広井良典

広井良典

竹下通りの傘の波。人とすれ違う時は反対側に傘を傾げるのがマナー。でもここには反対側にも人がいる。

(写真:佐藤秀明

異なる時間を生きた私たち

前回、広井良典氏は都市型コミュニティを実現するための方法と、そのヒントとなる「時間」と死生観について説いた。ここではさらに「時間」に対する考察を深め、空間と融合していく方法を探る。

Updated by Yoshinori Hiroi on June, 24, 2022, 9:00 am JST

失われた30年を終わらせるための「定常型社会」

進化医学の視点から考えても、人類は誕生以来ほとんどの時間を狩猟採集によって生活してきた。人類史の視点から考えて見れば、農耕時代以降の時間の流れが身体に馴染んでいるとは考えにくく、おそらく本来の身体のリズムからは離れたところで生活しているはずだ。工業化してからはますます生きるリズムは速くなり、人類は時間的にはかなり無理をした状態にある。そもそも病気というのはこうした点に根本原因があるというのが、進化医学という分野が近年示してきたことである。

しかし今、日本は定常期に入っている。これは時間の流れを見直すチャンスと捉えることができる。
2001年に、私は『定常型社会:新しい「豊かさ」の構想』(2001年 岩波新書)を上梓した。
これを書いたのは、私(1961年生まれ)が中学生くらいのとき、「日本人はなぜこれほどまでに働くのか」と疑問を抱いたことに始まる。懸命に働くことを悪いことだとは思わなかったが、はたしてみんな幸せなのだろうかと考えた。豊かだといえるかは疑問だったのだ。現役世代に限らず、子どもにしても早くから受験戦争に駆り立てられることは幸せか。

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横浜のメリーゴーランド。音楽と共にイルミネーションが尾を引く。

定常型社会とは簡単にいえば、限りない経済成長やエネルギー消費の拡大を目指すのではなく、もっとゆったりした生活や豊かさのあり方を目指す社会のことである。
このような考え方は、SDGsやウェルビーイングという言葉が普及し、さらには『人新世の資本論』(斎藤幸平著 2020年 集英社新書)という本がベストセラーになった現在では比較的受け入れられやすくなったと思う。就職した頃、私前後の世代は「仕事よりプライベートを優先する新人類」と言われたが、そうした流れがいよいよ本格化してきたとも言える。

今振り返ってみれば、結局、ただ闇雲にあくせく働くという選択は成果を結ばなかった。集団で1本の道を競って上り、量的拡大ばかりに終始した結果、失われた10年は20年、30年と延びていった。日本人はこれからもそんな日々を繰り返していくつもりなのだろうか。

それを考えると、今こそが方向転換の時期なのである。集団で1つのゴールを目指すのではく、それぞれの道で関心を持てること、好きなことを見つけて、それを発展させ伸ばしていくことが、各々の幸せにつながる。それはサステナブルでもあるし、経済の活性化にもつながるだろう。
昭和時代の量的に課せられたノルマから解放されて、個々人が幸せに生きる方法を模索することが定常期の幸せだ。

日本人の「時間」は変わった

勤勉であくせく働き暮らしているイメージを持たれる日本人だが、このように語られるようになったのは、実はある時期以降のことである。幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人の多くは「これほどのんびりとした民族を見たことがない」と語っていた。当時の日本人は、まるで勤労の発想がない人々として捉えられていた。今とまったく逆である。

日本人が現代のような「勤勉な民族」になったのは明治維新以降、集団で一本道を急ぎ上ったからである。1つの目標に向かって、競うように上りつめる過程でカレンダー的な時間の流れは強くなった。

ところが、である。日本は2008年をピークに人口減少社会へと突入した。そこから、日本人の時間の流れもまた変わり始めた。
私自身がずっと感じてきたことだが、団塊の世代など上の世代に比べて、今の若い世代は少しのんびりしているように見える。例えば、飛行機が目的地に着いた時、団塊の世代前後の人たちは我先にと降機しようとするのに対し、若い世代は混雑が緩むのを待ってから動き出すことがある。もちろん、個人差はあるだろう。しかし、集団で1本の道を突き進み、「われ先に」という感じで過ごしてきた世代よりも、若い世代の人たちはゆったりとした時間を過ごしているのだ。

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ニューヨークのグランド・セントラル駅。行き交う人々の影が交差していく。2001年撮影。

一方で、デジタルは社会のあらゆるフローを加速させた。メールは大量に飛び交い、意思決定の数を増やしている。もしかしたら今の若い人はスローな現実と、ファストなデジタルの世界との2つの世界を生きているのかもしれない。
単純にデジタルと資本主義が掛け合わさるとスピードだけが速くなり、肥大した経済ができあがる。その結果が今で、そこには豊かさが伴っていない。しかし私はこれからはむしろ「ポスト・デジタル」の時代になっていくと考えている。
言い換えると、「スーパー資本主義」「スーパー・デジタル」というベクトルと、「ポスト資本主義」「ポスト・デジタル」というベクトルがせめぎ合っているのが現在と言える。しかし大きな時代の流れをとらえると、後者のベクトルが中心になっていくだろう。
若い人の持つスローさはこうした流れとも関係している。

これまでは、手帳に予定がびっしり詰まっている状態が「充実している」とされてきた。生活よりもビジネスが優先され、文字通りbusyであることが善であった。思えば「ビジネス」という言葉は「busy-ness」、つまり「忙しいこと」という意味だ。そして飛行機移動に代表されるように、エネルギーを大量消費して移動時間を短くすること、つまりエネルギーを時間に置き換えることがためらわず行われてきたのだ。
もちろん、これからも忙しい日常を楽しみたいという人のことを否定はしない。しかし、そうではないスローを選ぶ人のことも肯定されなくてはならない時がきている。

融合しはじめた地域の時間と空間

地域密着人口という視点がある。その名が示すとおり、地域との関わりが強い人たちのことで、その中心は子どもと高齢者だ。かつては、子どもを中心にして地域密着人口が多かったが、高度経済成長そして少子化が進む中で大きく減少していった。

ところが、2000年あたりを底に、今度はここにきて地域密着人口の増加が見られるようになった。高齢化である。リタイアした高齢者と現役世代には、やや質の異なる時間が流れる。その時間の違いが空間の違いとも結びつき、住宅地には少しゆったりとした時間が流れていた。それが、コロナ禍でまた新たな局面を迎えている。テレワークの普及で、現役世代も地域で過ごすようになったのである。加えて、若い世代のローカル志向も広まっている。ゼミの学生などを見ていると、10年くらい前からそうした変化が感じられる。たとえば、生まれ育った街を世界一住みやすい場所にするのが自分のテーマだとか、地元の農業を活性化することに関心があるといった学生が目につくようになっている。

以前はグローバルな世界へ羽ばたくことこそ、輝かしい功績のように語られていたが、今ではローカルに関心を持つ若い世代も増えてきた。人口や経済の拡大期は、いわば「地域からの離陸」の時代だったが、成熟した社会は「地域への着陸」の時代になっていく。だから今は、異なる時間と空間が融合しかかっているときなのである。

参考文献
定常型社会:新しい「豊かさ」の構想』広井良典(岩波書店 2001年)
人新世の資本論』斎藤幸平(集英社 2020年)