小松原織香

小松原織香

(写真:スタジオジブリ / StudioGhibli

機械のアニミズム

新しい環境倫理について模索を続けている小松原織香氏は、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』には数多のヒントが隠されているという。ここでは『風の谷のナウシカ』に登場する「巨神兵」を引き合いに、自然物とは対極に置かれる「機械」のアニミズムについて紐解いていく。

Updated by Orika Komatsubara on May, 11, 2022, 9:00 am JST

対自然に留まらない、宮崎駿のアニミズム

ーーその者青き衣をまといて金色の野に降りたつべし。失われし大地との絆を結び、ついに人々を青き清浄の地に導かん……

青いワンピースを身にまとった女の子、ナウシカ。金曜ロードショーで繰り返し放映される、アニメ「風の谷のナウシカ」の主人公である。特別に漫画やアニメが好きな人でなくても、このアニメ作品を視聴したことのある人は多いはずだ。

アニメ版「風の谷のナウシカ」のストーリーはシンプルだ。大昔の人類の戦争により、世界が徹底的に破壊されたあと、荒廃した大地には「腐海」と呼ばれる森が繁茂した。腐海から吐き出される胞子による健康被害を避けるために、人々はいつもマスクをつけて暮らしている。また、蟲と呼ばれる凶暴な生き物たちが人間に襲いかかる。

「風の谷のナウシカ」(1984)より。

辺境の地、風の谷で生まれ育ったナウシカは、草木や動物を愛し、人々の忌み嫌う蟲ともコミュニケーションが取れる。彼女は腐海が、人間が汚染した土壌を浄化するエコシステムの一部であることを発見した。戦争で殺し合い、この世界を破壊し続ける人間たちを止めるために、ナウシカは立ち上がる。アニメでは、ナウシカは人間と自然の共生を訴える、エコロジストのようなヒロインだった。アニメ版ナウシカは、中高生向けの環境教育で教材として使用されることもある。

この作品を監督した宮崎駿が、アニミズム的な感性を持っていることは公然の事実だろう。批評家や研究者もこぞって宮崎のアニミズムについて論じてきた。宮崎自身もアニミズムが好きであると明言し、森の中には立ち入れない深遠の世界があるという感覚について語っている。目に見えない、「なにかがいる」という直感。科学的には観測されない、人の認識を超えた世界こそが、アニミズムの世界だという。そして、人間がその超越的な世界への繋がりを失うと、自分の存在そのものが薄っぺらいものになると述べている。(宮崎駿『出発点』徳間書店、1996年)
宮崎は、自然との関係を通して神々や精霊の世界を見出すことを通じて、自己を豊かにできると考えているのである。

私も、宮崎駿のアニミズム的感性が「風の谷のナウシカ」にどう反映されているのかについて、大きな関心を抱いてきた。この作品を読むことを通して、人々がアニミズムの世界を直感的に知覚する力を取り戻せるのではないかと考えたのだ。
ところが実際に、研究者として「風の谷のナウシカ」を分析し始めると、宮崎駿のアニミズムの射程は、人間と自然との関係にとどまらないことに気づいた。

作者自身も戸惑った「巨神兵」の振る舞い

「風の谷のナウシカ」には漫画版がある。もともとこの作品は、1982年から雑誌「アニメージュ」で連載漫画として始まった。その途中の漫画版の1-2巻を中心に再構成されたのが、1984年公開のアニメ版ナウシカだ。漫画版が完結したのは1994年で、ワイド版のコミックス7巻、1000頁を超える大作となった。

漫画版とアニメ版は、世界観や登場人物の設定は共通しているが、物語のテイストは全く異なる。アニメ版では、ナウシカがヒロインとなって世界を救済する一直線の物語が描かれるのに対して、漫画版ではナウシカが「なぜ、この世界はこのようになっているのか」「生命とはなにか」といった問いの探究に入っていくため、ストーリーラインはぐねぐねと混線している。それにともなって、読者はナウシカとともに思索の海に入る。つまり、漫画版は非常に哲学的な作品なのである。

「風の谷のナウシカ」(1984)より。

なかでも、最も大きな違いは「巨神兵」の位置付けだ。巨神兵は、かつての人類(古代人)が発明した、巨大な人型の殺人兵器である。世界を破壊し尽くした元凶でもあった。アニメ版では戦争のために巨神兵は封印を解かれて復活させられるが、途中で腐り落ちて崩壊してしまう。このとき、巨神兵は人間の科学文明の限界を暗示している。

