小松原織香

小松原織香

「もののけ姫」(1997)より。

(写真:スタジオジブリ / StudioGhibli

宮崎駿が描いてきた「環境と人間」

環境問題における修復的正義のフレームワークを構築する研究を進めている、小松原織香氏。環境問題を扱った芸術作品の筆頭ともいえる「もののけ姫」をどのように読み解くのだろうか。今回は「風の谷のナウシカ」と比較しながらみていく。

Updated by Orika Komatsubara on March, 20, 2023, 5:00 am JST

内部分裂をするナウシカ、人間側に付きつつも自然側との間を行き来するアシタカ

第三に、「自然と人間の共生」のビジョンである。「風の谷のナウシカ」には、自然との共生を目指して生活をしている「森の人」が登場する。かれらはできる限り自然の資源を使わずに、持続可能な生活を標榜し、志を同じくする人々の間に小さなコミュニティを作っている。ナウシカはそこに参加することを誘われるが断った。彼女は「森の人」たちの理念には共鳴し、そこで、自然を守りながら暮らしていくことに心惹かれているように見える。だが生まれ育った風の谷に住む人々たちへの想いは断ちがたく、かれらのリーダーとして戦場へ戻ることを選ぶしかなかった。ここでも彼女は人間と自然との関係のなかで引き裂かれている。

「もののけ姫」(1997)より。

「もののけ姫」では、アシタカは人間と自然との共生について、山犬・モロと直接的に対話を試みている。彼は「人と森が争わずに進む道はないのか」と問いかける。だが、モロからは、もう何もかも遅いという返答が返ってくる。彼は、サンのことをどうするのかと食い下がる。彼女は人間であり、森やもののけたちが犠牲になることに巻き込まれるべきではないと主張する。両者はこんなふうに言い争う。

アシタカ「あの子を解き放て! あの子は人間だぞ!!」
モロ「黙れ、小僧! お前にあの娘の不幸が癒せるのか。森を侵した人間が我が牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ。人間にもなれず、山犬にもなりきれん、あわれで醜い、かわいい我が娘だ。お前にサンを救えるか!」
アシタカ「わからぬ。だが、ともに生きることはできる!」
モロ「わっはっはっは、どうやって生きるのだ? サンとともに人間と戦うというのか」
アシタカ「違う、それでは憎しみを増やすだけだ」
モロ「小僧、もうお前にできることはなにもない。お前はじきにアザに食い殺される身だ。夜明けとともにここを立ち去れ」

アシタカの理想主義的な「自然と人間の共生」を訴える主張は、モロによって現実味のない話として一蹴されてしまう。実際に、この後、もののけたちと人間の全面戦争のなかで、山や森は破壊され、獣たちや神々は殺されていく。モロも命を落とすことになった。その後、アシタカはサンに対して「サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。ともに生きよう。会いに行くよ。」と告げる。彼にとって、人間側と自然側の間を行き来することが「ともに生きる」ことなのである。どちらかを選ばなければならないという葛藤はない。「風の谷のナウシカ」で繰り返し描かれる、ナウシカの内的分裂の状態とは無縁なのだ。

この作品を丁寧に見ていくと、アシタカは自然と人間を仲立ちしているように振る舞うが、実際には徹頭徹尾、人間の側についている。彼の頭のなかにあるのは、山や森の神々や獣たちではなく、自然側についているサンである。そこで滅ぼされていったものへの親密さはほとんどない。もちろん、彼は森のなかで暮らす精霊・コダマの存在に気づき、大切に思うような感性は持っている。だが、神々や精霊の命と引き換えに、製鉄業によって人々が豊かになっていくことを受け入れている。これは、まさに人間が歩んできた歴史であり、ナウシカがその犠牲への罪悪感で苦しんだのに対し、アシタカは犠牲を背に人々が前に進むことを肯定するのだ。