井山弘幸

井山弘幸

ヨハネス・フェルメール『天秤を持つ女』Johannes Vermeer|Woman Holding a Balance, c. 1664|image via National Gallery of Art

(写真:the National Gallery /

天秤の神通力は誰にも通じるか

デジタル表示が当たり前の今からすると「天秤」は考古遺物のようなものだが、昭和の学校教育ではまだ使われていた。そして天秤は正邪や真偽の裁定に不可欠な審理の道具であった。なぜこの不便な測定器が重宝されたのだろうか。歴史を振り返ってみよう。

Updated by Hiroyuki Iyama on December, 27, 2022, 5:00 am JST

絵画に見られる天秤

西欧の絵画には天秤がよく描かれる。例えば、アルブレヒト・デューラーの版画「ヨハネの黙示録の四騎士」(1497-98)を見ると、第三の封印が解かれ現れた馬上の騎士は、右手に天秤を持っている。「食料を制限するための地上に飢饉をもたらす目的で」と解釈されたりするが、もともと重さを秤るための道具である天秤を、宗教絵画のなかで見ると奇異に感じるものだ。馬の勢いで風に靡(なび)いていて何も載っていないことも気になる。他の絵画作品でも「ヨハネ黙示録」の記述にしたがい、天秤をもつ騎士像がよく見られる。

初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデン「最後の審判」(1415-1450)では、天秤をもつ大天使ミカエルの姿が中央に描かれている。魂の公正さをはかるためとされる。これは最後の審判で復活したイエス・キリストが再臨し裁きを行い「永遠の生命を与えられる者と、地獄に墜ちる者を分ける」という黙示録の記述にしたがうものである。「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る」(22章)。よく見ると天秤の両皿には裸身の男女が載せられていて、右の皿、男性側に傾いている。両者の魂の重さ、罪の深さや信仰の篤さが較べられている。信仰ある者からすれば怖い話である。

ヨハネス・フェルメール『天秤を持つ女』Johannes Vermeer|Woman Holding a Balance, c. 1664|image via National Gallery of Art

フェルメールの名画「天秤を持つ」(1662年頃)では妊婦が天秤の平衡を保ち、背景に「最後の審判」が描かれているが、机の上には硬貨が置かれていて、寓意はともかくとして、こちらが天秤の本来の使いかただろう。天秤を使う両替商や金貸しを描いた世俗的な絵画作品もある。

文学に見られる天秤

文学作品の中にも、天秤はやはり審理の道具として登場する。アナトール・フランスの短編小説「黒パン」の主人公のニコラ・ネルリは金貸しで渡世している。てっきり商売道具の天秤が出てくると思いきや、さにあらず。大胆にして細心、詭計を以て得たものをいみじくも暴力で守り、巨万の富を得た。ところが夜中に突然卒中に襲われ、光に包まれた大天使ミカエルが現れる。ミカエルは天秤を手にして、秤皿にあれこれ載せている。重く下がっている皿には、ニコラが質草にとった宝石や違法に得た銀貨が積みあがっている。つまり、ニコラの悪行が皿の上に重ねられ置かれている。ニコラは慌てて懇願し、聖堂への寄進や慈善病院への寄付を持ち出すも、軽くて浮き上がっている皿は一向に下がってこない。どうして大枚をはたいて行なった善行が皿を押し下げないのだろう。とうとうニコラは天秤の狂いを疑う。ミカエルはそれを一笑に付し「パリの高利貸しやヴェニスの両替屋が使う天秤を手本にして作ったのではないから」、正確さを心配する必要はないと諭す。天使が皮肉を言うところが面白い。と同時に、俗世界の天秤の正確さは保証の限りでない、とやんわり指摘する。「では地獄へ参るのですか」と恐懼してつぶやくと、まだ天秤を握っているミカエルは慌てるなと善行の皿に黒パンを載せる。これは富める金貸しが前夜、貧しき者に投げ与えたパンだ。すると驚いたことに、善行の皿は忽ちぐっと下がり二枚の皿はぴたりと水平を保ち、完全な平衡を示したのである。

ミカエルは、お前は天国も地獄も不向きだ、現世にもどり貧者に救いの手を差し伸べよと命じ、ニコラは夢から覚めて以後慈悲深い高徳の人士となる、という物語である。金貸しの改心という点ではディケンズの「クリスマス・キャロル」と似ているし、モルナール・フェレンツェの戯曲「リリオム」では同じように巨大な天秤が現れ、暴力沙汰で落命したリリオムを裁く。数々の悪行が皿を押し下げるも、残した妻の娘への一言で昇天する。「あの人は私をぶったけれど、不思議よね、全然痛くなかったの」。心温まるエンディングだけれど、この天秤の評価基準は、神ならぬ人間には知り得ないものだ。

貨幣経済を支える天秤の権威

こうしてみると天秤には、敬虔な魂や善なる精神を判別する力がある、と考えられていたことが分かる。だが善行や真実を見抜く力を、本来の天秤の機能にもとめることはできない。キリストや天使、あるいはテミスやアストライア女神など人間を超越する存在が手にして初めてその力をもつ。さて、どうしてだろうか。

