現代アートは「勝てば官軍」?
近年、映画館で作品をみる機会がだいぶ減ったが、二年ほど前に久しぶりに出向いて、これは面白いと感じたのが『TAR/ター』という映画である。このタイトルは主人公である女性指揮者の名字だが、ブランシェット(K.Blanchet)が不気味に演じている。世界最高峰のオーケストラを指揮する彼女はその高い能力で、業界では圧倒的な評価を得ており、多くの賞とともに、アマゾンの民族音楽学分野で博論を書いたりしている。と同時に同性愛者で、女性パートナーと同棲しつつ、若い女性音楽家を様々な手段で籠絡しようとする。これが男性だったら単なるパワハラ指揮者だが(モデルがいるらしい)、それを女性に置き換えているために微妙なひねりが効いていた。しかしここでの論点はそこではない。
途中、どこかの大学で学生相手に講義を行うシーンがある。そこで登場する長身の学生は、見た目は男だが、自分はジェンダー・フリーだという。この学生は、女性に対するバッハの態度が気に食わないとかで、彼の音楽を忌避する。これに対して、ターは様々な例を挙げて反論するが、結局学生は怒って退出してしまう。 このシーンは実は隠し撮りされており、後に悪意をもって再編集、公表されターを窮地に追い込むというポスト・トゥルース的後日談もついてくる。ここでの関心は、このジェンダー・フリー氏のバッハに対する批判である。作者と作品の関係が複雑で一筋縄ではいかない点は別稿でも論じたが、ここには現在の歴史的な潮流から過去を断罪することについての、映画製作者の問題意識も暗示されている。
特定の芸術作品がどのような過程で評価され、あるいは評価されずに歴史の闇に消えていくかという問いの答えは難しい。だいぶ以前の話だが、アートとはあまり縁も無いように見えた情報工学系の友人が、酒の席で「現代アートって結局『勝てば官軍』ですよね」と笑いながら語ったのを覚えている。要するに、どんな形ででもいいから「勝って」しまえば、それが正当とされる、という趣旨である。だがよく考えると、これはある意味この業界の恐ろしさを暗示しているともいえる。
評価システムが存在するのかすらよくわからない世界
いまや日本を代表する著名現代アーティストが、かつて芸術系の大学を出て自ら現代アーティストとして出立すると決 めた時のことを、「全く何の指針も存在しない世界に飛び込む」とテレビ番組で表現していた。勝てば官軍かもという曖昧な期待はあったかもしれないが、ではどう勝てばいいのか、全く暗中模索の状態だっただろう実感を示している。
この点は学術の世界とはかなり様相が異なる。もちろん学術界もどういう研究が大きな成果をもたらすかについては大きな不確実性がある。それゆえまた、既に何回も指摘したバンドワゴン、則ち比較的成果が挙げやすい方向に研究テーマが流れていくという傾向もある。しかしその逆を張り、全くの未踏の地に果敢にチャレンジするケースもあり、研究の最前線の様態は複雑である。
とはいえ、キャリアという点を考えると、特定分野で成果を挙げ、ジャーナル等にコンスタントに投稿して認められれば、大学を中心としたアカデミックな環境の中でそれなりの職を得るという未来図を描くのはそれほど非現実的ともいえない。他方、先程の著名アーティストの発言にあるように、アート業界では、そもそもどういう形でその作品が評価され、更にそれがどんな制度内キャリアに結びつくのか、その構造は全くもって分かりにくい。
例えば評価の問題がある。科学領域では、同業者による査読という仕組みが強力に確立しているため、まずもって自分の分野を決め、その範囲内で評価してもらうというやり方が中心である。逆にいえば、そうした最小限の単位がそれなりに成立すれば、小さいながらもその分野は機能する。このシステムは汎用性があり、影響が人文社会系にも及んでいるが、別稿で論じた ように、そこに問題がないわけではない。
他方、こうした科学業界の定番と比べ、アート業界において、どういう評価のシステムがあるのか、そもそもシステムといえるものがあるのかすらかなりあやしい。特定のアーティストに制度化された同業者集団がいる訳でもなく、また彼らが内々でお互いの作品を褒めあったところで、話しはそこで終わってしまう。作品や行為を評価する集団は、実はその外側にいる。そこでは、一般大衆から、コレクター、更に様々なタイプの専門家がいて、美術館から画廊まで様々な職種が絡んでいる。更には本邦独自の画壇のようなシステムもあり、その内部での評価と、いわゆる現代アート界隈のそれが大きく食い違っているという話はよく知られている。
あるとき突然、評価がウナギ登りになることもある
