ラトゥールが神格化される前に
先日、科学技術社会学(STS)の創設者の一人、ブリュノ・ラトゥール(B.Latour)が逝去した。享年75歳。STSの周辺では、ラトゥールの名はアクターネットワーク理論との関係でよく知られているが、近年では地球環境問題についても積極的に活動していたので、名前を聞いたことがある人も少なくないだろう。最近は翻訳もいくつか出ている。他方、こうした認識が基本的に紙の上の情報だけで流通する、本邦の長い訓儒学的伝統のため、そこで語られる議論 (あるいは人物像)が、何かどこか的を外していて、現実の微妙な複雑さを反映していないと感じることも少なくない。我々が編集したSTS入門書で、わざわざ「ラト ゥール神話」というコラムを書いたのは、現実が見かけよりもっとはるかに複雑だからである。デュシャン(M.Duchamp)に会ったこともない日本人アーティスト達が熱狂的にデュシャンを語ることを批判した本まであるくらいだから、いずれおこる妙な神格化 (といってその兆候は既にある)の前に、私自身の直接の印象を記しておくのも無駄ではないだろう。
人間のエージェンシ-の複雑さを示すモデルとして文楽を気に入っていた
私がラトゥールと最初にコンタクトをとったのは(記憶が正しければ)2000年。当時私は医療現場の民族誌的研究から、システム理論/サイバネティックス、さらにはその科学史的背景といった方面に関心を持ち始め、結果的に今でいうSTSに急速に近づいていた。所属する大学が隔年で海外客員を呼べるため、この機会に彼を招聘してみようと思ったのである。結局向こうの都合でこの試みは実らなかったが、それなら君がパリにこないかというので、翌年当時彼が所属していた、鉱山高等学院(Ecoles des Mines)イノベーション社会学研究センター(CSI)を訪問した。鉱山うんぬんというのは妙な名前だが、これはフランス固有の由緒あるエリート養成校(グランゼコル)の一つで、工学系の学校である。学校はパリのど真ん中にあるリュクサンブール公園に隣接しており、その瀟洒な建物の奥にCSI(といっても小さな一角である)があった。

ラトゥールとの最初の話し合いでは、サイバネティックス史研究やそれに関連した重要なラボから出た論文資料の取り扱い、その他のテーマをざっくばらんに話し合った。当時愛知万博云々という計画も進んでいて、そのパンフレットが置いてあったが、気に入らないので手を触れなかった。その様子を目ざとく観察して、どうも愛知万博が嫌いなようだ、とのちにずいぶんからかわれたが。
上記のラボの生産物について、こうしたものはあまり誰も読まない、実際科学者の論文の読み方は、序論、結論、そして文献をさらっとくらいが普通だ等、その解説は実に具体的であった。またこうした過去の様子を理解するには、同系統の現在のラボを観察してみて、そこから接近する手もあるという興味深い提案も受けた。その後、二階に上がってカロン(M.Callon)(センターの創設者で、ラトゥールとも多くの共同研究をしている)と話していると、ラトゥールも追っかけてきて、三人で雑談になった。両人とも英語でやりとりしたが、こういう形で日本人と自由に議論ができるのはいいことだ、と後に言っていたそうである。
帰国後、当時日本で建築家の調査をしていた学生から彼が大腸がんで入院したというニュースを聞いた。私の父親も同じがんで亡くなっていたので、励ましのメールや、彼の好みの文楽の写真集などを送ったりした。三人の人形遣いが一つの人形を操作する文楽が、人間のエージェンシ-の複雑さを示すモデルとして結構気に入っていたようである。この時期のメール交換は頻繁で、アメリカ同時多発テロ事件などについても意見を交わした。彼がそれについて書いた小冊子では、そのやりとりの残響が読み取れる。
アクターネットワーク理論が形成された経緯
その後、2003年にサバティカルで2カ月ほど客員研究員としてCSIで過ごすことになり、彼らの活動の様子を真近で観ることができた。当時私は比較宗教人類学から医療、原子力安全研究等を経て、STS一歩手前まで来たという感じだったが、その宗教研究の部分に関して、ラトゥールは多いに関心をもち、私の訪問が彼にとって大きなチャンスであると書いてよこした。どこかの時点で宗教の問題を本格的にやりたいと思っていたのであろう。他方私の方は何となく距離を感じ始めていたが、それは彼 が体調を回復すると同時に、その傲岸な部分も見え始めたからである。
