岡西政典

岡西政典

セントバーナードとチワワ。見た目はまったく異なるが、同じ種だ。

(写真:cynoclub / shutterstock

見た目だけで「種」を分けることはできない

膨大な量のデータを扱うためにはそれを仕分け、カテゴライズしなくてはならない。この営みは単純なように見えて実に奥深く、人は今でも最適な方法を模索し続けている。古代から行われてきた分類学の考え方と分類学の今について、分類学者の岡西政典氏に解説してもらう。

Updated by Masanori Okanishi on November, 28, 2022, 5:00 am JST

「種」とは、我々が生活していく上で不可欠な分類である

DNAという情報の膨大さと、そこに人類への恩恵が秘められている可能性については、前稿で述べた通りである。近年、我々はこの目に見えないDNA情報を生物から取り出す方法を発展させてきた。そしてそれは、生物学全体に革命をもたらした。分類学もその例に漏れず、今まさに発展を遂げているところである。では、具体的な問題の解決例を綴る前に、生物学における前提中の前提、「種の認識」について述べてみたいと思う。

「種」という言葉を知らない、という方はいないのではないだろうか。前稿でも「新”種”」という単語を何度も用いたが、違和感を感じることはなかったと思う。種とは、我々(少なくとも多くの生物学者)が生物を認識する際の基本かつ最小の単位である。絶滅危惧「種」という言葉は使っても、その上のカテゴリーである「属」を用いて絶滅危惧「属」という言葉はほとんど耳にしない。もちろん実際には、属の単位で絶滅が危惧される生物もいるだろう。しかし我々は、生物のことを考える時には「種」を用いる。それは、この「種」というカテゴリーが、生物を認識する上で非常に便利な単位だからだ。

野良猫天国
野良猫天国。のんびりと日向ぼっこをしている。

我々ははるか昔から、身の回りの生物を分類して暮らしてきた。食べられるもの、毒のあるもの、服の材料になるもの、家の材料になるものなど。そしてその中で、同じ特徴を持つものを見出してきたはずである。それは同じような形、色、匂いを有し、同じような場所に生活し、同じように行動をして、同じような個体どうしで子供をのこす。そしてその子供は成長するに従い、大人に似ていく。こうした生物をまとめ、他と分け、認識することは、おそらく人類の大きな課題になったはずだ。なぜなら、そのような生物を利用するためには、まずはその生物集団を認識する必要があったからである。そしてそのような生物集団こそが、今日我々が「種」と呼んでいるものになっていったと考えられる。つまり「種」を認識することは、我々が生きていく上で不可欠な生活要素であるともいえる。

外見だけで分けていては、セントバーナードとチワワが同じ種であるとは認識できない

不思議なことに、人類はそれぞれの文化において、生物の種を分類している。パプワニューギニアの部族が認識していた137種の鳥類は、現在の分類学で認識されている138種とほとんど一致したという有名な例がある。そしてその種の分類・認識を全世界で統一するために、前稿で述べた学名が生み出された。

この種自体を認識する基準のことを「種概念」と呼ぶ。例えば図鑑に掲載されている種は、基本的には形で分けられている。分類が、あくまでも我々人類がその生物を認識するために行い、そして我々は外界の情報の多くを視覚から得るとすれば、図鑑のような一般的に読まれる書籍で形が基準となっているのは当然といえよう(そうでないとあまり意味がない)。このように形に基づいて種を分ける種概念は「形態学的種概念」と呼ばれる。ここまで読んで、ちょっと首をかしげる方もいるかもしれない。生物は、「形」で認識できるもの、と思っている人が多いからだ。そしてそうした方々が抱く疑問は「形で分けられない種もいるのか?」ということであろう。実はそのような種はごまんと存在する。

例えば、ヨーロッパに生息するヒメシロチョウ(Leptidea)の仲間には、外見はほとんど同じなのに、遺伝的に異なる3種が存在することが知られている※1。このように、形は全く同じなのに、遺伝子が異なっていたり、生息場所が違っていたり、植物であれば開花の時期が異なっていたり、もしくは食べた時の味が全く異なったりする生物が知られている。そのような、形では分けられないが、他の性質によって分けられる種を「隠蔽種」という。

