井山弘幸

井山弘幸

Heelmeester|1695

(写真:アムステルダム国立美術館 / Rijksmuseum Amsterdam

エセ治療を廃止するために必要な「不在データ」

物事を検討するためにデータを参照することは、今や当たり前の所作である。しかし「テキスト」が最も重要であった時代にはそうではなかった。そして、データを無視することは人類に多大な損失をもたらしてきたのである……。

Updated by Hiroyuki Iyama on October, 6, 2023, 5:00 am JST

北里柴三郎と森鴎外の対立は、データ対テキストの闘いだった

日本近代医学の礎を築いてきた北里柴三郎はコッホのもとで病原菌の研究をしていたが、同時期にベルリン留学中の軍医森林太郎(後の鷗外)との間で学術論争を繰り返していた。他でもない、脚気の原因をめぐる論争だ。

当時の帝国陸軍は脚気に苦しむ軍人が多く、鷗外にとっては喫緊の課題。脚気に関して、更に前にベルリン大学衛生研究所に留学した緒方正規が「脚気菌?」を発見したという発表をしていて、鴎外もこれを支持し、脚気は脚気菌による感染症だと考えていた。

これに対し北里は緒方が発見した「脚気菌」は雑菌だったとし、何らかの栄養素の欠乏症だと主張して論争は続いた。東京帝大医学部の見解に異を唱えたおかげで彼は帰国後東京帝大のポストを得ることができなかったが(福沢諭吉の援助を得て伝染病研究所を設立する)、コッホのもとで感染症の原因菌を研究していた北里が脚気は感染によるものではない、と主張した点は興味深い。当時勃興しつつあった感染理論はすでにテキスト化され、その権威を信じる鴎外と、顕微鏡による観察データを重視する北里の対立はそのまま、データ対テキストの因縁深い闘いの縮図であった。

観察して得られたデータよりも、テキストが正しかった

データ重視の考え方がテキストの伝統に打ち勝つまでは悠久の年月を必要とした。とくに西欧医学においては、古代ギリシアのヒポクラテス(前5世紀)、ローマ時代のガレノス(2世紀)、イスラム黄金期の哲学者で医師のアヴィケンナ(10-11世紀)。この3人の医聖のテキストは大学医学部の聖典として教育の場に君臨し、医学生たちは自分の目で見て、観察から学ぶのではなく、テキストにある学説を通して対象を診ることを強いられていた。

たとえば、ガレノスのテキストでは、食物は腸から摂取されて肝臓へ行き、そこで血液になって右心室に入り、左右心室間の隔中壁にある多数の「小孔」を通って左心室に流れ込み、ここで肺からきた吸気と一緒になり真紅色の生命精気となって全身をめぐる、とされていた。分かりやすく言えば、心臓の真ん中に穴が開いていて血液が行き来できる。今では先天性疾患である心室中隔欠損症のようなもので、余り健康そうには思えない。普通の人間の心臓がそうなっている、と千年以上信じられていたのだ。だが14世紀以降解禁となっていた死体の解剖において、あるはずの「隔中壁の小孔」は見つからない。裸の王様は服を着ていない、と叫んだ童話の少年の話とは違い、権威に逆らって見たままの事実を指摘することは難しいことだった。

このように不在のデータとテキストの記述が対立した時、医学界の権威はテキストが正しいとした。教科書と異なる実験結果がでたら、その実験が間違いだと言うに等しい。多かれ少なかれ、今でも大学理学部の実験室から聞こえてくる話であるが、この小孔に関してだけは1543年にヴェサリウスが人体解剖図を発表して、更に1628年にハーヴェが血液循環を指摘してからは、観察データの方が信用されるようになった。