福島真人

福島真人

香港のとある風景。談笑しながら歩く人々の姿があった。2005年撮影。

(写真:佐藤秀明

あいまいの政治学

DXが進行すれば、代議士を介さない直接民主制を敷くこともより容易になるかもしれない。しかし、実は代議士は直接民主制にはない、ある「意味」を持っている。社会にとって重要な「境界物」について、東京大学大学院・情報学環教授の福島真人氏が解説する。

Updated by Masato Fukushima on June, 29, 2022, 9:00 am JST

協働に役立つ「境界物」

国内で旅行する際よくレンタカーを利用するが、タイプを限定しないので、いつも使っている車とは違う、様々な会社の車に乗るはめになる。サイドブレーキやキーの使い方など会社によって微妙に違うので、多少あわてることもあるが、実際に運転し始めるとすぐに感じるのは、ハンドルの手応え、特にその「あそび」が車種によって微妙に違うという感覚である。あそびというのは、ハンドルを多少動かしてもそれが本体に伝わらない、いわばクッション、あるいは余裕のようなもので、この部分があることで、タイヤの自由度が増し、実際はでこぼこの路面での走行が可能になるという。あそびがない自動車はないが、車種によって、その幅が少しうちのよりも大きいか、あるいは逆といった感覚があるのが面白い。

この(ハンドルの)あそびという仕組みに似ているのか、と感じたのは、科学技術社会学(STS)における「境界物」(boundary object)という概念を知った時である。これを提唱したのは、これまでも紹介してきたスター(S.L.Star)だが、テクノロジー研究の一端としてのインフラ研究を押し進めた研究者である。彼女が同僚のグリーズマー(J.Griesemer)とともに提唱したのが、この「境界物」という概念である。これはもともと進化論的な展示を目的とした、ある大学の自然史博物館の運営にかかわる研究に基づいている。こうした博物館を運営するには、多彩な参加者をうまく統合する必要があり、その中には指導的役割を果たす館長や学芸員、展示素材の収集に協力するアマチュア、素材を集めてくるハンター、更に博物館運営を経済的にサポートする公的なパトロンといった人々がいる。

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NYロックウェラーセンターのスケート場。ユダヤ人のカップルが手を取り合って滑っていた。1968年撮影。

この研究でスター達が注目したのは、こうした多様な参加者の協力関係は、一方では館長の発案による様々な仕組みによる面が多いものの、それだけでは話が済まないという点である。前者の例としては、資料登録用の共通フォーマットがあり、それをうまく活用することで、研究者もアマチュアも同じフォーマットを共有できたという。いわば協力のためのインフラのような仕組みである。しかしそれだけでは十分ではないとスター達は主張する。もう一つ別のタイプの仕掛けが、こうした諸集団の協力に役立っていたという。それが境界物である。

多様な集団がゆるく連携するときに、合意は必ずしも必要ではない

ここでは暫定的に「物」と訳しているが、原語はobjectであり、実際それは物に限定されるわけではなく、図表、装置、あるいは理論でもいい。要するに、二つ以上の集団がゆるやかにつながるために役立てば、全て境界物なのである。上述の研究でも、様々なものや装置が境界物としての役割を果たすとスター達は主張している。例えば、先程の報告用フォーマットは、研究者にとっては研究のための素材を提供する仕組みだが、アマチュアにとっては自らの活動を正当化するための素材となる。また、標本資料のレポジトリーなどもそれぞれの集団にとっての異なる意味合いがある一方で、その違いが表面化することなく、関係者は皆、自分にとって都合のいい形で、その意味を解釈しているのだという。

筆者が「ケミカル・バイオロジー」という新興領域の動態を研究した時も、これに似たような状況があった。この分野は、低分子化合物を利用して生物学的研究をおこなうもので、その目的のために化合物を集めてライブラリーを造り、研究用のインフラとすることが推進されていたが、よくよく聞くと、このライブラリーの目的について、研究者の間で微妙に解釈が異なるのである。ある人々は、これを創薬のためのインフラと考えていたが、他の人々はいわばバイオ・プローブ用のそれ、つまり基礎生物学的研究のために使うインフラと考えていたのである。「プローブ」とは被測定物を計るための針、あるいは対象に接触したりする部分を示すが、そのバイオ版として、生物研究のために使われる化合物のことを意味している。他方、このライブラリー設立のための活動では、この二つの解釈の違いは表面化することもなく,それなりに協力しつつ、話が進んでいたのである。

しかしこの曖昧な状態も、上記の境界物という概念からいえば、特に問題があるわけでもなく、むしろ広い連携を形作る上には必須ということになる。実際この概念は、それが提唱されてから、STS内外で頻繁に引用されることになったが、多様な集団がゆるく連携する際に、こうした媒介物があらゆるところに存在するということが分かってきたからであろう。重要なのは、こうした連携には明示的な意味での当事者の合意は必ずしも必要ないという点である。このような状況は、昔から呉越同舟、同床異夢、あるいは玉虫色の決着、といった形で表現されてきた。どちらかというとこれらは否定的なニュアンスがあるが、境界物概念は、むしろその積極的機能に着目するのである。

