インフラは老朽化や故障によって初めて可視化する
科学技術社会学(STS)の分野において、目に見えて派手に展開する新興テクノロジーだけでなく、その背後に隠れて地道に社会を支えているさまざまなテクノロジー、すなわちインフラ技術の働きにも目を向けようと提唱したのは、スター(S.L. Star)である。彼女の念頭にあったのは、バイオ系ラボでその重要性が急速に増してきたデータベースのような知識イン フラであるが、その視点はその後のインフラ研究にも受け継がれている。
スターはインフラの特徴としていくつかの点を挙げたが、特に重要なのは、インフラはそれが機能する限り「不可視」(invisible)であり、老朽化や故障によって初めて「可視」化(visible)するという指摘である。実際水道管や電線は、それが詰まったり切れたりして不具合が生じない限り、住民が心配して夜も眠れないということは考えにくい。安全や平和同様、インフラもそれが順調に機能している限り、維持、補修の関係者以外にはその存在があまり目に見えない。その意味で、「不可視」と呼んだのである。
インフラはそもそも「見えない」?
確かにインフラをその機能面から考えると、可視/不可視とはそれがうまく働いているか、否かという点と同義になる。しかしこの言葉をその視覚的な意味から見なおしてみると、また違った問題が生じるのも事実である。例えば水道管はたいてい地下に埋まっていて、日常的にその姿を見ることはできないが、ガスタンクや給水塔はその雄姿を公衆の面前に晒している。ではこうした意味での「可視/不可視」については、どのように考えたらいいのであろうか。
ここで試しにインフラという言葉の語源を見てみると、これには諸説ある。一つの説は、フランス語由来の言葉で、もともとは道路を支える「表面下」(infra)の「構造」(structure)を意味するという。これが正しいとすると、原義でも物理的には見えないという点がポイントのようだ。それが他分野に拡張されてきたのだが、これを「下部/構造」と訳すと、マルクス主義の用語に変貌する。いうまでもなくマルクス主義では、経済、特にその生産様式が、他の社会要素を決定するとされるが、この前半が下部構造、すなわちインフラ・ストラクチャーである。実際、ドイツ語のUnterbauを英語でinfrastructureと訳している場合もあり、これもどちらかと言えば、表面、つまり法や芸術といった上部構造から隠れた、しかし決定的な力をもつ、というニュアンスがある。
機能だけで論じてよいのか
ここでSTSのインフラ論に戻ると、インフラもまたテクノロジー体系の一つだから、その製作者/ユーザー関係も重要とされる。実際、テクノロジーの社会的構築論や、その発展系である各種のユーザー論に通呈するのは、テクノロジーの形成において、ユーザー集団が果たす役割の重要性である。エンジニアの設計意図とユーザーの使用実態の齟齬、設計されたテクノロジーがユーザーによって異なる目的で使用されるケース、ある いは両者間のフィードバック関係といった点が強調されてきた。
しかしこうした議論も、煎じ詰めればテクノロジーの「機能」的側面がその議論の中心にあるという印象は否めない。他方、インフラの可視/不可視という先程の話をその「物理的な」可視性に拡大してみると、ずいぶんと話が変わってくる。例えば、ガスタンクや給水塔があのような形態をとるのは、その目的にしたがった機能的設計によるものだが、それが環境の中でどう住民の目に映るかはまた別の話である。実際こうした景観を目にする住民の範囲と、そのユーザー(サービスの享受者)の範囲は必ずしも一致しない。
インフラ技術に関するエンジニアサイドの議論を見ると、従来のインフラ設計の前提がその機能一本槍(+その経済性)であり、審美的な側面、つまりその物理的な可視性の問題についてはあまり考慮に入れてこなかったという反省が目につく。そこでこれからは審美的な面も考慮にいれた設計を、ということで、道路計画にアーティストを参加させた、といった報告が目につくようになってきた。
景観を誰が評価するのか
