大場紀章

大場紀章

上海の夜景。数々の照明装置が幻想的な夜の街を作り出す。2000年頃撮影。

(写真:佐藤秀明

最新のデータが未来に近いとは限らない

再生可能エネルギーや電気自動車(EV)への批判をみていると、しばしば古いデータが用いられることがあるようである。実際に、エネルギー業界において「古いデータ」はどのような弊害をもたらしているのだろうか。エネルギーアナリストの大場紀章氏が語る。

Updated by Noriaki Oba on July, 12, 2022, 9:00 am JST

太陽光発電と蓄電池が変えたエネルギー業界の変化スピード

再エネ関連の報道で取り上げられるデータが古いことは、しばしばある。そしてそれを批判する記事も少なくない。日経クロステックでも『再エネやEVの批判者が使う“古いデータ”が日本をおかしくする』という記事が公開されており、かなり具体的にデータの使い方への批判がなされている。

元来、エネルギーは比較的変化がゆっくりした産業だった。そのためかつての感覚で考えていると、数年前のデータで議論に臨んでしまうことは、カルチャーとしては理解できなくもない。しかしそんなエネルギー業界にも、部分的に変化が激しいものが入ってきた。その典型が、太陽光パネルと蓄電池である。太陽光パネルや蓄電池の価格変化のスピードは非常に速いため、ほんの数年前のデータを引用するだけでも話が変わってきてしまうのだ。そのため、最先端のデータを見ている立場からすれば、数字が古くては意味がないと感じられるだろう。

批判者も推進者も情報の選別をおこなう

多くの場合、人が情報を得るときは情報の選別が行われている。どんなに客観的に判断しようとしても、どうしても「好き嫌い」が入ってしまうものだ。また、注目する側面も個々人の関心事項によって変わっていく。これはエネルギーに関する情報に関しても同じである。だから「古いデータを使って印象操作をしようとしている」という批判は実はあまり意味のあるものではない。出典データの新しさに関わらず、メッセージというもの自体が通常「偏った」ものだからである。

確かに古いデータを用いて再エネやEVを批判する人々は少なくないようだが逆もしかりで、良さをアピールするために部分的なメリットだけに注目して過度にアピールしている場合もたくさんある。批判する方も推進する方も、お互いデータを部分的に切り取っているのだ。

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山火事の煙を通して見えたアラスカの太陽。2006年撮影。

例えば、再エネやEVを推進したい人が、海外での太陽光発電のコストを引っ張ってきて「こんなに安いところがある」と紹介することがある。しかし太陽光発電のコストはその国がもつ様々な事情によって決まるため、同様の価格設定を日本では適用できない場合が少なくない。
各々の考え方や権益が大きく絡むエネルギー関連の報道は、このように良い部分だけ、あるいは悪い部分だけをチェリーピッキングしているケースが散見される。

先日、Twitterでこれからの電力はすべて太陽光発電で賄えるかどうかが話題になっていた。しかしやりとりをつぶさに見ていくと、電力W(ワット)と電力量Wh(ワットアワー)の問題、つまり瞬間の出力とトータルのエネルギー量を混同してしまっていることがわかった。「原発◯基分」という言い方をしている場合は大抵がこのパターンだ。ご存知の通り、太陽光発電は太陽の光がパネルに当たっているときしか発電できないのだから、それは時間や天候によって発電量が変わることを考慮しなければならない。それを無視して仮定の話をすすめれば、現実との乖離が大きくなるのは当然である。

電気の価値を再定義する時期が来ている

上記のように再エネはほとんどの場合、安定供給ができないという課題がある。
これまで社会には「電気は量に対してお金を払う」というシステムが普及していた。火力発電や水力発電など、基本的に需要が発生するタイミングにあわせて発電できるもので電力を生み出すように構成されていたので、好きなときに電気が買えることは人々にとって当然の感覚となっていたのだ。

しかし太陽光発電のように、発電のタイミングを人為的にコントロールできない仕組みが取り入れられると、いつでも発電できることの価値はプラスアルファで評価されなければ、電気の価値を適正に評価できなくなってしまう。

太陽光パネルは燃料がかからないため、量に対するコストはほとんどゼロだ。必要なのは設備コストのみである。そのため電気1kWhを作るために必要なコストは非常に低くなり、電気代は下がるわけだが、何らかの要因によって太陽光が使えないときには別の予備電源が必要になる。