他方、漫画版でも、巨神兵は復活させられる。ナウシカは世界の破滅を止めるために、巨神兵を破壊しようと向かっていった。ところが、巨神兵はナウシカに向かって「ママ」と呼びかけた。彼はナウシカを害するものを光線で焼き尽くし、守ろうとする。その姿は、まるで母親を追い求める子どものようだ。
このような巨神兵とナウシカの出会い方を、作者の宮崎自身も「どうすればいいのだろう」と戸惑いながら描いた。

破滅的な力を持つ巨神兵から「ママ」と呼び掛けられたりしたら、いったいどうするんだろうと考えるだけで頭がクラクラするんです。だから、ナウシカ本人の当惑はそのまま僕の当惑なんです。(宮崎、1996年、前掲署、524頁)

意思を持った「核兵器」を慈しむナウシカ

巨神兵は、明らかに核兵器の隠喩である。世界を破滅させるほどの破壊力を持ち、常に毒の光を出して、人間の健康に害を与える。前回も書いたように、宮崎は幼少期の強烈な戦争体験を持っている。また反戦主義者であり、どれだけ核兵器が罪深い存在であるかはよく理解しているだろう。それにもかかわらず、巨神兵、つまり核兵器が意思を持ち、自分を慕ってくるようなストーリーを展開させたのである。

ナウシカは、巨神兵の自分に対するまっすぐな思慕の念に直面して、葛藤する。彼女の目的は、巨神兵を再び封印することだ。その意図を隠して、母親のように振る舞って巨神兵を目的地に誘導する。幼子のように無垢な心を持つ彼に対して、ナウシカは「自分は生まれてはいけなかった」と知ったらどんなに傷つくだろうかと心を痛める。それと同時に、巨神兵が弱っている時にも、自分のことを守ろうとする姿を見て「やさしい子」だと涙を流す。

巨神兵は生命破壊への罪悪感はなく、全てのものを敵・味方にわける。ナウシカを害するものは容赦無く焼き殺し、それを楽しむ。だが、ナウシカが動揺し、彼女が自分へ怒りを向けると思うと、弱って震えてうずくまる。ナウシカは、自分が巨神兵を見捨てれば誰からも愛されない子になってしまうことを悟る。そして、覚悟を決めて、巨神兵にこう語りかける。

あなたは とても 強い力を もってる やさしい子 でも 立派な人に なるには それだけでは だめ 力の おそろしさも 学ばなければ いけないの 世界を 敵と味方だけに 分けたら すべてを焼き 尽くすことに なっちゃうの わたしの いいつけを 守って 立派な人に なりますか?(宮崎駿、『風の谷のナウシカ』第7巻、1995年、33頁)

 巨神兵はすぐに「ナル!! リッパナ ヒト ナル!!」と答える。それを聞いて、ナウシカは彼に「オーマ(無垢)」という名前を与える。その瞬間に、彼の能力は進化し、空を飛び、ナウシカの意思を遂行する従順で強力な兵器となる。
ナウシカは、オーマを連れて旅を続ける。物語の最終部で、彼は死力を尽くしてナウシカのために戦い、崩壊していく。彼の命が尽きる寸前、二人はこんな会話を交わす。

オーマ 母さん ………… よく見えない よく見たいのに ……… でも 母さんが 元気で うれしい ぼく 立派な人に なれたか 心配だ……
ナウシカ オーマ あなたは 私の自慢の 息子です 誇り高く けがれのない心の 勇敢な戦士 です それに ……… ……… とても やさしい子 です
オーマ …アサン ナカ…ナ ………… …………
(宮崎、1995年、前掲署、216-217頁)

最後のオーマのセリフを補完するならば「お母さん、泣かないで」だろう。彼はナウシカに見守られて死んでいった。

機械という無制限の献身をするものたち

このように、同じ巨神兵の崩壊の場面でも、アニメ版と漫画版では位置付けが全く異なっている。前者では科学技術の限界の象徴であったのに対して、後者では人と機械との心の交流が描かれている。重要なのは、ナウシカはあくまでも巨神兵を兵器として使役し、最後を見届けることである。彼は改心して破壊行為を悔いたり、ナウシカ以外の誰かに心を寄せたりといった、人間のような振る舞いは見せない。破壊のために生み出され、死ぬまで兵器としての役割を果たす。つまり、巨神兵はナウシカの子どもになったとしても、依然として機械なのである。
宮崎自身は機械について次のように語っている。

