岡村 毅

岡村 毅

囲碁は中国から渡ってきたとされるゲーム。碁石を打ち合い、陣地を広さを競う。

(写真:kc look / shutterstock

データの量だけで真理に近づけるわけではない。囲碁と認知症予防の現場から

あらゆる業界で進むDX。医学研究もまたDXの恩恵を受ける分野の一つだ。しかしながらDXによる研究には、死角が存在する。囲碁が認知症予防に効果的であるというエビデンスを出した研究者へのインタビューをもとに、DXの死角について考えてみよう。

Updated by Tsuyoshi Okamura on October, 12, 2022, 5:00 am JST

医療研究におけるDXの死角 

医学研究においてもDXの波が押し寄せている。例えば、創薬においては今やスーパーコンピュータによってヒトがやれば気の遠くなるような時間のかかるシミュレーションを短時間で行うことで、創薬を大幅にスピードアップすることができる。薬物治療においては、様々な薬剤に対する治験の莫大な情報をまとめ、ネットワークメタアナリシスの手法で、いったいどの薬剤が本当に優れているのかを一望できる。疫学研究においても、大変な労力で多くの人々に定期的に会場健診に来てもらっていたのが、手首にウェアラブルデバイスをつけることで生体情報をリアルタイムで把握することができる。

しかし、DXが未だ及ばない領域がある。今回は、医学研究におけるDXの死角を見ていこう。

ライン川を見下ろす丘を散歩する老カップル
ライン川を見下ろす丘を散歩する老カップル。(写真:佐藤秀明)

高齢者の知的余暇活動は、認知機能を維持し、認知症を予防する効果があると言われている(参考文献1,2,3)。私の所属する東京都健康長寿医療センター研究所には、囲碁を用いた老年医学研究をしている飯塚あい医師がいる。実は私の共同研究者なのであるが、彼女の研究の流れは、現代の社会医学研究の最先端でもあり、またよく状況が分かるので、独自に行ったインタビューを紹介したい。

対局パターンは10の360乗通り。高齢者の脳を活性化させる囲碁

岡村 先生と囲碁の関わりを教えてください。

飯塚 私が囲碁を始めたのは中学1年と遅かったのですが、すっかり魅了されてしまい、プロへの階段を駆け上がっていきました。そして無事に日本棋院院生となったのですが、やはり壁の厚さを感じていました。いろいろと悩んで、最終的には高校2年生の時に将来の夢を医師に変更したのです。

岡村 囲碁と学問の両方の世界でトップレベルにいるなんてすごいですね。先生は老年学の研究者ですが、それは何かきっかけがあったのですか?

飯塚 私はおばあちゃん子だったので、高齢の人が幸せに穏やかに暮らしてほしいと思っています。囲碁と医学の両方の世界を生きてきて、自分が今やるべきことは、囲碁を使ってよりよい高齢社会を作ることだと思いました。

岡村 世界でも先生にしかできないことですね。なぜ囲碁がよいのでしょう?

飯塚 囲碁はとてもシンプルなゲームです。将棋やチェスのような様々な駒はなく、白と黒の碁石しかありません。それを平面の上に交互に打っていくだけなのです。でもその戦略性はとても深いものです。囲碁は人間がAIに最も長く勝ち続けたボードゲームだったことからも、それがうかがえると思います。

その理由はなんといっても、囲碁は盤が広いので戦術の可能性が非常にたくさんあることです。対局パターンの可能性は、オセロは10の60乗、チェスは10の120乗、将棋は10の220乗通りあると言われていますが、囲碁は10の360乗通りと言われているんです。小手先の戦術ではなく、「大局観」がないと勝てません。

これほど奥の深い囲碁ですが、小さな盤を使うこともできるので、身体が弱ったり認知機能が弱った方でも、その人なりに楽しむことができるのです。この点が、高齢社会にぴったりだと思いました。

岡村 なるほど。囲碁が高齢者に好ましい影響をもたらすエビデンスはあるのでしょうか。

飯塚 はい、私たちはランダム化比較試験で囲碁が視覚性記憶の改善に寄与することを報告しています(参考文献4)。またPETを使った研究では、脳の血流が向上することを報告しています(参考文献5)。