一方で、犬種という言葉がある。セントバーナードやチワワなどは形が著しく異なるため、我々はそれぞれを犬種として呼び分けている。なのに犬は1つの生物種と考えるのが一般的である。つまり生物を認識する時、形一辺倒ではうまくいかないのである。

近年では「お互いに子孫を残せるかどうか」に着目

近年の生物学では、「生物学的種概念」というものが広く受け入れられている。これは自然界において、「お互いに交配し、子孫を残せる生物の集団」で、かつ「他の似た生物集団とは交配ができない」というような集団を「種」とする概念である。ざっくりと言えば、「お互いに子孫を残せるかどうか」に着目するのである。

この概念であれば、例えば雑種を残すことのできる犬種は、全て犬という「種」と考えることができる。形が同じでも生息場所が違っている生物は、もしそれによって子孫をお互いに残せないのであれば、別種と判断できるだろう。形による分類は便利ではあるが、種の違いを表す形を人間が「選ぶ」必要があり、その際に主観が入り込む可能性がある。それに対して生物学的種概念は、生殖ができるかできないか、という、ある意味誰が見ても、その結果さえわかれば客観的に判断できる点で実用性がある。

細菌に感染すると、別種になってしまう?

ただし、この生物学的種概念も完全ではない。例えば、細胞質不和合性と呼ばれる感染症が引き起こす問題がある。ウォルバキアという細菌に感染したある蚊のメスの子供は、交配相手の感染の有無に関わらず、ウォルバキア感染が遺伝する。感染したオスがと非感染のメスが交配をした場合、その子供は死んでしまう。これが何を意味するかというと、感染した個体同士は感染した子供を残し、感染していない個体同士は非感染の子供を残すが、お互いの間ではお互いの性質を持つ子供を残せないということである。

そしてこれを生物学的種概念に当てはめると、感染した個体と非感染の個体は別種ということになってしまうのである。これは感覚的に違和感が無いだろうか?感染していること以外、何も変わらない蚊が、感染しただけで生物学的に別種と判断されてしまうのである。便利で実用的と思えた生物学的種概念にも、それがうまく適用できない例もあるのだ。

DNA解析が発展させたもの

ここで登場するのが、DNA情報の活用だ。DNA解析には、形の観察にはないメリットがある。例えばある生物からDNA配列を取り出す時、どんな人であろうと同じ実験をすれば、同じ配列が手に入る。これは大きなメリットだ。形態を用いた分類では、研究者が違えば扱う形態が異なる可能性があるためだ。また、あまりに形が異なる生物を比較するのは難しい。細菌と我々人間で比較可能な形態は、チンパンジーと人間の間で比較できる形態に比べると遥かに少ないだろう。これに対してDNA情報は、どんな生物でもA, T, G, Cという四文字で表せ、比較可能である。

例えば前述した犬種の問題であれば、各犬種からDNAを抽出し、同じ部分の遺伝子のDNA配列を比べれば良い。細胞質不和合性の問題も、感染した蚊と非感染の蚊のDNA配列を比べてそこにほとんど違いが見られないのであれば、同種と判断できるだろう。そもそも、ヒメシロチョウの隠蔽種の例も、DNA解析の結果から判明したものである。

イチョウの落ち葉と銀杏
イチョウの落ち葉と銀杏。黄金の絨毯のよう。

近年では、新種と判断するためにこのDNA解析が用いられたり、前稿で述べたような既知種の分類の混乱に対して、このDNA解析が威力を発揮したりする。もちろん、属や、その1つ上の科や、更にその上のカテゴリーの分類においても、DNA解析は活躍している。確実に革命をもたらしたと言っても良い。

