使い古された陳腐な定型表現にギクリとさせられ る
私たちは情報社会に生きていると言われる。実際、パソコンとインターネットが普及したおかげで、私たちは様々な情報に、それまでとは比較にならないほど容易にアクセスできるようになった。そして、スマートフォンやタブレットの普及は、この流れを一層加速させたように思える。これらの情報機器の急速な発達は、私たちが潜在的に情報を求めていたことの結果だろう。逆に、情報機器の発達によって、そうした潜在的需要の大きさが可視化されたのだとも言えそうだ。しかし、多様な情報の大量消費への需要が満たされ、ありありと可視化されるにつれて、「これって本当にいいことなんだろうか」という素朴な疑問もまた頭をもたげてくるのではないだろうか。
個人的に筆者にとってこの疑問は、時間があるとついついYouTubeを開いて、画面をスクロールし、次々におすすめされる動画から面白そうなものを探してしまう自分に気づいた時に頭をよぎる。もっと悪いのはスマートフォンで、仕事をしている最中も、Twitterやらメールやらの通知が度々届いて、その都度にそちらに注意を奪われてしまう。だったら、通知を切っておけばいいのだが、それはそれで何だか寂しいような気がするのだ。
程度の違いはあれど、こうした経験に思い当たる節がある人は多いのではないだろうか。そうであるからこそ、「我々は情報過多の社会に生きることで自分を見失っている」といった警句に出会った時、私たちはどこかギクリとするのではないか。実際、このような警句は一種の定型表現のようになりつつあって、陳腐だと感じる人もいるかもしれない。しかし、諺がそうであるように、言い古された事柄が些末であるとは限らない。むしろ、大切な何かを突いているからこそ、繰り返し言われ続けるのではないか。上の警句は、現代の情報社会で生活する私たちにとってのその一例であるように筆者には思える。
この記事では、上の警句が惹起する懸念と正面から向き合ってみたい。この警句の一番の問題は、一度立ち止まって考え始めると、それが正確なところ何に警鐘を鳴らしているのかが、なんだかよく分からなくなってくる点にある。
多すぎる情報は悪いものなのかじっくり考えてみる
そもそも、なぜ情報が多いことが問題視されるのか。宝くじの当選番号、精密検査の結果、対立国の国家機密など、私たちの富や生命に直結し、得られれば得られるほど望ましい情報はたくさんある。そうした中で、摂取過多が問題視される「情報」とは一体どんな情報なのか。さらに、問題視の中身も重要だ。「自 分を見失っている」というのは、(それがまずいことだとして)一体どういうまずさなのか。「自分」というものには得体の知れないところがあって、油断するとすぐにややこしい哲学的問題に巻き込まれてしまうから、取り扱いには十分注意しなければならない。
この記事の最も主要な目的は、「情報」と「自分を見失う」という二つのキーワードに着目して上の警句の中身を掘り下げてみることで、それが提起している普遍的で重要な問題を明確化することにある。あるいはよりシンプルに、上の警句に出会ったとき、私たちが直観的に感じ取るギクリの正体を突き止めることと言ってもいい。もう一つの副次的な目的は、私たちが何にギクリとしているのか突き止めることを通して、情報とよりよく付き合うためにどんな示唆が得られるのかを考えてみることである。
感覚器官、脳神経系を通過するだけで行動上のメリットを伴わない、コンニャクのような情報をやりとりする
「情報過多の社会の中で自分を見失っている」。ここで問題となっている情報とは、一体どんなタイプの情報だろうか。筆者はこの問いへの答えとして、梅棹忠雄が提案した「コンニャク情報」という概念に注目したい。梅棹は、A.トフラーの『第三の波