

前回の記事で私は、〈世界中で大きな政治的な変革が起きた1989年に、日本では昭和天皇の死にともなう改元があったのみで、この時代の大衆(市民)が政治を通して社会を変えることはなかった〉と書いた。現代において「普通の人々」は、「大衆」とも「市民」とも呼ばれる。私たちは、そのときどきで自分をどちらかの側に置くが、両者の関係はどう考えたらよいのか。この問題に関して橋本治は、先の文章の中で次のように書いている。

「近代というのは、近世の”都市住民”が”市民”と”大衆”との二つに分裂する時代である。だから従って”名もなき庶民”というものは近代になって生まれる。ということになれば、”名もなき庶民”というものは”近代市民という特殊な演技様式を持てない人間”ということになって、これは”役者絵であることに失敗した広重の人物”とイコールになる。つまり広重は、まぎれもなく”近代人”――それも”名もなき庶民”という種類の近代人を描いていたことになる」(「安治と国芳――最初の詩人と最後の職人」)

広重とは『東海道五十三次』を描いた歌川広重、「役者絵」とは浮世絵版画における重要な一ジャンルのことだ。近代における”市民”と”大衆”との分裂は、近代的な存在としての「詩人」と前近代的な存在としての「職人」との分裂を別のかたちで表現したものでもある。”近代市民という特殊な演技様式を持てない人間”とは、すでに前近代の「様式」を失い、なおかつ近代人としての独自の様式を持てない人間、つまり自らの「劇」を演じることができない者のことだ。そしてこの”名もなき庶民”とは、「役者絵」とその発展型である国芳や芳年の「武者絵」に描かれた、「劇」を演じる様式をもつ人物とは異なる者、広重の風景画に――そしてその影響を強く受けた小林清親の「光線画」に――登場する点景人物のことだ。

池を泳ぐ白鳥
デンマークにて撮影。寄り添う白鳥。

では現代において「大衆」として自身を規定する者、つまり我々は、どうすれば自分達の「様式」を、つまり「劇」を演じうる身体をあらためて獲得できるのか。その過程を橋本は、観念だけの「少年」が身体をもつ「青年」になっていく過程と重ねた。「劇」を演じるには身体が必要で、その身体を獲得するために人は「個人」にならなければならない。身体をもった他人を「個人」として認めなければならない、と。

「どうしてみんな気がつかないんだろう、この世には”個人”というものを認める、”個人”というものが肉体を持って生活を持って関係を持って現実の中にいるかなりシチメンドクサイものだという思想がまだ存在しないのだということを。一方的に語ったつもりになっている”表情”なんていう曖昧なものを拾い上げる”主君”なんていうものがもういないのだということを!」(「立たない源内と『萎陰隠逸傅』、そして国芳の侠気はヤクザの背中に消えて行く」)

「萎陰」とは「立たない男性器」のことだ。エレキテルの発明などで現代にも名が残る才人、平賀源内は『萎陰隠逸傅』という文章で自身をそのように自嘲した。先に論じられた芳年と同様、源内も、近代的な個人として「立つ」という思想を準備することができなかった、と橋本は厳しく断じる。自身のなかに個人的な感情を見出すだけでなく、それを十全に演じる身体を獲得していくことで、ようやく人は「他人」と出会えるようになるのだし、そこからしか「民主主義」は始まらない。だからこそ、この本は「フランス革命」という題名をもつ。

「これが私の人権宣言である」という結語のあとに、橋本治は自身を「イラストレーター」として有名にした1968年東大駒場祭のポスターの図像を置き、『江戸にフランス革命を!』という本を終えている。「”主君”はもういない」というこの主題を、橋本はのちの著作でも繰り返し、かたちを変えて論じていくことになる。

参考文献
江戸にフランス革命を!』橋本治(青土社 2019年)
花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』橋本治(河出書房新社 2015年)
ひらがな日本美術史』橋本治(新潮社 1995年)
詩集『大戦序曲』橋本治(河出書房新社 1992年)

『江戸にフランス革命を!』書影
『江戸にフランス革命を!』橋本治(青土社 1990年)