誰でもわかる天秤の通常の機能とは、左右の秤皿の重さを比較することである。片方に標準となる分銅を置くことで、サンプルの重さを秤量できる。天秤の歴史は古く、古代エジプトのパピルス「死者の書」にも描かれていて五千年以上前から存在するし、古代中国の周代の文献にも散見する。日本では「日本書紀」の天智天皇元年の記録にある。もっとも、一般的な天秤の使用は貨幣の鋳造及び鑑定である。安定した貨幣の流通には欠かせない道具だったのである。とくに江戸時代になってからは、天秤の製造、頒布、検定、修繕などを独占する認可機関である秤座(はかりざ)が設けられた。性能検査をして天秤の信用性を保証する特権組織で、規格化された定制の秤の販売をする以外、従来からある古秤の検定権も与えられた。検定を通過しないと没収され、適性のものは守隨家の印を押捺し保証したと言う。秤座の起源は室町時代にあり、京都では仕官し免許を得た「神の家」が支配していた。「神」も「守隨」も姓であり、両家で東西を二分して管轄した。それにしても天秤製作の権限をもつ者が「神」とは、偶然とはいえ面白い。

綿1kgと鉄1kgどっちが重い?

子供の頃の頓智に「綿1kgと鉄1kgとどっちが重い?」という問いがあった。日常生活の感覚だと、鉄の方が重いと錯覚する。鉄と答えさせ「残念でした、どちらも同じ重さです」と教え諭す。それでもこの頓智には、思惑とは違うより深い問題が隠されている。いま目の前にある綿と鉄がどちらも同じ1kgであることの根拠は何か、と問うてみよう。それでは両天秤にかけて綿と鉄を量ってみよう。ほら見てごらん。ぴたりと釣り合う。ついで綿と鉄を1kgの分銅と置き換えてみれば、綿、鉄、分銅が同じ重さだと分かる。…いや、そこですよ。じっくり考えないといけないところは!

何故天秤が釣り合っていると同じ重さなのですか、と更に突っ込んでみよう。万有引力をニュートンが思いつく遥か昔から天秤はあるけれども、地球の引力を持ち出したところで、なかなか説明することは難しい。

カナダ北極のバフィン島
カナダ北極のバフィン島。キリスト教の宣教師の一団が布教のために上陸した場所。1900年代撮影。

現実問題として天秤の秤皿が水平に釣り合ったとしても、なおかつ両者の重さが異なるという可能性は十分にある。

1.水平に保たれている棹が均質ではなく、密度分布がまばらでどちらかに片寄っているか、左右で材質が異なる場合。
2. 実験の場所の付近に巨大な山塊があり、水平方向に引力が働く場合。
3. 太陽の2.2倍の引力を及ぼす月の位置が一方の上空にあるとき。
4. 地殻のマントルの不均衡ゆえジオイド面が曲がっている状況。
5. 室内に上昇気流が発生している。
6. 重さという量は手で支えたときに得られる実感である、と定義するならば、天秤の秤量の結果とは関係ない…等々。

西欧では産業革命期に平行運動機構が発明され、上皿天秤の精密化が行われたけれども、一般民衆が皮膚感覚で捉えている「重さ」を別の概念に統一するためには、測定器の権威づけが不可欠であった。上記の6が重要な点であり「重さとは天秤で釣り合った分銅で示される数値である」と権威によって定義する必要があったのである。その権威を揮うための秤座であり度量衡委員会であり、教科書を通しての国家教育の強制であった。

「体が重い」とか、「手で持つより背負う方が軽い」という日常言語での重さの感覚は、ナポレオン時代に考案されたメートル法の権威と教育による普及によって忘れられるか、錯覚として葬られてしまったのである。奇しくも古代中国で初めて度量衡の統一がなされたのは始皇帝の御代であった。アニメの「キングダム」のように圧倒的な軍事力を背景に、戦国七雄の残りの六国に対して、法と文字と単位の強制を遂行したのである。測定単位の普及と理解の背景には、量規定を強制できる権力が存在する。日本では太閤秀吉が全国検地を行ない、一升枡の基準として京枡を普及させたが、これも太閤の威光ゆえのことである(威徳とは言わないけれど)。反対に、権力が失墜すれば、その量単位も一蓮托生だ。有名な例は、通貨単位のジンバブエドル紙幣である。2015年に廃止になるまでパン1斤3,000億ジンバブエドルを記録するほど、ものの価値を示す単位としては信用されなくなった。スーパーでレジまで歩く時間で値段が倍になったという笑えない話がある。同様のハイパーインフレは、第一次大戦後のドイツのマルク紙幣にも起きている。

