新田浩之

新田浩之

かつては大温水プールがあった救世主キリスト聖堂。

50年前のソ連・モスクワを振り返る 東側陣営のベールをめくる

世界を揺るがしているロシアによるウクライナへの侵攻。もしかしたら、このまま再び世界は分断されるのかもしれない。しかし、断ち別れた世界の「向こう側」にも生活は続く。そしてそれは、ときどきふとした瞬間に開く小さな扉から見えることがある。そしてそれは、市井の人々の残す日記といったごくプライベートな記録にしか残らないことがある。
ここでは、1972年にソビエト連邦を旅したある自治体職員の日記を紹介する。閉ざされた世界の実が見えてくるだろう。
紹介するのは、日記の持ち主の孫であり、チェコ親善アンバサダーの新田浩之氏である。

Updated by Hiroshi Nitta on June, 8, 2022, 9:00 am JST

兵庫県が実施したソ連・西欧諸国の研修旅行

2022年1月1日、私は数年ぶりに祖父母の家を訪ねた。ちょうど家の大整理中だったらしく、約10年前に亡くなった祖父の遺品が次々と見つかった。その中で発見されたのが1972(昭和47)年に兵庫県が実施したソ連・西欧諸国の研修旅行の旅行記であった。

この旅行の正式名称は「第2回兵庫県自治体職員等研修」といい、兵庫県職員、神戸市他9市の職員、警察官、国保診療所医師、青年技術者および熊本県職員が参加し、総数は80人にも及んだ。

祖父は兵庫県の公務員として働き、当時はちょうど50歳。まさしく働き盛りの頃だ。話は脱線するが、旅行から50年、祖父の生誕100年にあたる2022年に旅行記が発見されたのは、単なる偶然ではないだろう。

旅行記は1972年10月13日から始まり、同年11月3日で終わっている。約3週間の旅路となり、訪れた国はソ連、デンマーク、イギリス、フランス、オランダ、西ドイツ、スイス、イタリアだ。当時、海外旅行が一般的ではなかっただけに、祖父の文章からは日本との違いが驚きを持って生き生きと書かれている。現在となっては単なる旅行記というよりも、価値の高い歴史的資料といっても過言ではない。

社会主義の親玉に行く楽しみ

さて、この文章で取り上げるのは最初の訪問国となるソビエト連邦、すなわちソ連のモスクワだ。1972年当時のソ連はブレジネフ時代であり、まだまだアメリカと肩を並べる超大国であった。つまり東側陣営のドンだったのである。

このように書くと、西側陣営の日本、しかも公務員がソ連を訪問できたのか、と思うかもしれない。1970年代の米ソ間は冷戦構造の中にあったものの、「デタント」緊張緩和の時代であった。アメリカとソ連との首脳会談も行われ、スターリン時代と比べると段違いに東西間の交流が行われていた。在日ソ連大使館発行の雑誌「今日のソ連邦」1975年版を見ると、日本からも労働組合を中心にソ連への訪問が相次ぎ、まったく閉ざされた国ではなかったのだ。

一方、一般旅行者がソ連を訪問する際は観光ビザが必要。ビザ取得に際しても事前にホテルの予約や訪問都市の報告義務など、いろいろと煩雑な作業が待っていた。「渡航はできたが、気軽に訪れることができない国」、日本人にとってソ連はこのような存在だったのではないだろうか。

亡くなる数年前、祖父はソ連訪問をこのように振り返っていた。「社会主義の親玉に行くのだから、それはものすごく楽しみだった」。祖父は決して社会党や共産党を支持しておらず、政治的スタンスはどちらかというと保守だったように思う。しかし好奇心は人並み以上であり、ソ連旅行に対しては並々ならぬ期待を持っていた。それでは1日だけではあるが、50年前のソ連旅行を楽しんでほしい。