人は間違う。だからこそ「あそび」が要る

境界物の概念は、前述したハンドルのあそびの原理が、諸集団間の連携において実行されている姿を描いたものだと筆者は解釈している。これを拡大して、様々な社会的状況におけるいわばあそびの必要性と考えると、なぜか頭に浮かぶのが、英国のEU離脱(いわゆるBrexit)を決定づけた、例の国民投票という出来事である。英国の将来に対して甚大な影響を与えるだろうこうした試みの背後には、当時の首相が保守党内のEU離脱派の関心を引くために提案したものの、首相本人はまさか賛成多数になるとは思っていなかった、といった裏事情もあるらしい。またEU離脱の支持者は高齢者に多く、その決断の影響を今後長期間にわたって被るのは残留支持の若い世代だから、これはシルバー民主主義の弊害の一つだという議論もある。

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東京の夏。濃い影が地面を切り取る。新宿にて撮影。

だがここで言いたいのは、EU離脱のような超重量級の案件が、たった一度の投票で決められ、修正ができないという点である。実際、イタリア等でも憲法改正についての国民投票がおこなわれたが、当時の内閣の信任投票になってしまい、憲法論とは関係ないところで票決が決まってしまったという指摘もある。ここで筆者が考えるのは、こうした重大な意志決定における、いわばあそびの問題である。このような決定を「非常に高い買い物」になぞらえてみれば、ビジネスの領域における、クーリング・オフという優れた制度との比較が可能になる。いうまでもなくこれは、一度買って試しに使ってみたものの、どうも気に入らないという場合、一定期間中なら返品できるという制度である。つまり、「購入/非購入」という二つのカテゴリの間に、中間的なグレーゾーンを認めて、そこで実際に試してみるというものである。この意味で、クーリング・オフ制度はいわば一種のあそびの段階とでもいえそうだが、この制度の背後には、我々は常に間違った決断をしうるし、特定の条件下ではその修正可能性がある、という哲学が存在しているように思えてならない。

この立場は、誤りを繰り返しつつ漸進的に真理に到達する立場に近い気がするが、こう解釈すれば、これはプラグマティズム哲学の祖パース(C.S.Peirce)が提案した可謬主義という考え方に近いように見える。こうした漸進的アプローチは、近年STS等でも話題になっている、一種の実験主義の基礎でもある。つまり間違いを犯し、それを修正しつつ、一歩一歩目標に近づくという考えである。そしてそのためには、ある種の猶予、つまりあそびの空間が必要なのである。

議員とは「あそび」の存在である

しかし、こうした考えは国民投票という制度には縁が無いようだ。それは多分、この制度の裏に「直接民主主義」という一種の幻影があるからではないか、と筆者は考える。何しろ有権者が直接投票したことなのだから、その意志の表示は絶対であると。しかし可謬主義的に考えれば、有権者もまた間違えるし、結果が現れるにも時間がかかる。また、ある時点での集合的意志表明から、それが政策という形で動きだすまでにも、かなりの時間的なラグがある。この二つの間に、決定事項を修正するような、いわば「投票行為に関するクーリング・オフ」のような装置が必要なのでは、と思えてならないのである。

実際、通常の民主主義的政治体制は、こうしたある種のあそびの制度が備わっている。例えば代議制は、その弊害についてはいろいろ言われても、多様な人々の日々変わりうる要求と、実際の政策決定の間のギャップを調整するための装置という側面があり、そうした柔軟性は、ある意味制度的あそびでもあると見なせるのである。

ハンドルのあそびは人、機械、地面の諸要素をつなぐ装置であり、境界物は多様な組織がつながるための装置である。それらの独特な緩さによって、対象となる人やものはあるレベルの自由度を得ることが可能になり、それぞれの独自のベクトル、および協働という拘束の間の関係を調整できるようになるのである。これらはいわば空間上の配置の話だが、それが時間軸上に並ぶと、クーリング・オフのように決定とその実行の間にある種の「反省」という猶予の時間を設けることを意味する。

我々の社会はあそび、緩衝材、あるいは曖昧な媒介項で緩くつながっている。こう考えると、様々な分野で現在行われている多くの議論を見直すきっかけになるかもしれない。ひたすら無駄をなくし、曖昧さを消去することは、へたをするとこうした自由度を排除することにつながりかねないのだ。スター本人も、パース由来のプラグマティズム哲学の伝統に属しているという事実は示唆的である。ハンドルのあそびも、媒介物も、クーリング・オフも,全てはパースの信念、つまり人は誤りを犯しつつ漸進的に真理に到達する、という考えの興味深い傍証であると言えそうなのだ。

参考文献
パースの哲学について本当のことを知りたい人のために』コーネリス・ドヴァール 大沢秀介訳(勁草書房 2017年)
真理の工場ー科学技術の社会的研究』福島真人(東京大学出版会 2017年)
科学技術社会学(STS)ワードマップ』日比野愛子、鈴木舞、福島真人 編(新曜社 2022年)
Boundary objects and beyond: working with Leigh Star Geoffrey C. Bowker他 編(MIT Press 2015年)