上述したカロンは工学と経済学の学位を持ち、1970年代にCSIを立ち上げた。ラトゥールがそこに加わるのは1982年、つまり彼とウールガー(S.Woolgar)のLaboratory Lifeの初版(1979)が出版されたあとである。それをカロンが読んで、そこで論じられているcredit cycle(研究者が自分の評判を高めていくプロセス)といった考えを評価し、彼を自分のラボに採用したのである。この本の内容をアクターネットワーク理論と混同して論じる人がいるが、ことの順序を理解していない。アクターネットワーク理論は、このカロン・ラボでの共同研究の成果である。
カロンのラボ運営は理系的で、ボスである彼の方針のもと、かなり厳密なスタイルで共同研究が進められた。アクターネットワーク理論というのはこうした環境で80年代以降徐々に形成されたもので、共著論文も多数発表されている。カロンは、ミッテラン政権時に科学政策に関して国会で報告をしたほどの影響力を持っていたらしい。他方、こうした工学系のグランゼコルで科学社会学の研究室を持つことが、最初は非常に大変だったともいう。周囲はその意図を理解できなかったからである。また、カロンのラボ経営については、メンバーから「まるで君主(monarch)のように振る舞っている」という陰口を聞いたこともある。
哲学系の学生に医療社会学の論文を読ませる、領域交差の試み
私が訪問した2000 年代には、カロン、ラトゥール以外に、エニオン(A.Hennion、音楽学、以前長いことこのセンター長をしていた)、アクリッシュ(M.Akrich、医療社会学、当時のセンター長)、ラベハリソア(V.Rabeharisoa、同じく医療社会学)、ミュスタール(P.Mustar、大学スタートアップ研究)、メアデル(C.Meadel、彼の夫人でウェブ研究)といった主要メンバーと、10名前後の博士学生がいた。現時点で残っているのはこのうち二人だけで、引退、死去だけでなく、大学内の組織再編成で他に移ったメンバーもいる。
ラトゥールはCSIの博士論文執筆指導(いわゆるライティングアップ)の担当であり、全ての博士学生はそれに参加していたが、活気があってなかなか面白かった。彼がよく試していたのは、croisement、つまり違う領域を交差させる、というやり方である。哲学系の学生に医療社会学の論文を読ませ、またその逆という具合である。帰国後来日したミュスタールは、「ラトゥールの影響が強すぎて、学生が哲学的な話ばかりやるようになり、スタートアップ企業の数を数えるといった地道な作業を怠る傾向がある」と愚痴っていた。ただし「でもやはりやつは天才だな」とも付け加えていたが。このゼミで、ある学生が、クラインマン(A.Kleinman、医療人類学者)の有名なillnessとdiseaseという弁別(前者が主観的、後者が客観的な病気観)について発表したが、ラトゥールを含めみな黙ってしまった。誰もこの初歩的な議論を知らなかったようである。また、かつてラトゥールを手 厳しく批判したブルア(D.Bloor)の論文に関して、ラトゥールがブルア役、学生たちがラトゥール役で、実際に論争してみるという試みもあったと後で聞いたことがある。
「人類学者は森の中みたいな環境でないとよく寝られないから」
