ピタゴラスやプラトンの昔から、哲学者たちは身体を、どちらかと言えば自分たちを制限するものだと考えてきた。両者の正統な継承者であるデカルトも、思考実験によって身体を存在しないと見なしたあと、心(自分)のみがそれだけで存在しているという結論に達した。一方で、現象学や実存思想など、自分の身体を存在基盤ととらえる現代哲学もある。心の科学に目をむければ、人間の心を身体ぬきで実現しようとして「古き良きAI」から身体性を重視する最近のものまで多様である。
現在では、メタバースなどに象徴されるように、バーチャル身体を操ってみたり 、自分の身体をディジタル的に拡張したり(ディジタル身体と物理身体の行き来)と、身体の物理的制約を超えていこうとする技術が開花しつつある。ディジタル・テクノロジーによってわれわれが脱身体化した彼方には、ユートピアが広がっているのだろうか。
ガチャあるいは運と偶然
「親ガチャ」。これは、ひとの人生が自分にコントロールできない偶然に大きく左右されていることを残酷に言い表したことばである。親だけではない。どんな国や地域に生まれたか、どの時代を生きることになったか、どのような文化的背景をもっているか、能力、身体的特徴、性別、など。人間が最初に得るものは、ほとんどすべて偶然に依っていると言っても過言ではない。
英語に「銀のスプーンを咥えて生まれる」(born with a silver spoon in one’s mouth)といったことばがあることはよく知られている。銀のスプーンは、裕福な家庭の象徴である。日本よりも社会の階層化が厳しいとされる隣国の韓国にも、似たような表現がある。「スプーン階級論」である。親の職業や経済力などが、子どもの人生を大きく左右している同国の現状を捉えたものである。日本でも、政治家の世襲がしばしば話題になる。有力政治家を親にもつ候補者であれば、選挙では圧倒的な優位に立つことができる。だが、世襲議員は必ずしも有能とは限らない。これも運の問題であろう。とはいえ、奇妙奇天烈な語法を使う政治家や、簡単な漢字の読み違いをする政治家の姿を見ていると、地道な努力とは無縁でも権力を手にすることができてしまうといった、世間にとって極めて辛い現実を突きつけられる。
○○ガチャは、人生の最初だけではない。しかも、○○は無際限にある。たとえば、就職すれば、ひとは「配属ガチャ」や「上司ガチャ」、「部下ガチャ」に見舞われる。たしかに、組織で働く人間にとって、上司との出会いは人生を左右しそうである。もちろん、「それは実力のないやつの言うことだ」とお叱りをうけるかもしれない。だが、この「実力」とやらさえ、運の産物と言えなくもない。なすこと、なせること、身に降りかかること、生き方など、ひとの人生の多くの部分が、生まれもったものやその後の偶然によって左右されている。端的に言えば、運の善し悪しに任されているのである。
いろいろな運
ひとの行いには、道徳的判断の対象でありながら、その判断が当人の力ではどうにもならない要素に左右されるケースがある。このような事態を、T・ネーゲルやB・ウィリアムズは「道徳的運(moral luck)」ということばで表現した。ここでは、道徳的判断を自己からと他者からを問わず、「評価」と一般化して考えていくこととしよう。
道徳的運を構成する要素はいくつか挙げられる。ネーゲルは、おおざっぱに四つの区分を提案しているが、その境界はさほど明確とも言えない。たとえば、その第一は「構成的な運」であり、これは性向や資質、気性にかんするものである。そのひとの個性と言い換えてもいいかもしれない。第二はどんな問題や状況に出会うかに関わるもので、そのひとの置かれた「環境の運」である。残りの二つの運は、行為の原因と結果に関係している。行為が先行する状況にどう左右されるかの運と、行為の結果がどう評価されるかに関わる運である。これらのうち、最初の二つには明らかな関連がある。人間の資質などには生来のものもあるが、置かれた環境によっておおいに変化するものだからである。いくら豊かな資質に恵まれて生まれたとしても、劣悪な環境のもとで育てば、一生それが開花することはないかもしれない。
これらのなかで、相対的にほかと明確に区分できるのは、行為の結果にかんする評価であろう。たとえば、車を運転していた二人の人物AとBがうっかり赤信号を見逃してしまったとしよう。Aは幸運にも、何事もなくその場を走り去ることになった。Bは不幸にも、飛び出してきた子どもをひき殺してしまった。どちらの場 合も、赤信号を見逃した行為において違いはまったくない。だが、それが引き起こした結果の違いによって、Bは非難を免れることはない。これが、行為の結果にかんする道徳的運の問題である。