岡村 素晴らしいエビデンスです。医学研究者としては、囲碁研究は確立したといえますね。

飯塚 いいえ、まだそうとはいえません。囲碁が脳に良いことが分かったことは、プロ棋士を目指していた医学研究者である私にとってうれしいことです。なので、多くの人に囲碁を楽しんでもらい、健康になってもらいたい。でも、健康にいいからと言って無理に囲碁をしたり、苦しむようなことがあってはならないと思います。囲碁を愛するからこそ、年をとっても人々は囲碁を楽しむことができる、人生を豊かにすることができるというエビデンスを出したいのです。

上級者があれこれうるさく教えはじめるのがまずい

岡村 なるほど、単なる冷たいエビデンスではなく、熱い、意味のある、社会を変えるエビデンスを求めているのですね。研究は進んでいますか?

飯塚 はい、私たちの研究所は板橋区高島平団地で、単に対象者を客体として観察するのではなく、住民や地元の地域包括や医師とも協力関係を築き、対等なパートナーとして研究を進める研究拠点を作っていますよね。そこでは囲碁教室も開いていますから、研究者と対象者という関係を超えて、同じ目線で住民の生の声を聞くことができるのです。高齢になってから囲碁を始めた人に、質的研究の手法を用いてインタビューをしました。

岡村 本音が聞けそうですね。どのようなことが分かりましたか?

「水の町」熊本の白川水源
「水の町」熊本の白川水源。日本の名水百選に選ばれている。(写真:佐藤秀明)

飯塚 やはり高齢になってから始める人は、認知症予防や老いの不安を感じて、始めていることが分かりました。しかし囲碁を始めると、静謐な雰囲気や、正解がないという囲碁の深さが、継続要因になっていました。そして開始と継続の要因の両方に、インストラクターが気さくで感じが良いこと、仲間ができて楽しいことが関わっていました。また、こういった楽しみについては、上級者があれこれうるさく教えはじめるのがまずいのだということも分かってきました。上下関係ができないように配慮をすることが、よりよい効果に結びつきます(参考文献6)。

岡村 単に「これをすると健康にいいよ」と市民に押し付けるのではなく、「こういうふうにすると楽しく広がるよ」というところまでを研究の射程に入れているのですね。いまはどのような研究をしているのですか?

飯塚 囲碁が健康によくて、さらに人生を豊かにするならば、認知機能が低下している人を、そうではない高齢者が支える囲碁教室という使い方もできるはずです。私たちは、これを「共生囲碁教室」と呼んでいます。共生囲碁教室を先日終えたところで、これから解析に入る予定です。私が人生をかけてやっている囲碁が、社会の助け合いを生み出すということが実証できればうれしいことです。

岡村 ぜひ世界に発信してほしいですね。

飯塚 囲碁は5000年以上前に中国で生まれ、1300年前に日本に伝来した、とても歴史のあるボードゲームです。世界では4,000万人以上のプレイヤーがいるとされます。アジアではとてもポピュラーなものですから、日本の老年学が世界に大いに貢献・先導できる領域と思います。

人間こそが最高の分析機械なのだ

どうであろうか。このインタビューは、最新の社会医学研究の特徴をいくつかはっきりと示している。

第一に、現実との距離である。一昔前の社会医学研究では、全国の施設から500を無作為抽出して郵送し、返送があった10%を分析するなどという調査も行われていた。また、社会的に大きな出来事が起きたときは、多くのことを知るチャンスとばかりにアンケート調査が全国から投函されてくる。東日本大震災の時には、被災地に膨大なアンケート調査が送られたことで、被災者がむしろ参ってしまうという現象も起きた(これは学会が対策をした)。また「自殺リスクがある」のような激しいアウトカムは鋭敏な結果が出やすいためやたらめったに聞かれるのだが、リスクのある人を見つけても何もしない調査がほとんどである。こうした調査のすべてを否定はしないが、現実と乖離した机上の空論と言われても仕方のない研究である。飯塚先生の研究は地に足のついた、臨床的な研究である。