ラトゥールにはどこか子供っぽいところがあり、「ブリュノは赤ちゃんみたい」(comme un bébé)と複数の人が同じ表現を使うのを聞いて驚いたことがある。実際、この子供っぽさには両面があり、そのよい面は、快活なユーモア感覚という形で現れる。例えばCSI滞在中に彼の故郷である、フランス中部のディジョン市郊外にある彼の別荘に招待された時のことである。夕食後客用の部屋に入ってみると、なぜかベッドカバーの上に木の葉や小枝が散らばっている。なんだこれと思いつつ就寝し、翌日夫人にきくと、ラトゥールが「人類学者[注 私のこと]はああいう(森の中みたいな)環境でないとよく寝られないから」とわざわざ葉っぱを散らしたのだという。私のいたジャワは水田地帯で、ジャングルで生活したことなどないのだが。こうしたユーモア感覚は彼の著作(特にその初期)には満ちていて、そのため彼の初期の代表作の一つであるScience in Actionの英文書評を読むと「実に楽しそうに著述している」というコメントが載っている。科学論者の中には、科学技術に怨念でもあるかのごとくそれを論難する人も少なくないが、ラトゥール本人はこうした怨念とは無縁のように見えた。
他方、そうした子供っぽさは一種の傲慢さをも生む。はるか以前にCSIに 滞在したスター(S.L.Star)はのちに「境界物」(boundary object)の概念等でSTS業界に大きな影響を与えたが、彼女の滞在時には、ラトゥールは彼女が信奉するプラグマティズム哲学を歯牙にもかけず、スターはそれをかなり気に病んでいたという。もうアクターネットワークという大理論があるのだから、そんなものはいらないだろうというわけである。そのくせ2000年代になると手のひらを返したように、デューイ(J.Dewey)の名を連呼するようになるのも気に食わなかった。
CSIとの離別と、エコロジーへの傾倒
こうした傲慢さは、どちらかというと集合的な営為の結果であるアクターネットワーク理論の形成期よりも、私の滞在時、つまり自分の宗教的、哲学的信念に関連した議論を展開し始めた時期に段々と表面化したようである。実際CSIはかつてのような求心力が無くなり、ラトゥールは哲学、カロンらは逆に市場構造の新たな理解をめざす経済社会学に向かっていた。こうした遠心力の結果、3年後にはラトゥールはCSIを離れることになるが、他にもその兆候は感じられた。例えばラトゥールが企画したMaking Things Publicというドイツでおこなわれた展覧会は、大きな冊子にもなり私も寄稿したが、その会場にCSIのメンバーが誰一人として来なかったと彼は不満を漏ら していた。ただし、それは同僚に少し期待しすぎではないだろうか。

他方カロンがCSIを立ち上げた経由を聞いていた際に、ラトゥールについての強い批判が飛び出してきたのは驚きであった。昔はそうでもなかったが、最近はあまりに人を説得しようとしすぎる、だからもう長いこと共同研究はしていないのだ、と。ラトゥールに対する社会学者達の反感も相当なものだと聞いた。他方、ラトゥール側は私がカロンと会っているかと聞くので、会っている、だいたい毎日と答えると「それはすごい、特権だ!」と大声を挙げていたが。この不和はのちに周辺のSTS関係者の一部にも知られるようになったが、その最初の兆候であった。
2カ月の滞在後帰国し、翌年にパリでの国際学界で彼らと再会したが、その後は身辺にいろいろあり、研究活動が一時停滞した。ラトゥールは2006年にSciences-Po(パリ政治学院)という別の学校に移籍した。カロンにいわせると、有名知識人が行くコレージュドフランスに対してラトゥールが辛辣な批判をしたため、その芽は無くなったという。しかし、規模が大きく雑然とした政治学院は本人にとって居心地がよかったのではないか。ウェブ研究や政治とアート、そしてエコロジーに関係したいくつかのプロジェクトを立ち上げ、かなり大規模な国際的親衛隊を作り上げたようだ。この時期になると私自身のSTSにおける関心も定まり、たまにメール交換する以外には、交わることはあまりなくなった。逆に国際的には、彼より少し下の世代 (ラトゥール世代とは微妙な距離を持つ)との交流がふえた。
エコロジーにまつわるラトゥールの国際的大キャンペーンに私は関心が持てなかったが、何故かそれは彼が若い時に参加していたカトリック青年運動を連想させた。また最近の容貌は、まるで旧約聖書の憂国の預言者エレミアのようにも見えた。5年前にある大学の著名人招待シリーズ企画で来日した時に向こうから会いに来たが、そのときにこのカトリック信仰について聞いてみた。しかし微妙にはぐらかされてしまった。もう少し突っ込んでみればよかったが、私にはこのことがあまりにも自明のことだったからである。
参考文献