10月14日 モスクワ
 朝早く目覚める。5階からの眺めはいかにもソ連的である。赤の広場の近くに位置しているので、クレムリン宮殿の塔、城壁の一部が望まれる。国営のゆえかまた国民性のゆえかのんきなもので、小さな点の配慮がない。
 室内照明は裸電球で風呂場に石けんもなく、トイレの紙も雑なものである。タオルも2枚。それも十分洗濯しているようには見えない。室内の調度品も実にあっけない。
 周辺は広く私の部屋からはモスクワ河をはさんで市街が望まれる。小雨が降ったり止んだりで窓のはるか下の植え込みを4~5人の婦人が掃除をしているが、未だ外はうす暗く雨もさして気にしないようである。
 バスを待つ人が数人が立っており、大型バス(トロリー)の回数も多く、あまり混んでいる様子もない。自動車道の向こうは豊かな水量の河が流れ、対岸は火力発電所か、石炭船が着岸している。河は少し濁ってはいるが、ごみらしいものは一片も見えない。大陸らしい眺めだ。

 朝食後、バスに乗る。空港バスよりは少しましである。白布は相変わらず薄汚れている。同乗の女性通訳もツンとしていかにも女性的であるが、どこか冷たい。サービス業であるという意識はなく、国営企業の中のインテリア意識が強いのか。
 街にはほとんどポスターにいたるまでの宣伝看板、広告がない。一定の場所に限られている。街全体、裏通りにいたるまで樹木が多い。黄葉のシーズンでもあり、大きな葉を落としている。鉄柵に囲まれた公園が随所にあり、芝生と木々で美しく彩られている。女性の大部分が帽子かネカチーフをかぶり、街の暗さに明るさをそえてくれる。一般に服装は質素である。

 街ぶりが戦前に訪ねたハルピンに似ている。白系ロシア人の築いた街であり、革命で故国を追われた人々がモスクワをしのんでハルピンを建設していったのであろう。バス停は総ガラス張りで立派であり、冬季に適していよう。

赤の広場
50年前と変わらぬ表情だが、とりまく環境は大きく変わった赤の広場。

 赤の広場に出る。実に広い。レンガの敷石は角がとれ年代を偲ばせ、よくマッチして美しい。石よりも良く、ましてコンクリートでは台無しである。雨に濡れで風情がある。レーニン廟まで歩く。廟の前に2人の兵隊が立番し、交替兵が妙な歩調でやってきた。
 一昔前の兵隊時代を思い出させた。カーキ色の制服は若々しく、子ども子どもした兵隊もいた。廟の前は観光客の他、ソ連国内からのお上りさん風の老人も多く、別にお参りする様子もない。故フルシチョフと夫人の百姓スタイルに似ている人も多い。グム百貨店が休日で寄れなかったのは残念。プーシキンの像も雨にくすぶっていた。
 モスクワ大学で下車。本館中央の240mの尖端部分は雲の中で見えない。4万人の学生は無料で勉強しているが、全国から選抜されたエリートの中のエリートとか。校内の並木としてリンゴの木があるが、実がなり美しいそうである。車で大学をぐるっと周ったが、どの方向から見ても同じである。海抜200mのレーニンビルから全市がみえるはずが雨で果たせず。遠くから大陸上競技場が見えた。
 白樺とナナカマドの街路樹が交互に植えられている。巡査の姿は一人も見かけもなかった。往年のKBG、今いずこ。大通りの商店の前はかなりの人出である。週休2日制で今日は土曜日のせいでもある。だが子どもはあまり見かけない。明日、日曜日には出てくるとか。アイスクリーム売りの親父が大声をあげている。ごみ焼却炉の熱を利用した大温水プールで市民の遊びを写す。

 一流のレストランと言われるアラクビに入る。入口は飾りもなく入るとすぐ階段を下りると、堂々たる大小の部屋がある。階段も時代が経った大理石であり、帝政ロシア時代の貴族の社交場を思わせる。天井も壁もロシア調の壁画でうめられている。

