精神病院で見た「分散認知」の原形。医師が現地の不動産事情に異様に詳しい
もう今から20年以上前のことになるが、当時現場の学習課程という問題を研究していた縁で 、精神看護系の人々と知り合いになるチャンスがあり、精神看護の現場を直接観察する機会を得た。隔週で東京都下の私立精神病院の病棟を訪問したが、その地域ではそれなりに歴史がある病院である。訪問当初は古い小学校の校舎のようなたたずまいで、患者たちは八畳一間の畳敷きの部屋に一緒に寝起きしていた。数年たつとだいぶ「近代化」が進み、総ベッド式に変わったので、病院という雰囲気が強まったが。とはいえ都心からかなり離れたところでもあり、低山に囲まれたのどかな環境であった。
ここで学んだことは多かったが、現場学習のみならず、日本の精神医療の歴史や海外との制度面での比較などもかなり勉強した。特に大戦を挟んだアメリカ精神医療制度の大変革と、それに係わった膨大な量の社会科学的研究は興味深く、中にはかなりの量の民族誌的調査もあった。そこには後の科学技術社会学(STS)、特にラボラトリー研究の先駆となるような研究も存在していた。その学説史的な意味が分かるようになったのは、だいぶ後になってSTSに本格的に参入した時である。
さて、上述した病院では精神看護の周辺で多くの知見を得たが、例えばチーム医療、つまり医師、看護師、作業療法士、そしてソーシャルワーカーといった多職種の人々がお互い協力しあって患者に対応している様子が興味深かった。例えば病棟の日常生活においては、作業療法の役割は大きく、また患者の社会復帰に関するソーシャルワーカーの奮戦ぶりも印象的であった。実際、分業といってもお互いの職分が微妙にオーバーラップしている面もあり、社会復帰に熱心な医師が、現地の不動産事情に異様に 詳しいといった様子も興味深いものであった。後にハッチンス(E.Hutchins)という認知人類学者の「分散認知」という言い方が業界の一部で流行ったが、その原形のような話である。
激しい症状を呈した患者がすっきりした顔で退院していく一方で
患者の状態にも色々あり、症状が激しく大声を出して暴れたりする患者を見聞する機会もあったが、彼らは一時的に閉鎖病棟という、ドアに鍵がかかる病棟に入り、そこで治療を受ける。それとは別により症状の安定した患者用の開放病棟もあり、そこでは患者は自由に出入りができる。一見すると閉鎖病棟の患者の方が重症で、開放病棟の患者がより症状が軽いように見えるが、スタッフに話を聞くと必ずしもそうでもないらしい。実際私自身が見聞したケースでも、入院時に興奮し職員数名が取り押さえなければならないぐらい大暴れしていた青年が、3ヶ月もすると完全に復調し、すっきりした顔で退院していった。他方、開放病棟の患者たちが大暴れした例はあまり知らないが、症状がある意味固定していて、なかなか退院に結びつかないというのが当時のスタッフの悩みの種であった。
実際、入院が長期化し、そこでの環境に慣れすぎると、そこから外へ出て仕事をするのもなかなか難しいらしい。当時、患者の退院を積極的に推進していた別の病院でも、一度退院した患者が行くところがなく、再度病院に戻ってしまうというケースが少なくないと聞いた。病院と社会を結ぶ中間施設が発達しているカナダの医療システムから学ぼうというので、現地から専門家を呼んで講演会を開催していた。
この問題の解決が困難なのは、入院の長期化により患者の高齢化が進み、病院自体が介護施設のようになって来るという面があるからである。そうなると、新規の患者の受け入れが難しくなる。この件について中井久夫が、ダムとその底にたまる土砂という比喩でその状況を説明しているが、実際使える病床の確保は、こうした病院経営にとって最重要課題の一つである。