第二に、質的研究の広がりである。なぜ囲碁を始めたのか、なぜ続けるのか、なぜ意味があると思うのか、というのは量的な研究では分からない。外から特殊な機械を用いて測定することなど、どれほどAIが進歩してもできないだろう。それは、その人に聞くしかない。逆に言うと『人間こそが最高の分析機械なのだ』ともいえる。量的研究である程度のところまでは分かるが、より詳しく知るには質的研究も必要なのだ。

第三に、分析手法である。なぜ囲碁がよいのかを聞くときに、話された内容をあくまで自動的に機械的に分析する方法もある。例えば、グラウンデッドセオリーなどである。しかし飯塚先生が用いた方法は、Qualitative Descriptive Approach(QDA)という方法である。これはまだほとんど知られていないことを明らかにする際に、実際に行っている人の語りを、素直に自然に主題分析するというものである。難しくて理解しがたい研究も価値はあるが、真理はシンプルであるとも思う。

第四に、対象者の選定方法である。従来の研究では、新聞・ネット・機縁法など様々な方法で参加者を探す。この研究では、高島平団地で長年住民と顔の見える関係を築いて行っているコミュニティ参加型研究(Community-based participatory research; CBPR)の中で行われている。

第五に、例えば世界どこでもボードゲームが認知症予防をするというエビデンスを出そうというような研究ではなく、現代の日本でどうかということにはじめから限定している。この場合、どのような文脈がすでにあり(context)、どのような化学反応が起こり(mechanism)、結果どうなったか(outcome)、という因果関係を明らかにすることになる。これはrealistic approachとよばれる方法である。

このように、社会医学研究は、いっそう臨床的に意味あるものに向かっており、さらに量的研究だけから質あるいは量と質の混合研究に向かっており、複雑なテキスト分析もいいがシンプルで誰にも分かりやすい分析が好まれ、コミュニティのなかで(CBPR)現実的に(Realistic approach)研究が進むようになってきた。

世界は変わり続けるし、老舗を好むのは日本の特徴だと言われる。AppleもGoogleもAmazonも30年後には存在しない可能性が高い。研究方法も絶対的な真理があるわけではなく、むしろ変わり続けるということを紹介した。

取材協力:飯塚あい

1988年、東京都生まれ。埼玉医大卒。中1で囲碁を始め、プロを目指した。「囲碁で高齢者の生活向上や介護予防に結び付けたい」と老年医学を志す。東京都健康長寿医療センター研究所 社会参加と地域保健研究チーム所属。

参考文献
1.  Wilson, R. S., Mendes De Leon, C. F., Barnes, L. L., Schneider, J. A., Bienias, J. L., Evans, D. A., & Bennett, D. A. (2020). Participation in cognitively stimulating activities and risk of incident Alzheimer disease. JAMA, 287(6), 742–748. 
2.  Yates, L. A., Ziser, S., Spector, A., & Orrell, M. (2016). Cognitive leisure activities and future risk of cognitive impairment and dementia: systematic review and meta-analysis. International Psychogeriatrics, 28(11), 1791–1806. 
3.  Iizuka A, Suzuki H, Ogawa S, Kobayashi-Cuya KE, Kobayashi M, Takebayashi T, Fujiwara Y: Can cognitive leisure activity prevent cognitive decline in older adults? A systematic review of intervention studies. Geriatrics & Gerontology International, 19(6): 469-482, 2019.6.
4.  Iizuka A, Suzuki H, Ogawa S, Kobayashi-Cuya KE, Kobayashi M, Inagaki H, Sugiyama M, Awata S, Takebayashi T, Fujiwara Y: Does social interaction influence the effect of cognitive intervention program? A randomized controlled trial using Go Game. International Journal of Geriatric Psychiatry, 2018.11. doi: 10.1002/gps.5024
5.  Iizuka A, Ishii K, Wagatsuma K, Ishibashi K, Onishi A, Tanaka M, Suzuki H, Awata S, Fujiwara Y:Neural substrate of a cognitive intervention program using Go game: a positron emission tomography study. Aging Clinical and Experimental Research, 2020.1. Doi: 10.1007/s40520-019-01462-6
6.  Iizuka A, Yamashita M, Ura C, Okamura T. GO revisited: qualitative analysis of the motivating factors to start and continue playing GO. Journal of Community Health Nursing in press