岡村 毅

岡村 毅

奥多摩にて。多摩川の河岸でシャボン玉に興じる少年と祖父らしい男性の姿があった。1980年ごろ撮影。

(写真:佐藤秀明

予防できない認知症。自分を疎外するのは、老いや死を受け入れない態度である

科学技術や医療の発達により私たちは長寿になった。しかし、未だ「老い」からは逃れることができない。科学者たちは懸命にこの「老い」を封じ込めようとしているが、事態はそう簡単ではない。それよりも今は、「老い」を受け入れることの方が重要なのではないか。高齢者のメンタルヘルス研究を続けている岡村毅氏の言葉を紹介する。

Updated by Tsuyoshi Okamura on June, 6, 2022, 9:00 am JST

多くの人は、弱さと共に生きることになる

医療技術の進歩は目覚ましい。「多くの病気が治るようになった」ということは素直に喜びたい。いまだに治ることのない病気や障碍を持つ人のことを決して忘れてはならないが、人は戦争や事故にあわない限り、多くの場合に健康で長寿の人生を送れるのだ。これは歴史上類を見ないことであり、人は神のごとくなった(ホモデウス)という論点は、確かに一面の真実ではある。

しかし、光があれば影がある。高齢者の現実の医療に長年携わってきた立場からは、もう一つの真実も語らねばなるまい。健康に気をつけていれば、いつまでも心も体も健康で元気いっぱいで過ごせる、というのは虚構である。人間は、長く生きれば身体は自然に弱り、認知機能は低下するものだからだ。

多くの病気が治るようになった、と先に書いた。確かに死ぬことは大幅に減った。しかし、病気の合併症や後遺症がなくなるわけではない。例えば、糖尿病の治療や管理は進歩した。したがって、多くの人が網膜症(目が見えない)、腎症(透析)、神経障害(しびれなど)と共に生きねばならないのだ。現代社会の高齢者の多くは障碍と共に生きている。私たちは、長く生きれば障碍と共に生きるという現実に直面しつつある。

「本来なら元気いっぱいだ」と思い続けて生きることは幸せか?

しかし、それに目を背ける現代人は多い。筆者は高齢化する団地で集いの場を作り、医師による健康相談を行っている(いわゆる医療アンメットニーズを探索するという研究の一環である)。相談内容は、膝痛、腰痛、尿もれ、若いころのように元気に過ごせない、といったものが多い。よく聞くと、重大な身体疾患はなく「年のせい」としか言いようがないのだが、「テレビでは治ると聞いた」と言って、怒りと共に様々な医療機関を渡り歩いている。多くの場合、彼らは孤独な人々である。「テレビではヒアルロン酸やら尿もれパッドやらのCMばかりですよね。みんな困っているのです」というと、はっとした顔をする。そして、「同年代の方と交わりましょう、みんな困っているということが分かります。あなただけではないのです。あなたは孤独ではありません」と伝えると分かってくれることが多い。

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バンクーバー空港。早朝はまだ誰もおらず、静けさが漂う。

高齢期は弱さと共に生きると聞くと、「そんなことは聞きたくない」と暗い気持ちになるだろうか。だが、少し立ち止まって考えてみよう。年をとっても心も体も健康で元気いっぱいで過ごせると信じて生きても、時間には抗えないのであるから、必ず弱っていくものである。これに怒りながら「本来は元気いっぱいだ」と思い続けて生きることは幸せだろうか?

