小二田誠二

小二田誠二

(写真:Yoyogi Design Lab / shutterstock

生成AI元年、教育の現場では何が起きたのか

生成AI元年となった2023年、教育現場ではどのような変化があったのだろうか。静岡大学で地域研究について教えている小二田誠二氏のレポートを紹介する。

Updated by Seiji Konita on March, 22, 2024, 5:00 am JST

教材配布もコメントの回収もすべてオンライン化

大学教育のDXは、感染症拡大に伴って否応なくやってきた。2020年度、対面での新入生ガイダンスもないままにオンライン授業が始まった。もちろんそれまでに個人用端末もWi-Fi環境も、そして各種LMSも普及していたからできたことだ。とはいえウェビナーの経験など全くなかった私の場合は走りながら習得するしかなく、同時配信だけでなく、動画や音声ファイルの作成に明け暮れた。

その春入学した学生たちの多くが今春卒業した。大変な4年間だったと思う。そしてこの4年間で少なくとも私の教育環境は一変した。教材配布もコメントの回収もすべてオンライン。ついでに学外の市民講座の教材もHTMLで作成し、QRコードを印刷配付してダウンロードしてもらうことが増えた。ペーパーレス化である。こうした変化を元に戻し、コピーを切り貼りした資料を印刷して配布する授業に戻るなど、最早あり得ない。

そういった災禍に伴う大きな変化が一巡しかけたところで、次の変容がやってきた。それが、ChatGPTに代表される生成AIである。ChatGPTが世間に広まったのは2023年頭のことで、専門家でない限り、一年後の状況を正確に予想出来た人はほとんどいないだろう。大学では2023年度の授業計画を書き上げた後だったので、これまた専門家でない限り、シラバスで生成AIを話題にした人もいなかったはずだ。そして年度初め、各大学は研究教育現場での生成AIの(主に不正な)使用に関するガイドラインを策定・公開を始めた。実際、学期末には様々な問題が具体的に発生したが、ポジティブな面も見えてきた、というのが現状である。

美術品の解説文を書いてみよう

実は、私の専門に近い分野では、その少し前からAIによる技術革新が話題になっていた。一番大きな話題は、2021年夏、所謂くずし字判読アプリ「みを」の公開である。それ以前から、人文学オープンデータ共同利用センターでは「KuroNet」というAIによるくずし字認識サービスを公開していたが、携帯端末で資料を撮影し、そのまま認識して文字化するアプリの公開は、専門外の人たちにも大きなインパクトがあったに違いない。さらに自動翻訳の精度も日々高まり、ブラウザなどでも自動的に行われるようになったし、国会図書館をはじめとしたデジタルアーカイブでは文字列検索可能なテキストも格段に増えている。実際、私もそれらを使う授業を展開し、一部の成果を公開してきた。こうした状況の中で、いよいよ生成AIが登場してきたわけだ。

前期の授業ではこれらの影響を大きく受けることはなく、検索方法の解説や「みを」の紹介程度であったように記憶しているが、後期に入って意識的に使用することが増えた。大学の授業の現場の話に入る前に、高等学校での実践について紹介しておきたい。

私は毎年、県内外の高等学校の大学説明会に登壇しているが、多くの場合は学問分野の解説がメインで、抽象的な話が多い。今回、新規で伺った愛知の県立高校では、大学の授業の疑似体験という要望があったので、「絵を読む古文」という演題で錦絵の読解を試みた。材料にしたのは筆者の架蔵資料だがWeb上にもある歌川国貞の「百人一首絵抄 四(山辺赤人)」である。生徒たちには、授業の一週間ほど前を〆切に「この絵について、美術館などにある解説文を意識して、100~200字で見どころ解説を書いてください。作者や作品名などの基本情報は不要です」という宿題を課し、回答を確認した上で授業に臨んだ。

皆さんならどう書くか、先に進む前に少しお考えいただきたい。

歌川国貞「百人一首絵抄 四」(小二田誠二氏の個人蔵)

錦絵の中の文字は読めないのが当然?

