岡村 毅

岡村 毅

月山の宿で出される精進料理。手前の揚げ物はすった山芋。外国人観光客にも人気でリピーターがいる。

(写真:佐藤秀明

知性の基盤、魂の出入り口である口腔。切って削って治すことが正解とは限らない

病巣を見つけたら、それをできるだけ早く取り除くことが医療のすべきことだと信じている人は少なくないだろう。それがQOLに直結することであるならなおさらだ。しかし複数の神経が入り乱れている口腔は、治療することだけが唯一絶対の解ではないのだ。

Updated by Tsuyoshi Okamura on December, 6, 2022, 5:00 am JST

口から入ってくるものが知能の基盤を作る

人工知能の時代にあって、そもそも知能とは何かという問いが重要になる。最近の学説によれば、知能とは、単なる情報処理・演算装置ではなく、知能と身体性は切っても切り離せないという。AIにデータを「食わせる」などというが、「食う」ことの本当の意味が分かるのは、口からものを食べている我々の側であってAIではない。データを食わされているうちは本当のAIではないのかもしれない(食い始めたら本物だ)。我々が知能と言っている「何か」は、赤ちゃんの時期にとてつもない情報のシャワーを浴びて知能になっていく。その多くは口から入ってくるので、フロイトは、このはじめの段階を「口唇期」と呼んだ。フロイトが正しければ、口から入ってくるものが知能の基盤を形作ったことになる。

東京都健康長寿医療センター研究所には、歯科医師の資格を持ちつつ高齢者に優しいコミュニティの研究もしている枝広あや子氏がいる。最新の研究について聞いてみた。 

治療を受けることそのものが困難であるという実態

岡村:大学病院などの歯科・口腔外科といえば、舌癌の再建手術などをしているイメージが強いのですが、先生はどのような研究をなさっているのですか?

枝広:私は、大学病院では口腔がん手術だけでなく術後の摂食嚥下リハビリテーションなどにかかわっていましたが、最近はコミュニティでの研究に取り組んでいます。例えば、認知症がある人は歯科を受診することがとても大変になってしまうので、ソリューションの種を探せないかと考えているんです。ある地域で、歯科医の側と、高齢者とその家族の側の両面から調査を行ったのですが、予約をとる、予約通りに受診する、説明を理解する、意思決定する、治療を受ける、アフターケアを受ける、自宅でセルフケアをする、というすべてのステップで、認知症があると困難が大きいことが分かりました。また、高齢者本人や家族のみならず、歯科医の側もいろいろと苦労している実態が分かりました。

口腔を大事にするあまり歯科用器具をそろえる住民もいる。(筆者提供:訪問調査にて)

岡村:なるほど、いい治療をする以前に、受療すること自体にまつわる困難があるということですね。

枝広:そうですね。地域在住の高齢者で認知症がある人は、特に口腔内の状態が悪いケースが多いことも分かってきました。誰にとっても口腔は大事な組織なのですが……。

岡村:そうなんですか。そんな基本的なことがまだ分かっていなかったのですね。

認知症がある地域在住高齢者は調査の網からこぼれ落ちていた 

枝広:詳しく説明しましょう。認知症の有無、そして「地域に住んでいるか」「施設に住んでいるか」でマトリクスを作ります。

これまでの地域の高齢者で研究対象になっていたのは、認知症がない人でした。認知症がない方々のことは、どこかにご招待することで一気に調査することが可能です。

また、認知症があっても施設に入っている方は、スタッフがケアをするので清潔さは維持されますし、一つの場所に集まっているので研究もしやすいです。さらに、認知症がなくて施設に入っている方というのは自分で困りごとを訴えられるので、比較的口腔内の環境が維持されています。

つまり、残された第四の象限、認知症があって地域で暮らしている方は、調査もしづらく見落とされており、なにもわかっていなかったといえます。認知症がある方をそうでない方々と一緒に調査しようとすることは、非常に難しいことだからです。考えてみれば当たり前の話で、認知症がある人を地域で見つけて、しかも研究に参加してもらうことはとても大変です。研究の約束をしても、約束の日に来てくれるとは限りませんし、また同意の問題もあります。私たちはある団地で5年以上、地域の人を支援しながら併走研究をしているので、こういった多くの人の自宅に訪問して調査をするということができました。

岡村:歯科の先生方は、暑い時期にも手押し車を押して団地を歩き回ってますよね。あれはその調査をしていたと。本当に頭が下がります。ということは、認知症があると口腔内はかなりまずい状況にあるのだが、歯科受診はますます遠のく、と理解してよいのでしょうか?