人間が機械を作るというのは、道具というと手の延長という感じがするけれども、機械というのは自分に対する、無制限の献身をする何かを作っているんですよね。それは生きものというと、あまりにも単純だけれども、でも、生きものの原型にあたるものを作っているんだという気がするんです。そうすると、何か、人間の心の中の最も高潔なもの、献身とか、自己犠牲とか、最近は流行らないけれども、やはり、人を感動させる何かは、ひどくシンプルなものなのだ。複雑なものの上に生まれてくるのではなく、もっとモノそのものが持っている、すごく原型に近いもので、この世界では石ころでも何でも、むしろ、そっちの方が持っている。(宮崎、1996年、前掲署、547頁)

上の宮崎の主張に沿えば、巨神兵もまた無制限の献身のために作られた機械である。実際に彼は自己の犠牲も顧みず、ナウシカに尽くし続けた。ナウシカが彼に名前を与え、死を看取りながら涙を流したのは、その純粋な献身に感動したからだろう。そして、その感情に多くの読者もまた、巻き込まれるだろう。巨神兵は兵器でしかないとわかっているにもかかわらず、彼のけなげさに心を打たれ、死を悲しむのである。宮崎は、このような人と機械との関係を成立させるものは、アニミズムではないかと提起している。

(前略)機械というものに霊的なものが宿るということもありうるのではないか。ですから、古くなったバイクに手をかけながら乗っている奴は、愛着深く機械につきあっていて好きですが、雑誌のカタログを見て、「これは良いな」と買い替えているのは嫌いです。やっぱり大事なものを落としているんじゃないか。二年ごとに新車を買い替えている奴も好きじゃないですね。機械の持っている不思議さに、一種のアニミズム的な力を感じとる人間の方が好きですね。

人工物を含むアニミズムは私たちを新たな領域へ連れていくか

環境倫理では、人間の機械文明と自然が対比されることはよくある。とりわけ日本では、里山の生活が参照され、最低限の機械だけを用いた持続可能な自然と人間の共生関係が理想像として描かれる。ところが、宮崎はいかにも機械的なバイクを取り上げて、そこに霊が宿るアニミズムの可能性を構想する。つまり、機械は自然を破壊する敵ではない。

ここで、前回述べた宮崎の倫理に戻ろう。彼にとって、生産すること、ものを作ることは倫理の基底にあった。2011年3月11日の東日本大震災の直後にも、彼はアニメの製作を続けた。それは、どんな状況においても人は生きようとするし、そのために食べ物を生産し、物語を創造するということに、善性を見出しているからだ。

「風の谷のナウシカ」(1984)より。

宮崎の倫理は、機械の製作に対しても当てはまる。人間は機械を自分の役に立てるという利己的な欲望によって生産する。それにもかかわらず、人間は機械に美しさや愛着を感じ、大事にしようとする。人間の文明の一面が、大量生産・大量消費にあり、それが環境破壊を招いていることは間違いない。他方、人間がそれまで地上になかった新しい存在・人工物を生産し、それとの関係を築いていることも確かである。

私は先日、机の上に置いていたマグカップを倒してしまい、お茶をノートパソコンにこぼして壊してしまった。ちょうど、自著が出版され、あちこちの取材に応じたり、トークイベントに出たりして、忙しくしていた時期のことだ。その後、数日、私は仕事ができなかったので休むことしかできなかった。私はそのとき、ノートパソコンが「身代わりになってくれた」と思った。そのまま無理をしていれば、私自身が健康を害したかもしれない。その話をすると、日本にいる友人たちの多くは笑って「きっとそうだ」と言ってくれた。宮崎の機械に対するアニミズムは、このような私たちの素朴な人間と人工物の関係を想起させる。私たちは、ときおり、人工物に宿るなにか、つまり意志を持つ存在を想定する。だからこそ、人間や自然だけではなく、人工物を愛する可能性はある。それも、人間同士の愛とは異なるやり方で。

人工物を含むアニミズム、というアイデアは私たちの想像力を刺激する。しかしながら、このようなアニミズムの考え方は、人間が環境を破壊してきた過ちを免罪することになるのだろうか。また、兵器を愛することは許されるのか。人間を殺し、自然を破壊する兵器の存在を、肯定することは、戦争肯定に繋がらないか。

このような疑問に対して、宮崎はアンサーになるような作品を製作している。2013年に公開された「風立ちぬ」である。この作品では、飛行機に憧れる少年が、戦争の中で戦闘機の開発に加担していくストーリーを描いている。次回は、「風立ちぬ」を取り上げて、宮崎の倫理を再検討しよう。

参考文献
出発点』宮崎駿(徳間書店 1996年)
風の谷のナウシカ』宮崎駿(徳間書店 1994年)