福島真人

福島真人

平原に群れを成す羊たち。モンゴルにて撮影。

(写真:佐藤秀明

朽ちる現代アート

先端技術が生まれると、かつての技術が陳腐化することがある。そのとき、かつての技術の基盤の上にのっていた物事の再現はどこまで可能なのだろうか。異なる基盤に乗ったものは同じ「作品」と言えるのか。また経年変化したものはオリジナルと同じだと言えるのか。科学技術社会学の専門家・福島真人氏が紐解く。

Updated by Masato Fukushima on April, 26, 2022, 8:00 am JST

「自然が風雪という名の鑿を加える」

先日拙著『学習の生態学』の文庫版を出版した際に、新たな表紙として使わせていただいたのが砂澤ビッキによる「四つの風」という彫刻作品の写真である。ビッキというのは、アイヌ語で蛙という意味の愛称だが、周りの人に対して「おれをビッキと呼べ」と常に命じていたというので、ここでも敬意を込めてそう呼ぶことにする。ビッキのこの作品は、札幌芸術の森野外美術館にあるが、表紙に使ったのは、その初期の姿である。現在この作品は風雪の影響で三本が朽ちてしまい、残り一本だけが残っている。こういう事態が生じたのは、生前ビッキが、「(自分の制作後は)自然が風雪という名の鑿を加える」として、自然による変化も造形の一つと言い残したからである。実際、ビッキの生前にキツツキが作品に巣を造り始めたそうだが、彼はそのニュースにとても喜んだという。

私が感銘を受けたのは、その作品の魅力に加え、彼の思想そのものである。実際どんな作品も自然の鑿、もっといえば熱力学の第二法則(エントロピー)の影響を受ける。すべての作品は劣化し、放っておけばいずれ朽ち果てる。他方、人間にはそれをくい止め、自己維持を計る(スピノザ(B.Spinoza)風にいえば「コナトゥス」)という営為もある。それがアート作品ともなればなおさらである。実際に関係者の間では、崩壊が進む「四つの風」に対して、これ以上の倒壊は防ぐべきだという声も上がったという。しかし激論の末、ビッキの遺志を尊重して、「四つの風」は自然の鑿に任せることになった。ある意味、変化の過程そのものもこの作品の核だからである。

特定技術に依存する作品に代替技術を使用できるのか

アート作品がこうした時間的過程の中にあるという認識は、戦後日本の前衛芸術の一派「時間派」による、アートが作品と観客の時間的関係性の中にあるという考えや、スパイラル・ゲッティのようなランドアートで有名なスミッソン(R.Smithson)による、エントロピー理論のアートへの応用など枚挙に暇がない。だがここで特に関心があるのは、以前「テクノロジーの補修論的転回」というタイトルで論じた、保存・補修問題という観点からみたアート論である。

グランドセントラル駅の大時計
ニューヨークのグランドセントラル駅にある大時計。四面にオパールの文字盤があるこの時計は駅のシンボルである。

 アートという言葉が元来技や技術という意味があるという点(それゆえ美()と訳される)から言えば、補修論的視点はそのままアート作品にも当てはまるように見える。実際作品の補修や保存は、アート業界のインフラ維持的活動として、社会的重要性をもつ。他方、そこにはこの業界固有の性質もある。「四つの風」の保存をめぐる激論はその氷山の一角であるが、同様の問題は、いろいろな所で顔をのぞかせている。

例えば先日大手新聞でも紹介された、メディア・アートの保存問題という興味深い話がある。先駆的なビデオ・アートで国際的に有名なナムジュン・パイク作品は旧式のブラウン管を使うが、それが製造中止になり、作品の展示が難しくなりつつあるというニュースである。この話は以前美術館関係者から直接聞いたことがあるが、このニュースの教訓は、新興テクノロジーを利用したアート作品は、その技術の急速な陳腐化、代替化によって、作品の維持、補修に困難をきたす可能性があるという点である。

やっかいなのは、作家自身がこうした事態を想定し、作品の保存条件を事前に定式化しているとは限らないという点である。フロッピーディスクや8ミリフィルムといった古い情報媒体の処理は誰にとっても頭が痛いが、アート作品では、単に情報をある媒体から別の媒体に転写すればことが済むというものでもない。特定技術に依存する作品において、代替技術を使用することが作品の「同一性」にどうかかわるかという問いは、ほとんど「『作品』とはそもそも何か」という哲学的問いと同じ難問なのである。

新興領域は、「先端」性の代償がある

ある意味、すべての表現形式にはこうした表現媒体の劣化、あるいは環境の変化への対応(不)可能性という問題がある。この点興味深いのは、音楽や演劇のように、その楽譜(シナリオ)とその演奏(上演)が二重構造になっているケースである。こうした形式では、演奏(上演)はあくまである時空に限定される一方、骨格としての楽譜(シナリオ)は文字として記録されている。この記録形式だけでは作品にならないが、他方この方法は、時空にかかわる変化には柔軟に対応できるという利点もある。何百年前につくられた音楽や演劇が上演される場合、古い様式にしたがうか、あるいは新しい状況に合わせて翻案するかという点については選択の幅があり、その意味では非常に柔軟なシステムである。あるいは災害等について言われる言い方を使えば、「レジリエント」な表現形式と言っていいかもしれない。この概念は、周辺部が環境に対して柔軟に変化しつつ、コアの部分は維持されるという二重構造を意味している。

他方、こうした分業が存在しない表現形式では、一方の軸は一回きりのパフォーマンス型となり、他方では物質的特性に依存する絵画や彫刻といった形式になるが、後者は時間による材質の劣化という宿命は避けられない。他方伝統的な分野では、その修復・保全に関するノウハウや技術はかなり蓄積されている。問題は、世間で「先端表現」といった名称で喧伝されている新興テクノロジーを利用した表現形式(その中にはメディア、バイオ、更にはAI等いろいろあるが)である。この新興領域は、「先端」性の代償として、テクノロジーの急速な陳腐化に対応する必要がある。かつての遺伝子技術をベースにした作品を現時点でみると、その技術の微妙な古めかしさが気になるが、逆に既に先端的で無くなったため、時間という風雪を感じさせる場合があるのも面白い。

オリジナルだけが重要か?