 料理はまずまずである。量は小柄な日本人には多すぎる。平たく大きなパンが意外にうまい。ウオッカ、アップル酒、納豆似の煮物、マス、赤キャベツ、鶏のもも、ハム、チーズ、バターがふんだんに出て1人10ルーブル、約4,000円とか。食事を終え、入口に来ると雨の中を市民が傘もささず順番を待っていた。ちょっと異様に思う。彼らは雨を我々のようにうとまない。

 クレムリン宮殿に入る。赤の広場の反対側の坂を登り、城門をくぐる。古い城壁に囲まれ、約20の塔がその中間にそびえ、城壁の外の斜面の芝生は実によく手入れされている。15世紀末のロシアとイタリアの芸術家によって建てられた由。広場は黒光りのする石だたみであり、5代の皇帝の廟(ウスペンスキー寺院、ブラゴベシチェンスキー寺院、アルハンゲルスキー寺院)納骨堂が金色と異様な形で立ち並び、円頭の塔は宗教的に異様である。イワン大帝の鐘、一度も発射されたことのないズングリした大砲など。ソ連最高閣僚会議の建物、近代的な議事堂などがこの城壁内にある。

 有名な地下鉄に乗る。地下深くエレベーターは急速に下りていく。プラットホームは広く立派であり、ここにも壁画がある。これが駅かと思うほどである。有事は防空壕となるので、ステンレススチールの厚いぺトンでおおわれている。電車は緑色で中は普通である。
 夕刻7時からボリショイ劇場でバレーを見る。チャイコフスキーのジゼル、劇場の内部は写真で見ていたが、金色の壁画は例のごとくケバケバしい。天井は高く、7階の天井座敷からオペラグラスで舞台を見る。木こりの娘をめぐる王子と娘の恋人の葛藤で、貴族の親は財力で娘をしばり、娘の母親もそれを望むが娘は往時を嫌う。暗転して幽界に狂い舞し、倒れて幕。
 ホテルの隣のベリョースカで琥珀のネックレス、ペンダントを買う。商品は総体に野暮である。
 夜のレーニン広場へ写真を撮りに出る。若者が我々の時計を売れと寄ってくる。奥さんに腕をひっぱられている中年の酔っ払いが盛んに話しかけてくる。11時半ホテルに戻る。
(日記引用ここまで)

ソ連国民の間では共産主義の神通力は減退していた

祖父はソ連に対して辛辣な感想を残していたことがわかる。先ほどの私に語ったソ連旅行の感想には続きがあり、「期待はしていたが設備などは貧弱でがっかりの連続だった」と語った。
超大国ソ連の実態はあくまでも軍事大国であり、軽工業などの国民生活は西側陣営よりも後塵を拝している。これが祖父の言わんとしたことだったのだろう。

また人々の共産主義に対する姿勢が垣間見られるのも興味深い。赤の広場にあるレーニン廟前に人はいたが、特にお参りに関心はなかったという。この頃になるとイデオロギーとしての共産主義の神通力はソ連国民の間では減退していたのだろう。
筆者が2019年4月に訪れた際はレーニン廟に入るために、多くの人々が列を成していた。ひょっとしたら、資本主義体制下の方がレーニンに対する関心が高いのかもしれない。

一方、50年が経過したこともあり、モスクワも様変わりした。祖父が泊まったヨーロッパ最大級のホテル「ロシア」は2006年に営業を停止し、最終的に取り壊された。現在は大公園「ザリャージエ公園」になっている。
また屋外プール「モスクワ」もソ連邦崩壊後に亡くなり、代わりに救世主キリスト聖堂が建っている。もともとロシア革命前から救世主キリスト聖堂は存在していたが、スターリンがソビエト宮殿建設のために聖堂の爆破を命じた。最終的に土地が軟弱であったため宮殿は建てられず、温水プールに取って代わった。

この文章を書いている5月時点で、ロシアとウクライナとの「戦争」は終わっていない。日本人がモスクワを訪れるのはなかなか厳しい。戦争が終わった後のモスクワ、ロシアはどのような表情をしているのだろうか。