手探りで始まった武装解除への道
――瀬谷さんは元々は「武装解除(DDR)」を専門にしていらっしゃいましたが、そもそも武装解除のスキルというのはどのように身につけていったのですか? 選んだ道はなぜ武装解除だったのでしょう。
瀬谷 高校生のころに世界で起きている紛争問題に関心を持つようになり、紛争解決や平和の構築のためには、何か専門的なスキルを身に着けなくてはならないと感じました。いろいろ調べた結果、紛争の現場において、当時は元兵士をどう社 会に戻すかという課題は、専門家が世界的にも少ないけれどもニーズが高かった分野の一つだと分かりました。
当時、武装解除を体系的に学べる大学はありませんでした。もちろん、それを学べる書籍もなかった。紛争の現場は行ってみないと何が起きているのかもわからない。23歳の時にルワンダのNGOで働いていたところから、西アフリカのシエラレオネというところに2、3週間ぐらい自費で行ったんです。そこがまさに武装解除が行われようとしている現場だったので。
まずは武装解除がどのように行われるのか、自分の目で見て、人々と話してみることにしました。とくに子どもの兵士たちへの対応を調査したんです。4ページぐらいの短いレポートをまとめ、日本に戻ってからアフリカ関係の学術誌に投稿し掲載してもらいました。すると、その記事を見た当時のREALsに勤務していた人が、国連PKOで働く若手を探していると連絡をくれて。当時はまだ武装解除を専門にしている人がいない状況で、私の記事をきっかけに声がかかりました。そこから、武装解除の経験を積み、自分の仕事になっていったという感じです。24、25歳のときでした。
――瀬谷さんたちの活動の蓄積があって、武装解除の知識やスキルは体系立っていったのですか?
瀬谷 もちろん私1人でそれを作ったわけではなく、シエラレオネやモザンビークや南米などでの様々な機関・団体の取り組みで機能したものが持ち寄られました。そうやって効果的な武装解除、いわゆるDDR(Disarmament Demobilization Reintegration)が国際機関などで議論されるようになりました。
特に私が関わっていたシエラレオネのDDRは成功例と呼ばれるような成果を上げたので、よく参考にされました。内戦中のシエラレオネは、世界的に見ても反政府勢力の残虐ぶりが目に余る被害を生んでおり、加害者と被害者間の憎しみや社会の分断も深刻でした。ですが武装解除が実施され、元兵士たちが一般市民と生活するようになったんです。内戦も再発していません。私にとってもシエラレオネの武装解除は、その後さらにいろんなところで武装解除をやる基礎になるような経験でした。
平和な社会ではどのように生きていったらいいかわからない元兵士たち
――シエラレオネの武装解除が成功したポイントはどこにあったのですか?
瀬谷 武装解除は単独で平和をもたらすものではなく、あくまで和平プロセスの一部です。そういう意味では、シエラレオネでは20年以上内戦を続けている状態だったので、反政府勢力側も疲弊し「もう戦争は終わらせたい」という和平の機運が高まっていたこと。あと国際社会や国連、かつての宗主国イギリスなどの主要国が和平プロセスの推進や武装解除された後に治安を守るための新たな国軍を作ろうとしていたことなどがポイントになったといえます。
社会の修復がどのように進められるかも重要です。戦争犯罪を担った加害者とされる元戦闘員たちを法的に裁くとなると、そもそも和平に応じない可能性が高いので、多くの和平プロセスでは元戦闘員が武装解除に応じるのと引き換えに恩赦を与え、罪を問わないことにします。被害者や遺 族からすると、理不尽でしかないのですが、多くの被害者は再び戦闘員たちが武器を取り戦争が再発しないよう、泣く泣く受け入れざるを得ないこともあります。「平和」と「正義」のどちらかを優先すればもう一方が手に入らなくなることもあるなか、社会がどのバランスで和平を進めるのかが問われます。シエラレオネも、一部の司令官を除いて元戦闘員は恩赦を与えられましたが、多くの賛否両論あるなか、平和をもたらすための決断をしていきました。
元兵士たちの社会復帰を如何に実行するかも大切です。武装解除された後に職業訓練を受けるのですが、それだけだと手に職はつけても、元の平和な社会でどう生きていったらいいのかわからない。特に子どものうちから武装勢力のなかで過ごしてきた人は、一般的な社会での振る舞いや、気に入らないことがあっても暴力を使ってはいけないことなどもわからないんです。自分の身の回りのことは自分でやらなければならないことすら、新たに学ばなくてはなりません。心に傷を負っているような人たちも多い。
シエラレオネの場合は、特に子ども兵士を中心に心理社会的なサポートをしたり、被害者の人たちと共存できていけるような取り組みを組み合わせていました。元兵士たちは自分たちが傷つけた被害者たちがいる社会へ戻っていくことになる。どうやって同じ社会で生きていくのか、自分たちがどう捉えられて、どう行動すべきかを、NGOや政府、国連がプログラムでサポートした点も大きかったと思います。
いきなり「対話」は無理がある。共に過ごす、共に手を動かすことで人が見える
― ―そのプログラムでは主に対話が行われるということですか?
瀬谷 私が関わった事業では、その地域で必要とされるコミュニティセンター、橋、道路などのニーズがあったら、元兵士とその地域のコミュニティの人たちを半分ずつ労働力として雇って、共に建設作業をしてもらうことにしました。戦争で壊されたものを立て直す事業です。そこでは昼食が出るのですが、その食事はコミュニティの住民に用意してもらいます。建設費は国際社会や国連といったプログラムの方で負担しますが、地元で調達できる石など道具や材料の調達や食事の調理は周辺住民が行う。そうすることで、自分たちの地域の開発に元兵士が参加しながら、同じ時間を過ごすという仕組みを取り入れたんです。
少しずつ接したり話したりしているうちに、住民たちに元兵士たちがどんな思いで社会復帰をしようとしているのかが見えてくる。元兵士の中には無理やり兵士とさせられてしまったような人たちもいるので、そこで「相手も1人の人間なんだな」と少しでも思ってもらえる雰囲気を作っていきました。
無理に対話をさせようとすると、綺麗事しか言わなかったり、何も言わなかったり。準備ができてない人からすると、語ることがまだない状態なんですね。裁きもまだなのに話し合えだなんて、と思われてしまうこともある。けれど自分たちのコミュニティの開発復興のための作業だったら、少なくともそれ自体に参加することのメリットはある。