考え方を変える時期に来ているのではないだろうか。私たちは健康長寿社会を実現した。良いことだ。だから、弱さと共に長い高齢期を生きるのである。冒頭に「いまだに治ることのない病気や障碍を持つ人のことを決して忘れてはならない」と書いた。他人事ではない、自分事だ。自分たちも長生きをすれば障碍をもつ。だからあなたも、障碍があっても幸せに過ごせる社会を作ることが必要なのだ。障碍があっても大丈夫な社会をつくること(ノーマライゼーション)は単なる理念ではなく、あなたの老後を左右する切実な現実である。

時には正しい教えさえも捨てていかねばならない

歴史上は高齢者という人はほとんどいなかった。現代は65歳以上を高齢者としているが、65歳以上の人の数が増えたのは最近のことである。老年学には100年くらいの歴史しかない。

ところが、いまや老年学は現代社会の最重要課題を扱う学問となった。老年学が社会でまだ認知されていなかった時代に、新たな世界を切り開いた先達に最大限の敬意を払いつつ、いまある老年学の上にあぐらをかいていたら研究者としては破滅だと思っている。

仏教の「中部経典」にこんな話がある。ある旅人が大河を渡ろうとした。筏を作って無事にわたった。もし旅人が「この筏は大変役に立った。この筏は捨てるには惜しい。担いで道を歩いて行こう」と思ったとしたら、それは間違いである。「この筏は大変役に立った。だが、この先は不要だ。この筏を捨てて行こう」と思わねばならない。ブッダは、誤った教えは捨てなければならないし、時には正しい教えさえも捨てていかねばならない、とこの筏の話で言っているのだ。老年学ですら捨て去るときが来るかもしれない。

認知症は予防できないと思った方がいい

古い考えを捨てる時期だということを、(私は認知症の専門家なので)認知症を例に話そう。認知症が老いを代表する状態であることに異論はあるまい。社会の関心もとても高い。しかし専門家の立場から見ると、多くのひとが誤解しているように思われるので、一つひとつ見ていこう。

1つ目には、予防の限界である。運動がいいとか、ある食べ物がいいといった報告がなされると、大きく報道される。でも「運動が認知症を予防する」証拠はないのだ。運動が健康に良いことは確かなので、きっと認知症も予防できると考えるのは自然だろう。確かに、運動不足の中高年は認知症発症リスクが高い。しかし、運動不足の人が認知症になりやすいのは、そもそも運動不足の高齢者に「認知症の前駆期で活動低下しているひと」が多くいるからなのである。つまりこういうことだ。運動不足だから認知症になるのではなく、認知症の手前だから運動も減っているという、因果の逆転なのである。運動は楽しいし、仲間もできる。楽しくやればいい。しかし、認知症予防にはならないのだ。

なにも健康に気をつけて生きるなと言っているのではない。しかし、認知症は予防できると思っていると、認知症になった場合に「ああ失敗した」と本人が思ったり、周囲が「あなたが真面目にやらなかったからよ」と叱責されたりすることもある。実際に、健康にとても気をつけている人が急に認知症になることもある。「認知症は予防できない」あるいは「なるときはなるのだから、それまで健康に気をつけて運動もして楽しく生きよう」くらいに思っておいた方がよいのではないだろうか。

100歳で認知機能が低下しないのが異常

2つ目には、薬の開発の限界である。かつては謎とされていたアルツハイマー型認知症に関しては、2000年代に世界的な研究が行われ(ADNI研究という、生きている人の脳画像や血液・髄液バイオマーカーを追っていくという画期的な研究で、筆者も少し関わっていた)、発症のだいぶ前から脳にアミロイドが溜まることが確認された。これを受けて2010年代は、アミロイドが溜まる前に介入することで溜まらなくする根本治療薬が開発されてきた。残念ながら、それらはほとんどすべて失敗に終わった。最近では、アミロイドは原因ではなく結果かもしれないとも言われている(アミロイドが溜まっているのは事実だが、アミロイドがすべての悪さをしているのではなく、何かが起きたのでアミロイドが溜まっているという因果の逆転である)。

とはいえ最近、喧々諤々の議論の末に、米国ではある治療薬が認可された。この薬については欧州は否定し、日本は様子見のようである。筆者は医師として薬の開発の大変さや価値を十分理解しているし、関わっている知人もいるので、ぜひ成功してほしいと思う。この薬はともかく、今後より良い薬がどんどん出てくることを祈っている。