問題は、そこに補修や保存という要素が入って来た場合である。前述したナンジュン・パイク問題は、こうした非伝統的な素材を利用した「先端表現」が、その新規性の故に保存や補修が追いつかないという点が顕著になりつつあるという事態を示している。更に、作者たちがそもそも作品を残そうと考えているのかも必ずしも明確ではない。例えば、パフォーマンスは原則一回きりであるし、インスタレーションのように、特定空間に様々な展示をして、期間が終われば撤収する場合、たいていの場合モノとしての作品は残らない。しかしそれ以外の場合、その作品を残すのか否か、そして残すとしたらどのような方法でやるべきなのか、広く共有された枠組みが存在しないように見えるのである。

興味深いのは、絵画や彫刻のような伝統的な分野でも、何をどう修復するかは実はそれほど単純ではないという点である。現在、作品のオリジナルな状態に近い形で復元するのが一般的だという印象があり、特定文化財のもともとあった鮮やかな色彩が見事に復活した、といったニュースを聞くことがある。しかし、こうしたオリジナル中心主義に対する違和感が表明されることも少なくない。14世紀フランドル地域の巨匠ファンエイク(J.van Eyck)の『ヘントの祭壇画』は、別名『神秘の子羊』とも呼ばれる傑作であるが、中央に描かれた光り輝く子羊の表情が、修復の結果、羊というよりも人間の顔のように見え、ウェブ上では驚きや動揺の声が広がったというのがその一つの例である。

オリジナルがそうなのだから仕方ない、というのも一つの意見だが、この点については違う考えもある。画家の山口晃は、こうしたオリジナル重視の修復に対し、人々がその作品について施してきた改変の積み重ねもまた、作品をめぐる歴史的な蓄積と考えられないか、と異議を唱えている。実際に骨董の世界では、歴史的な修復や経年変化自体、それが辿ってきた時間の流れを示す痕跡として、高く評価される場合も少なくない。

イタリアにおける絵画修復実践と、その背後にある思想的潮流を論じた田口かおりによれば、オリジナルの状態に還元することだけが修復と考えられていた訳ではなく、歴史的経過をも考慮にいれた修復という考え方も根強いという。実際、過去の作家たちは、表面に「古色」(Patena)と呼ばれる着色ワニスを塗ることで、作品にいい感じの古さを加味するような習慣もあり、修復の際にそれも洗い流してしまうことで、オリジナルそのものも棄損されるのではという激しい論争を生むことになった。

世界一太い木
メキシコの州都オアハカにあるイトスギ。世界一太い木で、直径14.8mある。この巨木は教会の中庭にあったので切られなかったという。

こうした考えに近いのは、本邦でも近年その作品の贋作が流通して騒ぎになった有元利夫のような作家のケースである。彼の作品は、ピエロ・デラ・フランチェスカや古仏像等に影響を受けた特異な画風で有名だが、彼自身は、古色に近い雰囲気が作品に感じられることを、「風化」という言葉で肯定的に論じている。この点では、建築家たちも例外ではない。かつて新旧建築家たちの討論で、若手建築家たちが、民家や伝統集落における落ち着いた佇まいを何とか設計で再現できないかと語ったのを読んだことがある。それに対して、そうした雰囲気は長い歴史的な変遷の結果生まれたもので、即席に作り出せるものではない、と建築史学者にやんわり反論されていたのが印象的であった。

ビッキは問う「作品とは何か」

モノを基盤とした表現は、必ず経年劣化の影響を受ける。しかし、こうした変化を単に劣化ととらえるのか、それとも作品が経由する必然的な過程として肯定的に評価するかは、論じる者の思想的、哲学的な立場と直結している。そして新興テクノロジーを多用する現代アートのかなりの部分は、こうした側面についてかなり無防御だという印象が否めないのである。もちろん、こうした先端的表現は、いわば「旬が命」と考え、それゆえパフォーマンスやインスタレーションとして「今ここ」でのみ機能する、そういう「刹那の美」だというのであれば、それはそれなりに潔い。しかし従来の絵画や彫刻と同様に、時間の流れにも耐えてほしい、と暗に願っているとしたら、何か方策が必要である。それはインフラを論じる際に必ず出てくる、維持や修繕といった補修論的問題がついて回るからである。

「四つの風」に関するビッキの遺言は、まさに彼自身のアート、そして自然観を深い形で表現したものである。それは、多くの現代アーティストやその関係者たち、更には社会一般に対して、「作品とは何か」という重要な問いを新鮮な形で問うているのである。

参考文献
『没後25年 有元利夫展―天空の音楽』イデア・ジャポン編(イデア・ジャポン 2010年)
20XXの建築原理へ』伊東豊雄、藤本壮介、平田晃久、佐藤淳(LIXIL出版 2009年)
ジェイムズ・リー・バイヤーズ 刹那の美』坂上しのぶ(青幻舎 2020年)
風の王―砂沢ビッキの世界』柴橋伴夫(響文社 2001年)
保存修復の技法と思想―古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで』田口かおり(平凡社 2015年)
真理の工場―科学技術の社会的研究』福島真人(東京大学出版界 2017年)
学習の生態学―実験・リスク・高信頼性』福島真人(筑摩書房 2022年)
『ヘンな日本美術史』山口晃(祥伝社 2012年)