この絵は大学でも高校でも私の授業では定番教材で、主に「見立て」ということを考えさせる入り口として使ってきた。風景画ではなく美人画なのは?というところから「富士額」「雪化粧」といった言葉が想起できればとりあえずはOK。しかし今年は更に前に進むことにした。高校生たちの多くが「解説」という課題に「感想」を書いてきたのにも驚かされ注意喚起したが、それより多くの人が左の札にある和歌は想像で読めて解説に使っても、右の解説文を無視している事を指摘した。つまり、錦絵の中にある文字情報は読めないのが当然で、解釈する必要が無いと思っている生徒が多いのである。実際、美術館でも錦絵の中の文字を全文翻刻したキャプションが付くことは珍しい。

文字部分の拡大図

授業では、文字部分をとりあえず教室のスクリーンに大写しして「みを」を実演した(実は古文書カメラ「ふみのは」も使用したが、その評価については触れないでおく)。

此心はたごのうらのたぐひもなきにをふねさし出してかへりミるてうぼうかぎりなくして心にも?ばにもおよばぬふじのたか手のゆきを見たるこゝろみをおもひ入てぎんみすべしうべのねへな事おもしろき事をもたかのたるをもことばにいたさずして只そのていばかりをいひのべたるところもつとも寄妙なり(※「?」も出力のまま。)

ちなみに正解は、

此心はたごのうらのたぐひもなきをふねさし出してかへりみるにてうぼうかぎりなくして心にもことばにもおよばぬふじのたかねのゆきを見るこゝろをおもひ入てぎんみすべしうみべのおもしろき事をもたかねのたへなる事をもことばにいたさずして只そのていばかりをいひのべたるところもつとも奇妙なり

であり、「みを」の精度には改めて驚かされる。

charGPTの登場前から古文翻訳ソフトは活躍していたが……

板本『百人一首絵抄』という先行テキストの存在を紹介し、絵師や版元、改印などの概説も行い、問題は次の現代語訳である。生徒たちの多くが、こういう場合に「ヤフー知恵袋」が使えることを知っていたが「左大臣どっとこむ」の認知度は低く「古文翻訳装置」や「ねこいりねこ」は全く知らないようだった。高校生は知らない方が良い、という考えもあるだろうから、予めこのあたりに触れることは予告していた。高校の授業も大変だ。

さて、今改めて「古文翻訳装置」で現代語訳してみると、以下の結果が出る。

これは心をおそらくごのみらのたぐいもない終えるねるのを途中でやめ出してかえりみることでえるぼう限度をなくして心にも言葉にもおよばない富士山がたかなけれの矢を入れて背中に背負う道具を見る気持ちをおもい入が手をぎんみせるべきであるうみべが趣深い事をもたかなけれのたえである事さえも言葉に激しさをするしてただその手をいるなら鳫をいいがのばしていると服みやげも奇妙である

この時点で既に興味深いのだが、その前に生成AIを試す。当時ChatGPTはSMS認証が必要だったので、携帯電話を持っていない私には使えなかったが、この時点で使うことのできたGoogle bird(現在のGemini)とMicrosoft Bingに、本文をそのままコピペし「以下の本文を現代語訳してください」と入力、指示した。今、改めて同じ作業をすると、かなり正確な訳を提示するが、半年前はそうではなかった。例えば、

この歌は、新古今和歌集の恋の歌の部に収められている。しかし、恋の歌としては、珍しく、自然の景色を詠んだ歌である。
作者の山辺赤人は、平安時代中期の歌人。自然を愛する心が深く、多くの名歌を残している。

などという、驚くべき解説まで付いてきたことがあった。

研究には、情報学も古文読解も必要

さて、生成AIは使えるか使えないか、という雑談ネタならここまでで済むのだけれど、授業である。生徒たちに、AIは何を間違ったのか、そして、今のツールでより良い回答を引き出すとしたら、こちら側でどういう工夫が可能か、と聞いてみた。最初は何を聞かれているのかピンと来ないようだったが「英語に自動翻訳させる場合でも、英語に翻訳しやすい構文を意識的に書くことがあるよね」などと話している内に「単語を切る」「漢字を宛てる」などの意見が出てきた。提案をその場で試してみせると、格段に改善することが分かる。その上で、実は古文の教科書や文学全集などの活字テキストには、元々無かった句読点や引用符、宛て漢字、濁点などの処理がなされている、というような話をする。実際、区切りも宛て漢字も、大学生でも最初から正確に出来るわけではない。正確な解釈が出来て初めて出来る作業であり「現状ではまだAIには難しい」と言うことも話した。上に紹介した奇妙な現代語訳もAIが何をどう読み間違えたか、例えば「矢を入れて背中に背負う道具」という一見突拍子もない訳が「靭(ゆき)」であり、「服みやげも」が「と ころもつと も」と切り間違えた結果であり「ところ、最も」とすれば改善すると気づけば、誤読にも俄然興味がわくのである。これは、連文節変換など、日本語文法と情報処理、更に古典語の解釈が交錯する興味深い部分でもある。