枝広:残念ながら現状はそうです。口腔内の困りごとを解決する手立てに至らないで、諦めてしまっている人も多いです。しかし「美味しく食べる」「口が快適」は生活するうえでとても重要です。歯科医療はただ単に歯の治療をするだけでなく、食べることの支援を通じた生活の医療です。認知症の人で、外からの介入支援をかたくなに拒否している人も、おいしく食事ができないことは不自由なので、歯科の支援だけは受けようとする人も、稀ですがいらっしゃいます。ほかの介入で行き詰ったとき、歯科は「介入ポイント」の一つとも言えるかと思います。口が快適でないと、心にも良くない影響がありますから。

口腔内灼熱症候群。口腔の不快感は、精神を蝕んでいく 

岡村:そういえば老年精神医学では「口腔内セネストパチー」というのがあり、口の中の異常な症状、例えば歯がたくさん生えてきて落ちていくだとか、ドロドロした液体が出てくるだとか、そういう症候群が大昔から言われてきました。

枝広:海外でいうところの口腔内灼熱症候群(Burning Mouth Syndrome)ですね。口腔(歯科)心身症という言い方もします。妄想的ともとらえられる口の中の異常感覚を訴えて、歯科口腔外科を受診する方は一定数います。口腔周辺は三叉神経、顔面神経、舌咽神経、迷走神経、舌下神経などの脳神経(脳に直接つながっている神経)が複雑に絡み合っており、ちょっと気になったことが精神症状につながる、あるいは精神症状の一つの表現型になるのかもしれません。

岡村:このような人に下手に治療してしまうと、「こんな治療をされたからこんな症状がもっと出てきた」と負の連鎖に入ってしまうので、とても注意しているという話を聞いたことがあります。

すぐには「治療をしない」という選択肢もありうる

枝広:そうなんですよ。歯科治療は外科処置ですし、削ってしまうと元に戻らないので、注意が必要です。ですから、原因のはっきりしない症状を訴える方の診察では、まずは丁寧に話を聞くことにとても大きな意味があると思っています。こういった口の中の妄想的訴えをされる人の多くが、何か別の出来事に悩みを抱えていたり、生活の不具合を抱えながら生きていたりします。とはいえ、一般の歯科では、診察がはじまってしまうと、患者さんは口をあけたままにしますので、自由にしゃべれないというのが難点でもあります。

岡村:たしかに歯科診察は横になって、時にアイマスクのようなものも使いますし、なんだか精神分析みたいですね。

アワビが食べられる口でありたい。(筆者提供)

枝広:口は古来より魂が出入りするところとされてきました。フロイトも口唇期を最初にもってきていますから、ヒトの快適さの一丁目一番地です。高齢社会で、口腔医学は別の視点から再評価されてもよいのではないでしょうか。これまでの私たちの研究成果をまとめると、認知症があって地域に住んでいる人は様々な困難と共に生きていて、口腔内の環境もだいぶ悪化しているが、一方で口腔ケアは「食べる」という根源的な行為の支援に直結するので介入ポイントとしては望ましく、さらにその際に口腔という狭い領域に限局するのではなく、その人と対話をして生活の困りごとを把握することに意味があると言えるでしょう。

岡村:なるほど、非常に視野が広がりました。では枝広先生は実は何でもできるのに、一周回って「治療をしない歯科医」ということですね!

枝広:「治療をしない」と言われると外科系としては奇妙な思いですが、先生が社会にインパクトを与えるキャッチコピーを作っているんだということは分かりますよ。

インタビューは以上であるが、人は最後まで口でものを食べようとするのだから、高齢社会において口腔は重要な領域であろう。そしてコミュニティ口腔学という領域が今後勃興するとしたら、枝広先生が重要な研究者となるだろう。

取材協力:枝広あや子

1978年、北海道出身。北海道大学卒業後、東京都老人医療センター、東京歯科大学、豊島区口腔保健センターを経て現職。医療においては認知症の人の食行動障害、摂食嚥下障害を専門とし、研究においては認知症を包摂する社会の在り方を口腔から眺めている。東京都健康長寿医療センター研究所自立促進と精神保健研究チーム所属。