J・ロールズは、生来の資質やその資質を育む環境をそれぞれ、「自然の偶然」と「社会の偶然」と呼んでいる。これらは構成的な運と環境の運に相当するが、当人のコントロールをほとんど超えたものである。生来の運動能力や知性とそれらを開花させる環境、あるいは生来の美貌は、そのひとの人生をだいぶ有利にしてくれるだろう。ある研究によると、外見の魅力的な女子学生はそうでない女子学生に比して、良い成績をとる傾向にあるようだ。これも残酷な事実である。もちろん、苦しい環境でも、努力する資質に恵まれているなら、挽回の可能性もあるかもしれない。だが、そうした資質ですら、家庭環境によって育まれる側面がある。
ここで取り上げたいのは、結果に関わる運ではなく構成的な運である。B・ウィリアムズは、道徳的運が注目されるきっかけをなった論文のなかで、この運に触れつつも、「主題にしない」と宣言している。これを論じても、たぶん徒労に終わると考えからであろう。その証拠に彼は、構成的な運を「真実であり辛いことだ」と評している。たとえば、生来の自然に授かった能力は、ある意味で動かしがたい。それは身体が担っているものだからである。だが、先端テクノロジーの一部は、この「動かしがたさ」を変えようとしており、それが可能になるかもしれないのだ。ウィリアムズの論文が世に出てから、もう四十年余りも過ぎている。以下では、テクノロ ジーと道徳的運、とりわけ構成的な運について考えてみたい。
構成的な運(身体)をコントロールする
ひとは、親から受け継いだ身体の恩恵を受け、それに縛られる。「身体ガチャ」は、偶然によって得られた自然の資質、構成的な運の中核をなすものである。あるいは、そのすべてであると言ってもいい。そうした身体を構成する要素は、能力の基盤である脳や第一印象の担い手である顔、体格などによるいわゆる身体能力、病気になる因子、心身の性別不一致など、数え上げればきりがない。つまり、身体はそのひとの人格を担うものにほかならない。乙武洋匡が「私は『肉体ガチャ』に外れた」と述べているが、私がここで言っている身体は、乙武的な意味での肉体よりも、ずっと広い概念である。身体ガチャは、ほとんど「人生ガチャ」といってもいいくらいなのだ。
卑近な例をあげれば、運動の苦手なひとや自分の顔にコンプレックスを感じているひと、病気がちなひと、あるいは記憶力の弱いひとなどは、身体ガチャに外れたと感じることがあるかもしれない。ひとびとは日々、ある意味では、身体ガチャを手懐けようとしている。服を選んだり、髪型を工夫したり、化粧をしたりといったこともそれに含まれる。美容整形の施術などは、一時的にはガチャへのそれなりの対応策になっている。外科的に、顔や身体に思い通りの変更を加えることができるからである。整形手術の実践者であるエッセイストの中村うさぎが、興味深いことを書いている。「プチ整形直後は『自分の顔が変わっていく』ことに不安を覚え、アイデンティティの揺らぐ恐怖すら感じた私であったが、その感覚は速やかに薄れ、一カ月もたった頃には意外とすんなりと『変わってしまった顔』を自分の顔として受け容れたのである」。中村のこの報告を読むと、テクノロジーの進歩によって身体を思いのままにコントロールできる可能性も感じる。とはいえ中村は、三カ月後にボツリヌス菌の効力がきれてもとに戻った顔に「違和感」を感じたとも述べているのではあるが。
テクノロジーの進歩は、ガチャを制御したいという欲求を満たし始めている。それらには、外見を変えることを目的とした美容整形、知覚行動能力の改良を目指したドーピングやサイボーグ技術、コンピュータ・ブレイン・インターフェイス技術や身体拡張ロボティクスなどがある。不自由な身体を治療することと、エンハンスメントとの境界は、ますます曖昧になりつつある。メタバースの主役であるバーチャル身体も、これらに加えてもいいだろう。たとえば「自在化身体」というプロジェクトは、身体ガチャを制御したいという欲求を満たすことを目指している。このプロジェクトの推進者、稲見昌彦によれば、自在化身体の本質は「身体の制約からできなかったこと、できないと諦めていたことを、技術の力でできるようにすること」であ る。
思い通りの身体を手に入れたあとに何が見えるのか