DNA配列という情報がデータベース上に溢れてきた

このように、分類学にDNAがもたらした恩恵は非常に大きい。特に、深海などに生息しており、採集が困難な種などの分類において威力を発揮する場合がある。例えば2011年にニューカレドニアの深海から発見された一個体のクモヒトデは、非常に珍しい形態を有しており、新種であると考えられたが、体の一部が欠損していたため、形だけではその分類が明らかにできなかった。その10年後に、この個体のDNA解析を行ったところ、新種だけでなく新科であることが明らかとなった※2。新科のような大きなグループを新しく設立する場合には、それ相応の根拠(たくさんの個体を見たとか、形態が著しく特殊であるとか)が必要となる。おそらくこの科は、DNA情報がなければ設立されることはなかっただろう。現在、それに100%頼る、とまではいかなくても、まずはDNA解析を行ってみるという分類学者も増えてきたように思う。そしてDNA解析は、更に新たな革命を我々にもたらし続けている。それは、DNA情報のデータベース上への蓄積である。

基本的には、生物のDNA情報は、International Nucleotide Sequence Database(INSD)という国際塩基配列データベースが管理している(塩基配列=DNAの配列)。特にあるDNAを用いて研究論文として発表する際には、各配列をこのINSDに登録し、Accession numberと呼ばれるIDを用いることが求められることが多い。今この瞬間にも、研究者が実験の末に得たDNA配列情報が、INSDに集約されている。そしてそれは、いつでも誰でもDL可能である。

前稿で人間のDNA情報は6GBに上ると述べた。一昔前までは、一週間程度の実験で得られるDNA配列は、数十種に対して、せいぜい0.5KB-2KB程度であった。しかし近年では技術の発達に伴い、100種にたいして数MBのDNA配列を得ることも可能である。文字通り、桁違いの情報量である。そしてその中には、研究には用いられなかった余剰情報まで含まれている。

分類学は溢れるDNA情報を活用できるか

日々蓄積されるこのDNA情報を、分類学はどこまで活用できるだろうか。DNAが分類学において活躍した例の多くは、0.65kbほどの比較的小さなDNA配列に基づいたものが多い。COIと呼ばれるこの配列は、生物の種の分類をちょうど表していると言われている遺伝子領域である。しかし、生物には様々なものが存在する。COIだけでは足りず、もっともっとDNA配列を比較しないと分類がわからないという種も存在する。そのような生物の場合、更にたくさん、もしかすると数MBの配列を比較してやっとその分類が明らかになるものもいるかもしれない。その意味で、DNA情報は多いに越したことは無い。従って、現在のDNA情報が溢れている状況は喜ばしいものとして受け入れられる。

しかし、生物のDNAは非常に長い。近年の技術の発展で得られる数MBというDNA情報は、決してある特定の遺伝子領域を選んで得たわけではなく、数GBという配列情報の中からランダムにピックアップした情報となることが多い。例えばある2種について、DNA情報を比較するために数MBを比較しようとしても、それが全DNAの中でランダムに選ばれたものであれば、同じ部分の比較できる配列が偶然混ざっている確率は非常に低くなる。細菌と人間の形を比べるように、端から比較が難しい状態ではないにしても、DNAデータベース上に登録されている塩基配列が、全て同じように比較できるものばかりであるとは限らない。

また、さらなる問題として、そのDNA情報は全てが分類学者によって登録されているわけではないということが挙げられる。DNA情報を扱う際に肝要なのは、当然、それがなんという生物から得られたか、ということである。研究分野にもよるが、それがわからないDNA情報を研究に扱うのは危険を伴うし、少なくとも私が研究しているクモヒトデの場合、データベース上の名前を信頼して解析を行ってみると何かがおかしく、詳しく調べてみるとその名前が間違っていたという例が実際にある。

従って今後、どんどん増えていくDNAデータを活用するためには、そのDNA情報の元の生物の正確な分類情報、つまり「ラベル」の正確性が求められることになると予想される。

次回は、このようなDNA情報と分類学的なラベルの重要性についてお話ししていきたい。

参照リンク
1. Dincă et al., 2011; https://www.nature.com/articles/ncomms1329
2. O’Hara et al., 2021; https://royalsocietypublishing.org/doi/10.1098/rspb.2021.0684