それから「情報」必修化や「みんなで翻刻」が地震研の人たちによって始まったエピソードなども紹介して、学問分野に関係なく、情報学も古文読解も必要だよね、という話に繋げる。もちろん、そのことに気づけない生徒、どんな場合でも今実演して見せた1つの対処法が通じると飲み込んでしまう生徒もいるようだったが、短時間ながらインパクトは大きかったように思う。

「情報リテラシー」を理解していても、目の前の情報の扱い方はわからない

もう1つ、ここで問題にしたのは、この歌が「新古今和歌集の恋の歌の部」にあり、赤人が「平安時代中期の歌人」であるという記述に、私が指摘するまで殆どの生徒が疑問を持っていないように見えたことである。実は、宿題の段階で、複数の生徒がネット検索の誤った結果をそのまま引用していた。高校生でもGoogle検索は当然できる。しかし、ヒットした情報の評価は殆どしていない。これは大学生にも言えることで、一年次生の大きな課題になっている。この高校はICT教育に積極的に取り組んでいるそうで「情報リテラシー」という言葉も生徒たちは普通に使う。しかし目の前の情報の扱い方が分からない。アナログを含む資料を大量に比較する経験を積んで精度を高めていくしかないだろう。まず、そこに気づくことから始める必要がある。

この授業は私にとっても有り難い経験だったので、大学の共通教育(主に人文学部以外の学生対象)の授業でも概要を説明し、実際に取り組んでもらった。さすがにリテラシーは高いし、最終課題でも生成AIを試した報告に興味深い物がとても多く、今後のヒントを沢山得ることが出来た。他学部、特にいわゆる理系の学生たちと共に学ぶことは、共通教育の醍醐味であり、本当は人文の学生も一緒だったらさらに楽しかろうと思うのだけれど、人数的にもちょうど良かったので、贅沢は言うまい。2024年度は、学科の専門科目で似たような授業を試みることにしている。

メディアが言語表現の変容を促してきた。これからもその流れは変わらない

この授業とは別に、専門の授業でも少しだけ生成AIを試した。静岡大学周辺を調べて紹介するような地域研究の基礎を学ぶ授業で、ローカル短編小説を書きたいという班は、実際最終課題の1つをAIの補助で作成したし、伝承を絵本化した班ではイラストを生成して、妙なテイストの作品が生まれた。それぞれ成果は公表している。

もちろん、不正使用によるレポートや論文は今後さらに増え、見抜くのも困難になっていくだろうし、AIとのコミュニケーションのなかで「向こう側」に寄り添いすぎて自らの自由な表現が抑制されるのではないかという危惧もある。とはいえSNS同様、規制してどうにかなるものではなく、経験値を上げながら、そのメディアでの最適解を模索していくしかないのだろうと思っている。言語表現がメディアを変えるのではない。メディアが表現の変容を促してきた。これからもその流れを止めることはできないだろう。高校でも大学でも、現代語訳を含む翻訳の授業では、学習者が最新技術を駆使して「予習」してくることを妨げようがない。教師はそれを前提にして、その先を考える必要があるだろう。AIの精度が日々向上しているように、まさに今、絶えず動いている最先端の分野でもある。教師も学習者も、自覚的、能動的に関わり続ける必要があるしその魅力も十分にある。

ところで、実は私は2024年度の入試問題を話し合う段階で、上で紹介したような、ある古文テキストと、それを生成AIで現代語訳させたものを提示して、間違いやその原因を指摘させたり、正しく訳させるための工夫を提示させるような問題のアイデアを提案したことがあった。結局種々心配の声があって却下されたので、高校の授業で使うことができたわけだが、同僚たちはから「面白いし、今後こういうものが出てくるだろう」というような感想もあった。思い起こせば、言語文化学科が総合問題を始めた2006年度、漫画を小説風にリライトさせ、比較検討させる問題を作ったのも、私も参加したチームだった。入試問題によって発するメッセージは重要である。

共通テストも個別試験も、今後様々に変わっていくだろう。もちろん授業内容も。旧来の文学・語学観を否定するつもりはないし、実用言語だけ学べば良いなどとは思わない。しかし、今改めて、そういう二項対立の枠組みから言語文化を解き放って問い直してみる必要があるだろうし、その良い機会が来ていると思っている。