村上陽一郎

村上陽一郎

荒井勝喜前首相秘書官の発言をめぐり、緊急寄稿をした村上陽一郎氏

「鳩山由紀夫氏の顔など見るのも嫌だ」と語ったら、私は鳩山氏を「差別」したことになるのだろうか

荒井勝喜前首相秘書官の発言が批判にさらされている。村上陽一郎氏はこれに対し、ある種の批判は「筋違い」と述べた。

Updated by Yoichiro Murakami on February, 8, 2023, 3:00 pm JST

荒井前首相秘書官の言動が、批判の嵐にあっている。オフレコの前提で語ったことが、いとも簡単に世に出回る、というのはそもそも人間の信義に悖るとはいえ、あの内容を現時点で政治に関わる人間が発言したという点に関しては、弁護の余地はない。それこそ、社会のなかに潜在するある種の傾向への「忖度」が足りなかったのは、「言語道断」と言われても致し方ないと私も思う。

ここから先書くのを止めて置けばよいのだろうが、袋叩きも、この歳になると別段怖くはないので敢えて書こう。荒井氏の言動は、LGBTの団体の方々が、しきりにそう主張しているのは承知しているが、「差別」なのだろうか。差別とは、誰かが謂われなく何らかの社会的不利益を被ったときに発する。あの発言でそうした事態がどこかで起こったであろうか。あるいは不快感を覚えた人はいるかもしれない。しかし、その場合は、あの発言は極めて不快であった、と述べれば済むことではないか。荒井氏も、自分は、ある種の人々の言動に強い不快感を持っている、と述べただけであって、それで、おあいこになって終わりではないか。

例えば「自分は、軍人は見るのも嫌、隣にいるのもいや」と発言した人がいたとしよう。その人は軍人を「差別」したのだろうか。そうではなく、単に自分の好悪感を述べたに過ぎない。世の中にはそうした感覚を持つ人もいるのだな、でお仕舞だろう。

もう一度確認するが、私は、荒井氏が謂われなき批判を受けた、と主張しているわけでは毛頭ない。最初にお断りしたように、政治に関わる人間として、一つ、オフレコなる約束が守られると信じた馬鹿正直さ、二つ、社会の中に存在する潮流を忖度しなかった愚かさ、この二点で、明らかに失格である。批判が「荒井氏は政治家として不適任である」ということなら、百パーセント正しい。ただ、ここで論じたのは、全く別の問題である。「差別」を旗印に掲げて荒井氏を弾劾するのは筋違いではないか、なのである。ポイントは、「私は鳩山由紀夫氏の顔など見るのも嫌だ」と私が語ったら、私は鳩山氏を「差別」したことになるのだろうか、という一点に尽きる。そして、私は、ある対象に愛を感じたり、嫌悪を感じたりすることを否定されることには、人間として耐えられない。実際今日の報道では、誰を愛するか、によって人が差別を受けてはならない、と国際的人権団体が表明したという。この「愛する」を「嫌悪する」に置き換えても、事態は全く変わらないはずではないか。