しかしよくよく考えると、これもまた製作者中心の視点から脱していない側面がある。つまり製作者が審美的な観点をその対象に加えれば、それで話が済むというほど、ことは単純ではないという点が理解されていないようなのである。この点はアート作品の評価を考えてみれば分かる。特定の作家が自分の作品をレンブラントやゴッホ級と信じるのは自由だが、実際にその価値を決めるのは歴史、もっと言えば美術専門家や評論家、コレクター、一 般大衆を含めた、多様な観客集団である。この点を最も明確に示した一人が、プラグマティズム哲学で有名なデューイ(J.Dewey)で、彼はアート作品(artwork)とは、「アートの働き」(work of art)という意味だと考える。そしてその働きは、作品を見る観客の視点、経験にあると主張した。このデューイの考え方をインフラに応用したのが、ここで推奨するインフラ美学(infrastructural aesthetics)という視点である。
インフラ美学の主体は、制作者でなく、広い意味での観客である。ここでいう「観客」というのは、美術館に展示されている作品をわざわざ入館料を払って見に来る、いわば由緒正しい(?)観客というよりは、インフラが作り出すある種の環境/景観を経験する可能性がある人々の集合である。インフラ美学は、この観客の集合体の経験に着目するが、明らかにそれは非常に曖昧である。実際、物理的に可視的なインフラを見たり、経験したりする人々は非常に多様であり、その中にはその現場に住んでいる人たち、たまたま通りすがりでそれを見る人、わざわざ遠くからそれを見に来る人々等が、その範疇に含まれる。
この多様性は、実は景観という概念の複雑さにも深く関係している点を、複数の研究者が指摘している。歴史的にもlandscapeという概念が、土地(land)にかかわるさまざまな規制や慣習と深く結びついているという指摘もある。特に西洋のlandscape概念史では、こうした法的な側面から段々とその視覚的な側面へと重心が移動してきたという。
見慣れたはずの景色がインスタグラムに溢れる理由
景観をめぐる論争がしばしば混迷を極めるのは、人々が毎日いわばほとんど当たり前の光景として見ている環境と、旅行等でわざわざそれを見に行くような景色を、「景観」という同じ言葉で表現している点にある。ある研究者は前者を「環境(terrain)としての景観」、後者を「景色(scenery)としての景観」と区別している。前者は生活の中で見慣れている景観であり、後者は旅行等でわざわざ異郷に見に行くような景観のことである。テレビ番組で、地元の料理法がよそ者には驚きと見なされる、といった光景をよく見るが、その地方ではソースをかけるのが当たり前だが、他の地方から見ると「それはないだろう」となるのと似た違いである。
インフラ美学では、こうした微妙な反応の違いが重要な意味をもってくる。環境としての景観、すなわち毎日見なれた景観では、極端な話、どんなインフラ構造体があっても、生活環境の 光景の一部となりうるし、それはいわば見えていても見えないような状態になる。他方、そうした構造体を観光でわざわざ見に行く場合は、その壮観がインスタグラムにあふれることになる。
電柱に心性を見る
こうした違いを端的に示すのが、同じインフラでも非常に異なった扱いを受けている二つ、つまり電柱/電線(以下電柱と略記)およびダムのような存在である。既によく知られているように、電柱は近年行政関係者の評判が悪い。景観を害する、先進国には存在しないといった議論が多く、かなりの費用を使ってそれを地中下するという政策が一部進行中である。他方、ダムのような巨大インフラは、それ自体が生態系に与える影響についての議論がある一方で、その威容を観光資源にしようという目論見から、インフラツーリズムといった和製英語すら考案されている。しかも同じ国土交通省がこの両方を支援しているのである。
しかしよくよく調べてみると、電柱景観もすべての人が反対しているわけではないようだ。実際電柱はあまりにどこにでもあるので、それは見えているようで見えない存在でもあり、多くの人がその存在を気にしていない。そこでこうした景観の批判者は(たいてい海外の事例を持ち出して)住民のいわば感覚麻痺を嘆いたりする。他方、反電柱のキャンペーンに対しては、一部が反発して電柱景観を改めて評価するような活動をしたり、あるいは高名なアニメ監督が電柱のある景観を強く擁護する発言をしたりする。更に、電柱等を含めて、こうした町中のインフラ構造物に関係する出版物も近年増えているのである。