真実をみちびく天秤

重さをはかるだけで真実を見抜くこともある。それも劇的なかたちで。両替商や金貸しは、贋金を選別できなくてはならない。天秤の秤皿の一方に金貨を、他方に同じサイズの硬貨を置く。これで釣り合えばこの硬貨は本物。もし金貨が下がれば硬貨は偽物。これは古くから知られた金属のなかで、金の比重がもっとも大きいために生まれた鑑別法だ。金の比重は17.32で、確かに硬貨に使われる鉛(11.35)、銀(10.50)、銅(8.96)、鉄(7.87) 錫(7.31)よりも大きい。だがこれは歴史的な偶然に過ぎない。19世紀に発見、単離された白金(21.45)で同サイズの硬貨を作れば、金貨の方が上にあがる。20世紀に発見されたオスミウム(22.57)とイリジウム(22.42)も同様だし、この二つの金属にいたっては、製造コストが金より高い。もっともどちらが上がろうと金貨と比重が違うことは分かる、という意味で辛うじて鑑別手段としては有効だが、天秤の皿がさがること、すなわち真実であるというメタファーは崩れてしまう。

だが、天秤の不均衡が真実を二重の意味で見抜いた稀有の例がある。アルキメデス Archimedes, B.C.287-212が何故風呂から飛び出し裸で駆け出したのか、その理由を説明したのは事件から約1800年後のガリレオ Galileo Galilei, 1564-1642である。「偽金鑑定官」Il saggiatore という科学論の本も書いている。

アルキメデスの死後約300年経って書かれたウィトルウィウスの「建築の書」に事件の模様が伝えられている。シチリアのシラクサでヒエロン王の食客であり軍事顧問でもあったアルキメデスは、王冠制作の不正を調べるよう言い渡される。工匠に与えた純金とできあがった王冠の重さが等しいことは、天秤で確かめられている。だが内部告発があり、職人は金塊の一部をくすね、代わりに同じ重さの銀を混ぜたと言うのだ。以下ウィトルウィウスからの引用である。

ヒエロン王は、自分が馬鹿にされたと憤りながら、どんな方法でこのごまかしを咎めたら良いかわからなかったので、アルキメデスに彼のために考えてくれるよう要請した。そこでアルキメデスはこの問題に心を配っていたが、たまたま公衆浴場に行きそこで浴槽に浸かった、まさにその時、沈んだ自分の身体の量だけ湯が浴槽の外に溢れたことに気がついた。このことがこの問題の解決にヒントを与え、取るものも取りあえず喜び勇んで浴槽から飛び出し、裸のまま家に走り戻り、求めているものが見つかったと大声で触れまわったのである。彼は走りながら繰り返し繰り返しギリシア語で「ヘウレーカ、ヘウレーカ」と叫んだのだ。

この難問を如何に解決するか考えあぐねたアルキメデスが公衆浴場で「湯があふれ出る」のを見て解決法を思いついた、とウィトルウィウスは伝える。叫び声ヘウレーカ heurekaはギリシャ語で、英語の発見法 heuristicsの語源だ。しかし困ったことにアルキメデスがどうやって王冠の不正を暴いたのか、ウィトルウィウスはその方法を正確に記していないのだ。湯があふれたことから、王冠を水につけて体積を計り、全体の重さをその値で割って比重をもとめたのであろう、という安易な解釈が一般的であった。だがこれは裸で走り出すほどの歓喜を伴う発見に相応しいとは言えない、誰でも思いつきそうな方法だ。それに決して正確な測定法ではない。

16世紀末頃から古代の哲人アルキメデスの業績を讃え、復元し編集しようという動きがあって、悠久の時を経てこの王冠問題が注目された。やはりこの体積測定の方法ではない、もっと巧妙な工夫があったのではないか。これに応えたのがガリレオで、奇抜であると同時に決定的な方法を考案したのである。つまりこうだ。工匠に与えたものと同じ重さの金塊を一方の秤皿に、疑われた王冠をもう一方の秤皿に載せる。当然、釣り合っている。工匠は余裕の態度でこれを見守るだろう。そこでたっぷりと水を注いだ水槽を用意する。釣り合ったままの天秤をゆっくりとそのなかに沈める。すると王冠の皿が上方にあがり、金塊の皿がさがるではないか!かくして、恐れおののく工匠は罪を認める。水に浸かった体積に等しい浮力の差が天秤の傾きに現れたのだ。

これでも、まだ重要な問題が一つ残されている。ヒエロン王にしても工匠にしても、浮力の原理を理解している訳ではない。だから天秤の傾きが、すなわち王冠の制作の不正であるという推論の組み立てが伝わらない。もしこれが真実であるのならば、それは天秤のもつ「神聖な裁きの力」あるいは「真贋を見抜く力」を利用できたからに他ならないのである。かくして、冒頭で述べた天秤の権威は近代以降においても脈々と生きているのである。

参考文献
アナトール・フランス「黒パン」(『アナトール・フランス小説集〈8〉聖女クララの泉』白水社)
クリスマス・キャロル』チャールズ・ディケンズ 村岡花子訳(新潮社 2011年)
『リリオム』モルナール・フェレンツェ 飯島正訳(中央公論新社 1976年)
『偽金鑑識官』ガリレオ・ガリレイ 山田慶兒・谷泰訳(中央公論新社 2009年)
プルターク英雄伝(一)』 テーセウス他 河野与一 訳(岩波書店 1952年)
『建築書』ウィトルーウィウス 森田慶一訳(東海大学出版会 1979年)
パラドックスの科学──科学的推論と発見はいかになされるか』井山弘幸(新曜社 2013年)