またその評価の基準も分かりにくい。ゴッホの作品は生前全く評価されず、死後やっと、という話はかつてよく聞いたが、実は神話で、生前から既に評価が高まっていたらしい。他方、ある時点まで全く無視されていたのに、途中から何故か評価が急に高まるという実例はいくつもある。小さな箱の中に神秘的なイメージを張り合わせて、今では評価が極めて高いコーネル(J.Cornell)の作品も、初期の評を見ると、甘ったるいセンチメンタルな作品という感じでほとんど無視されていた。極めつけは、今や英国を代表する具象・肖像画家とされるルシアン・フロイド(L.Freud)で、祖父があの精神分析の祖のため、こういう姓を持つ。その伝記を読むと、友人であるフランシス・ベーコン(F.Bacon)が、その不気味な人物画の連作によってあっという間に国際的な評価を得たのとは対照的に、フロイドの人物画等は当時の英国界隈では評価があまり芳しくなく、本質的に地方の二流画家という評価が一般的であったという。状況が一転するのは、後に新たな画廊が彼の作品をニューヨークで売り出そうと攻勢に出た時である。すると当時の若手画家の間で強い反響があり、それがきっかけで評価がウナギ登りに高まったのである。
別の面白い例もある。これも『ビッグ・アイズ』という名の映画に関係する。これは60年代のアメリカ、ハリウッドで大流行した、大きな目の子供の姿を描く画家の話である。作者はウォルター・キーン(W.Kean)という男性だったが、実は奥さんのマーガレットが実作者で、後にこの点を公開して大騒ぎになるという内容である。著名な男性文学者の実作者が実はその奥さんだったという別の映画もあり、人気のテーマのようだが、興味深かったのは、この映画が日本で公表されたときのオンライン上の反応である。キーンの作品を映画で見た人々が、これは著名な現代アーティストの誰それの絵にそっくりだ、とか、彼の師はビックアイ作家だといった指摘がオンライン上に溢れたのである。確かに似ているような気もするが、その評価については明らかに命運が分かれた。日本の方は、本邦を代表する作家としてその評価が高まる一方だが、ビッグアイズの方は、大衆的人気はともかく、当時の批評家の評価は散々で、現在に至るまでそれが見直されたという話は聞かない。先駆的ポップアートという声がでないのだ。
大衆の人気を得られればいいわけでもない
また、一時期評価が高くとも、安心していられない面もある。神秘的な風景画で有名なフリードリッヒ(C.D.Friedrich)の絵は、晩年の時期には当時の小市民的な風潮とそぐわなくなり、人気が急落したという。あるいは先程の『ター』のシーンのように、業界にPC的な空気が蔓延してくると、イデオロギー的論難の対象とされてその権威が失墜するという事態も多発しそうである。しかし当然全ての流行には盛衰があるように、こうした断罪もいつまで続くかは不明である。
こうした評価構造の分かりにくさという点によって、先程の「勝てば官軍」という名言(?)には多少舌足らずなところがある点も分かる。そもそも何をもって「勝つ」とするのか、その定義そのものがあまりはっきりしないのである。少なくともこの業界において大衆的な人気をえることは、ここでいう「勝つ」には入らない。あくまで様々な専門家(最終的には現代美術史を書くようなそれ)が歴史的に認定した、という意味が勝つの意味に近いが、他方それが極めて少数の専門家内部だけで称揚されても、あまり勝ったとはいえなさそうだ。そして官軍になるというのは、それを正当化する言説によって武装されているという意味であろう。
科学の世界でも評価は人間関係に影響される
だが話が更にめんどくさいのは、そうした正当化も、その時々の偶然に大きく依存しているのではという気がするという点である。似たような作風の二人の作家の評価が大きく異なる場合、その背後にはさまざまな要因、例えば人間関係的なそれが介在していると いうケースも大いにありうる。
こうしたベタな人間関係的な背景が実際の評価につながってくるというのは、他の分野でもよく聞く話である。科学の最前線でも、いかに海外の研究者と多く食事を共にし、ワインをどれだけ飲んだかが重要だ、といった話を本邦の複数のノーベル賞受賞者がしている。私自身の分野でも、他人の論文を引用するという行為は、単に学術的な先行研究の呈示といった話に止まらず、しばしばその著者との個人的連帯、あるいは一種の身内意識の表現という、特殊な副次的な社会的機能がある場合も少なくない。これは実際に国際誌に投稿するとよく分かってくる。
かつて70年代、記号論的な議論で一斉を風靡した文化人類学者は、その浩瀚な著作にも係わらず、一度も受賞したことがなかった。晩年友人である精神分析系の学者の助けでやっと受賞できたのである。デュシャン(M.Duchamp)が現代アート史に巨大な影響を残した背景には、彼の言説や作品のユニークさだけではなく、彼が特にニューヨーク界隈で作り上げた極めて広範な人的ネットワークの力も無視できないのである。
色々とすったもんだがあり、ターは有名楽団の指揮者の座を終われ、どこかのアジアのゲーム音楽か何かの指揮をするシーンで映画は終わる。全く指針のない世界でも、それなりに高い評価を得ているアーティストをめぐる複雑な力学を、どう理解するかという問いは、畢竟我々にとってそもそも価値とか評価とは何か、というかなり本質的な問題をも反省的に呈示するのである。
参考文献
『ルシアン・フロイドとの朝食-描かれた人生』ジョーディ・グレッグ 小山太一、宮本朋子訳(みすず書房 2016年)
『マルセル・デュシャン』カルヴィン・トムキンズ 木下哲夫訳(みすず書房 2003年)