どのような身体(多様な能力や性格傾向までもふくめた広い意味での身体)をもって生まれるかは、構成的な運に属する問題であり、過酷なまでの格差とその後の人生の評価を決定づける。だからこそ「ガチャ」に抗って、身体をコントロールしようとするひとびとの欲求やそれに答えようとするテクノロジーが発展してきたし、発展していこうとしているのである。
こうした欲求やテクノロジーにむけられる批判は多くあるが、その代表的なものは、「自然ではない」、「本来ではない」といったものである。「自然の偶然」を是正すべきといったJ・ロールズの継承者、M・サンデルですら、「贈られたもの(ギフト)」である身体を大切にすべきと述べる。この類いの忠告は 、身体に物理的な変更を加えようとするものにむけられることが多い。
では、リアルとバーチャルを往来することで理想を実現しようとする「自在化身体」のようなテクノロジーはどうであろう。特殊なゴーグルをはじめとするデバイスを身体にまとってバーチャル世界に没入していくことで、理想の身体(能力)や世界を獲得することができる。現実では狭いアパートの一室で暮らしているが、大半をバーチャル世界で過ごすといったことも実現可能なのかもしれない。とはいえ、デバイスをはずせば過酷な現実に戻されてしまう。やがて、マイクロチップを脳に埋め込むことで、リアルとバーチャルの往来はもっと手軽になるだろう。さらに、一部の研究者が目指すのは両者の境界をなくすことである。マトリックス的世界に没入して、理想の自分になって思い描く世界を享受できるのかもしれない。
最後に、思い通りの身体を追い求める際に生じるリスクについて簡潔にまとめ、さしあたり、それらについてかなり楽観的な未来を述べておく。
①テクノロジーが理想の身体を一時的に可能にしても、中長期的には身体的心理的リスクが生じる。
たとえば現在の美容整形に見られるように、施術の失敗やたとえそれが成功したあとでも、ランニング・コストの問題があり、それは加齢とともに増大する。とはいえ、再生医療などのあらたな医療技術はやがてそれを克服するであろう。さらには、身体的リスクが仮に克服されたとしても、心理的リスクが残るという意見がある。だが、脳科学が理想的に進歩すれば、そうしたリスクを回避する医療が開発される可能性がある。リアルとバーチャルを自由に行き来する者が抱える可能性のある心理的リスクも、脳科学や医学の進歩によって取り除かれるだろう。
②恩恵を享受できるひととそうでないひととの格差が生じる。
テクノロジーは、多く使われるようになっていけばコストダウンがはかられ、やがて貧富の差に関係なく恩恵を受けることができるようになる。
③個性や人間性が失われるのではないかという危惧が生じる。
Sci-fiではあるが、日本の漫画を原作とする映画「アリータ:バトル・エンジェル」を見ると、脳以外の全身がサイボーグになったとしても、人間性が維持される未来もあるのかもしれない。もっとも、人間性なるものを過去から未来にわたって普遍的なものと捉えるのか、テクノロジーの進展によって変化するものとして捉えるのかといった、より形而上学的な論点もあるが機会を改めたい。
有用性と過剰のはざまで
本来や本質といった「哲学的幻想」を捨てて、テクノロジーの進歩に身を委ねるべきなのであろうか。われわれは、あらたな選択の岐路に立っている。思い描いた身体を手に入れるテクノロジーは、ひとびとのためになる、つまり役に立つのである。だが、「思い描いた身体」の起源はどこにあるのだろうか。人間に宿るべくして宿った欲望にあるのだろうか。それともそこにあるのは、テクノロジーが作り出した過剰な欲望、虚構の有用性なのだろうか。
参考文献
『コウモリであるとはどのようなことか』トーマス・ネーゲル 永井均訳(勁草書房 1989年)
『道徳的な運』バーナード・ウィリアムズ 伊勢田哲治監訳(勁草書房 2019年)
『自在化身体論 ~超感覚・超身体・変身・分身・合体が織りなす人類の未来~』稲見昌彦・北崎充晃・宮脇陽一・ゴウリシャンカー・ガネッシュ・岩田浩康・杉本麻樹・笠原俊一・瓜生大輔(エヌ・ティー・エス 2021年)
『愛か、美貌か ショッピングの女王4』中村うさぎ(文藝春秋 2002年)
『正義論』ジョン・ロールズ 川本隆史、福間聡、神島裕子訳(紀伊国屋書店 2010年)
『完全な人間を目指さなくてもよい理由 遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』マイケル・J・サンデル 林芳紀、伊吹友秀訳(ナカニシヤ出版 2010年)