例えば、天気がいい日は太陽光のおかげで電力が賄われたとしても、急に雨が降ったり曇ったりすれば、ここからの出力は落ちる。すると当然、太陽光だけでは需要を賄うことができない。そのため予め出力低下を見越して準備していた火力発電所が稼働し、電気を生み出すことになる。電力不足を回避するため、火力発電所はいつでも稼働できるよう準備をしているのだ。
しかし順調に晴れていた場合、火力発電所は日の光がなくなるまで出番がない。スタンバイをしているものの、何もせずに終わるのだ。実はこの設備コストは誰にも評価されていない。しかしだからといってスタンバイをしないでいる、あるいは準備している施設が少ない場合、太陽光が少なくなったときに使える電力の量が逼迫し、2022年6月のようなことが起きてしまう。このときは、需要を喚起する8月並の暑さが6月に来てしまったため、準備が間に合わなかったのである。

しかし例えそういう場合でも、緊急に立ち上げられる予備の電源がかつてはあった。だが今は電力システムが自由化され、個々の発電事業者は電力供給全体に対する責任がなくなり経済性重視となり、予備電源の多くを閉鎖してしまったので、緊急時にも立ち上げられなくなってしまった。

足元で上昇している再エネの設備コスト

10年〜20年前と比べて太陽光パネルと蓄電池が安くなってきたことは確かだが、直近の情報でいえば、実は太陽光パネルと蓄電池のコストは再び上がってきている。

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アラスカのガソリンスタンド。閉ざされたような暗闇の中で明かりが見えるとほっとする。

中国では、電気自動車の値段が2022年内だけでも3〜4回値上げされている。これはバッテリーの値段が上がっているためだ。
風力発電の風車のコストも上がっていて、今は軒並み風車メーカーは損失を出している。いずれも価格の上昇は、リチウムや銅といった材料コストの影響によるものだ。製造工程が極限まで効率化しつつある電池や風車は、わずかな材料コストの上昇をまともに受ける。これらの上昇傾向は今後も続くとは限らないが、とにかく2022年の半年間においては間違いない。

このようにトレンドは日々移り変わるものであり、「最新」とは難しい定義だ。2021年までのデータといえば確かに最新に聞こえるが、では2022年の足元のデータを見ると、その評価は揺らぐ。わからない将来についての数字に関しては、誰にとっても不確実性があるので、自分にとって一番都合のいい数字を使いたくなるのである。

安すぎる価格は産業の未来を奪う

また冒頭で紹介した記事のなかには、洋上風力事業において発電コストを経産省が過大に見積もったという見方がある。具体的には、経産省は洋上風力発電の発電コストを26円/kWhと見積もったが、実際には三菱商事と中部電力系企業のコンソーシアムが11.99円/kWhで売電価格を提示したという話であるが、実はこの経産省のコスト算出はあまり批判に当たらない。なぜかというと、公務入札をした段階では、業界のコンセンサスが経産省の計算する発電コストと大体一致しているからだ。つまり、三菱商事らが提示した11.99円/kWhが異常に安いのである。これが問題となって、制度の見直しが入ったくらいだ。
つまりこれは、経産省が2倍以上過大に見積もりしたのではなく、三菱商事が半額以下で提示したという話なのである。そしてそのために、日本の洋上風力発電の未来には暗雲が立ち込めている。

実際、値段が安すぎて、海外の事業者が日本の風力発電事業から撤退を始めている。消費者からすれば電気代は安いほうがいいが、開発事業者からすれば、値段が安すぎると儲けが少なく、やる気がなくなってしまう。
重視すべきは、安いか高いかではなく、適正価格かどうかである。再エネの導入を増やしたいのであれば、参入する業者が適切に儲けることができるように価格を下げすぎないようにしなければならない。三菱商事は安すぎる入札のせいで、日本の洋上風力の未来を失わせてしまったかもしれない。

新しい・古いにとらわれない判断軸が求められる

古いデータを用いられることで不利な立場に置かれる人々は「古いことはよくないことだ」と考えるわけだが、必ずしも情報が古いことが信頼性を損なうとは言いきれない。例えば、時代によって上下する原油価格や株価など、新しさそれ自体が未来にとってあまり意味のないデータもある。

何事も、数字だけを見て良し悪しを判断することなどできない。立場や見方によって何とでも言えてしまうからだ。エネルギー産業は利権だらけの世界である。「その人は何を見たいのか」という点を考えなければ、判断を間違えてしまう。ゆえに古いデータだから間違っているわけでもないし、最新だから未来に近いといえるわけでもない。