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共に歩いてゆく男女。横浜にて2019年ごろ撮影。

だが、冷静に考えてほしい。薬が身近になったら、認知症は撲滅されるのだろうか?高血圧や糖尿病の良い薬はあるが、患者は増え続けている。認知症もおそらく同じことだろう。近未来には、おそらく廉価な健診を50歳くらいで受ける。そこで「アミロイド(あるいは、その頃は新しい物質が登場しているかもしれない)が増えていますね」という結果だと、「じゃあ予防薬を処方しておきますね。飲み忘れがないようにしてくださいね」とでも言われる。毎日か毎月かはわからないが薬を飲み続けると、数週間、数か月あるいは数年は発症は遅れるのかもしれない。でも、いつかはなるだろう。認知症の人がいなくなることはない。いやむしろ、医学の発展と共に、ますます増えるに違いない。

3つ目は、超高齢期の認知症については実はまだ何もわかっていないということである。超高齢期には、認知機能検査は確かに低下しているがその人の「人となり」は何十年も全く揺るぎがない人もいるし、アミロイドが溜まっているが生活障害が目立たない人も多い。近年は、神経原繊維変化型認知症(tangle only dementia)や嗜銀顆粒性認知症(AGD)といった、超高齢期に見られる新たな認知症群が語られるようになってきた。まだ我々は高齢期の脳に何が起きるのか、分かっていないのである。現代の認知症の分類体系は、100年後にはすっかり塗り替えられているに違いない。

そもそも50代の認知症と、90代の認知症を同列に考えることに無理がある。90代で認知症があったら、それは普通だ、と思った方がよほど楽である。100歳で認知機能が低下していなかったら、異常である。

老いや死を受け入れない態度は自分たちを疎外している

あなたは、老人病棟に行ったことがあるだろうか?さまざまな疾患を持ち、そして疾患が治らなかった高齢者、自宅ではもはや過ごせない人が長く入院している場所である。多くの人々が認知症を持っている。長期入院や社会的入院は許せない、という意見はひとまずここでは置いておこう。家族がいない人や、家族のケアでは過ごせない人がここにいるからである。しかし老人病棟にいる人々も、青春を謳歌し、様々な経験をし、そして治らない病を得た人々であり、かけがえのない有限の生の最期を生きている人々なのである。医療的なケアだけではなく、長い人生の果てに弱っていく人を支え、尊厳をもって死を迎えるように支援することもまた、現代の医療者に課せられた使命である。

老いや死を受け入れない考え方に基づくと、このような高齢者をケアすることに意味は薄い。「どうせもう治らない、残念な人たちだ」と思ったら、虐待まであと一歩である。

老人病棟のスタッフは、私の見るところ、ほとんどが患者さんの尊厳を守り、愛情をもってケアをしている。だが、最期をどのようにケアするかということは、きちんと教えられていないように思われる。また、自分の気持ちの持ちようや死生の捉え方についても、きちんと学ぶ機会は与えられていないようだ。これからの課題であろう。

デジタル化が進み、社会が人工物であふれる現代において、私たちの生身の身体―老いや死から逃れられない内なる自然―の有限性は、いっそう際立っているように思われる。老いや死を受け入れない態度は、自分たちを疎外していることに他ならない。では、老いや死を受け入れる医療はどのように実現すればよいのだろうか?千年単位でこの問題を扱ってきた宗教者との協働も視野に入れる時期が来たのかもしれない。

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参考文献
岡村毅他.地域在住高齢者の医療の手前のニーズ:地域に拠点を作り医療相談をしてわかったこと.認知症ケア学会誌 2020; 3: 565-572
Okamura T et al.(2020) Everyday challenges facing high-risk older people living in the community: A community-based participatory study. BMC Geriatrics 20, 68.
Kivimäki M et al.(2019)Physical inactivity, cardiometabolic disease, and risk of dementia: an individual-participant meta-analysis. BMJ 2019;365:l1495
岡村毅. 認知症治療はどこまで進んでいるか─エビデンスと若干の考察. 日本医事新報4988号 2019年