井山弘幸

井山弘幸

(写真:WindAwake / shutterstock

集めることを、知ること、創ることにつなげるためには

ものを集めるということは知識の獲得の手段になりうる。「もの集め」をざっと一覧して、もの集めが、知ることや、創る行為とどのように関わりをもつのか考えてみよう。

Updated by Hiroyuki Iyama on April, 17, 2023, 5:00 am JST

「計画的な収集」でダーウィンよりも早く進化論の論文を書き上げたウォレス。しかし、運が悪かった

他方、ほんの数ヶ月の違いでダーウィンよりも早く進化論の論文を書き上げることになるウォレスはどのような収集活動から進化論にいたったのだろう。

1837年の時に学校をやめて、兄たちの仕事を手伝い始める。大学出身の学者ではない。14歳の時だから、中学校を途中で終えたことになる。以後公教育は受けていない。2年後に『ビーグル号航海記』 が出版されているから、二人の経歴の開きは天地の差があった。

1846年から測量の仕事を始める。不労所得のあるダーウィンとは階級が違い、糊口をしのぐ必要がある。翌々年からアマゾンへ探検に出発し、帰国後『アマゾン、リオ・ネグロ紀行』『アマゾンのヤシの木』を刊行した。探検家と言っても昆虫採集をして研究のかたわら標本づくりをする職業的な動機があってのことで、後にダーウィンの働きかけがあって政府から年金を下賜されるまでは、重要な収入源であった。1854年新進の探検家として、ダーウィンに紹介された直後にマレー諸島に出発。1855年2月ボルネオで「サラワク法則」を書き、専門誌 Annals and Magazine of  Natural History 9月号に掲載され、学者としてのデヴューを飾る。二人の命運を分ける「自然選択」のアイディアから蝶の標本分布を解読した歴史的な論文「テルナテ論文」を書いて、1858年にダーウィンに送る。この二人の進化論学者の先取権についてはここでは詳しく述べないが、結果的に学会発表時にマレー群島で採集活動をしていて同席できなかったことが運命の別れ道だったのかもしれない。ダーウィンと違って、ウォレスは収集した昆虫標本をかなり早い時期から進化論の発想をもって眺めていた。近接した棲息領域では、種同士の関連が深いという仮説を検証しようと意図的に調査計画を立てたりしていた。

最後に友人のベーツ宛にダーウィンに認めて貰ったことの喜びを伝える手紙の一部を読んでみよう。

“ウォレスからベーツ宛書簡(1858年1月4日付) あの論文は、いうまでもなく、一つの学説を予告したものにすぎず、これからそれを展開しなければなりません。ぼくはすでにその計画を立て、この問題全体を網羅する本の一部を書き始め、まだ示唆しただけにとどまっている論点を詳しく論述しようと頑張っています……ダーウィンからぼくの論文のほとんど一言一句に同意してくれるという手紙をもらい、とても喜んでいます……ダーウィンが自然界において種の起原と変種の起原のあいだに違いがないことを証明してくれたなら、ぼくはもうこれ以上苦労して自分の仮説を書き進めなくてよくなるのですが……あるいは、別の結論に達して僕を困らせるかもしれません。いずれにしても、彼はぼくが心を動かされるような事実を提供してくれるでしょう。“

「計画的な収集」という彼のスタイルが、収集を発見や創造に結びつける一つの有力な方法であることを裏書きしている。だけれど、この後に起きた「微妙な調整」で進化論の先取権を奪われた事情を読むと胸に迫るものがある。

以上、ニュートンの小石拾いから始まって収集のエピソードを一覧したけれど、単なる収集とか闇雲に集めるだけでは、そこから何かは生まれえない、ということを確認できたように思う。

参考文献
ニュートンと贋金づくり―天才科学者が追った世紀の大犯罪』トマス・レヴェンソン 寺西のぶ子訳(白揚社 2012年)
『メアリー・アニングの冒険──恐竜学をひらいた女化石屋』吉川惣司、矢島 道子(朝日新聞社 2003年)
郵便配達夫シュヴァルの理想宮』岡谷公二(河出書房新社 2019年)
無能の人・日の戯れ』つげ義春(新潮文庫 1998年)
『古典落語 選』興津要編(講談社 2015年)
『ダーウィンに消された男』アーノルド・C・ブラックマン 羽田節子、新妻昭夫訳(朝日新聞社 1997年)
ビーグル号航海記』 チャールズ・ダーウィン 島地威雄 訳(岩波書店 1959年)
『マレー諸島―オランウータンと極楽鳥の土地』A・R・ウォーレス 新妻昭夫訳(筑摩書房 1993年)