松浦晋也

松浦晋也

(写真:alleks19760526 / shutterstock

機械と人間はどちらが有能なのか。1960年代、宇宙における答え

機械と人間では、いったいどちらが有能なのかーー。この問いは今になって起きてきたものではない。1960年代にはすでに、宇宙開発を通じて人間はその答えを探りはじめていた。科学ジャーナリストの松浦晋也氏が宇宙に人がいる意義を考える。

Updated by Shinya Matsuura on October, 10, 2023, 5:00 am JST

文句の付けようがなかったガガーリンの宇宙飛行

宇宙に人がいく——20世紀のロケット工学の長足の進歩が、人間を宇宙空間に送り出すことを可能にした1950年代、宇宙を知るには人が赴くしかなかった。今ならばまずはコンピューターで制御する観測機器を搭載した無人探査機が赴くところでも、エレクトロニクスもロボット工学も未発達な当時は、人が行って、見て、感じて、言葉で報告する必要があった。
こうして、当然のようにソ連とアメリカで、有人宇宙飛行計画が始まる。が、米ソの計画は、人間を計画の中でどのように位置付けるかは対照的であった。

先行したソ連は、1960年に宇宙飛行士候補「TsPK-1」の20人を選抜。その中から優秀な者6人を、最初の飛行計画の宇宙飛行士候補として優先的に訓練した。その中から、ユーリ・ガガーリンが最初の飛行に選ばれて、1961年4月12日に有人宇宙船「ボストーク1号」で、人類初の宇宙飛行に成功する。

宇宙飛行は通常は高度100km以上の飛行を意味する。「通常は」というのは、アメリカの軍は高度50マイル(80km)以上と定義して、実験機「X-15」が行った高度飛行のテストパイロットも宇宙飛行士の数に入れているからなのだが、ともあれ80kmなり100kmなりに到達すれば宇宙飛行士ということになる。が、ガガーリンの飛行はそれ以上だった。単に100km以上に上がって、そのまま降りてくる弾道飛行でも宇宙飛行といえる。しかしガガーリンの飛行は地球を回る軌道に一度入る、軌道飛行だった。弾道飛行と軌道飛行では必要な運動エネルギーが10倍以上異なる。高度300kmほどの地球を周回する軌道に入り、地球を一周し、逆噴射で地上に帰還する——ガガーリンの飛行は、文句の付けようのない、宇宙飛行であった。

ソ連が「宇宙飛行士は若い方がよい」と判断した理由

ところで、ソ連が選抜した最初の宇宙飛行士候補6人の、1960年末における年齢を見てみよう。ユーリ・ガガーリン(26歳)、ゲルマン・チトフ(25歳)、アンドリアン・ニコライエフ(31歳)、ワレリー・ビコフスキー(26歳)、パーヴェル・ポポビッチ(30歳)、グレゴリー・ネリューボフ(26歳)——みな、非常に若い。

若いということは、経験を積んでいないということだ。つまりソ連の宇宙飛行計画は宇宙飛行士に経験知を要求していなかった。経験知とは、未知の状況に直面した時に過去の経験と照らし合わせて、的確な対処ができる能力だ。そのような能力を、ソ連は宇宙飛行士に要求しなかった。

ガガーリンら6人が選抜された理由は、まず体力があり、訓練の結果が優秀であったことだった。人間の身体的能力は20代から30代初めがピークである。次いで小柄であること。ボストーク宇宙船は狭く、体格が大きな者は乗れなかった。そして、政治的要請として労働者階級出身であること。共産国家ソ連としては、共産主義の優越性を世界にアピールするために、人類で初めて宇宙に行く者は、資本家ではなく労働者である必要があった。もちろん若いと、共産主義の広告塔としても見栄えは良い。

そもそも、ボストーク宇宙船は、搭乗する宇宙飛行士が、ほとんど何も判断しなくても良いように作られていた。ボストーク宇宙船を動かしているのは、約6,000個のトランジスタで構成された電子回路だった。今風の言い方をすればハードワイヤードで作り込まれたシーケンサーということになる。打ち上げ後、予め設定されたーシーケンスの通りに宇宙船を動作させ、地上に帰還させる。
シーケンスが正常に走っている限り、宇宙飛行士の判断は必要ない。ロケット側が地球周回軌道に放り込んでくれれば後は、宇宙船そのものが自律的に動作する。宇宙飛行士は何をする必要もない。
宇宙飛行士に要求されたのは、打ち上げから帰還までの宇宙飛行において。何が起きているかを記録し、報告することであった。つまり宇宙飛行士は今で言うセンサーであり観測機器だった。正確な記録と報告には知力が必要であり、何が起きるか分からない宇宙において知力を支えるのは体力だ。だから宇宙飛行士は若いほうがよい、ということになる。

人間が宇宙船を操縦できることを重視したアメリカ

対してアメリカは1959年4月に最初の宇宙飛行士候補「マーキュリー・セブン」の7名を選抜した。応募資格は、1)40歳未満、2)身長5フィート11インチ(1.8m)未満、3)体調良好、4)学士号または同等の学位を持つ、5)テストパイロット学校の卒業生、6)飛行時間1,500時間以上、7)ジェット機操縦資格を持つこと——というものだった。つまり軍のテスト・パイロットである。
軍用試作機の試験飛行を担当するテストパイロットは、何が起きてもきちんと状況を把握・報告し、なおかつ機体を破棄したり破壊したりすることなく安全に着陸させることを要求される。つまりアメリカは、何が起きるか分からない宇宙飛行において、十分な経験を積み、訓練を受けた人間の判断力・適応力が重要だと考えたのである。

選ばれた7人の、1960年末時点での年齢は以下の通り。
スコット・カーペンター(35歳)、ゴードン・クーパー(33歳)、ジョン・グレン(39歳)、ガス・グリソム(38歳)、ウォーリー・シラー(37歳)、アラン・シェパード(37歳)、ディーク・スレイトン(36歳)。

ガガーリンらと比べると、ほぼ10年は年長である。それだけ経験を積んだメンバーを集めたのだ。
宇宙飛行士候補を、軍のテストパイロットから選んだことは、宇宙船の設計にも影響した。彼らは「我々はテストパイロットである。従って我々の乗る宇宙船は操縦できるべきである」と主張した。結果、アメリカ初の有人宇宙船「マーキュリー」「ジェミニ」「アポロ」には、搭乗する宇宙飛行士が外部を確認するための窓と、宇宙飛行士による姿勢と軌道の変更機能が装備された。宇宙飛行士が操縦桿を操作すると、機体各部に装備されたスラスターという小さなロケットエンジンが噴射して、機体の姿勢、あるいは機体が飛行する軌道を変更することができる。エンジンそのものは、1)地上の管制局からの指令、2)搭載シーケンサーによる自動操作、3)宇宙飛行士による操縦桿への入力——の3つの方法で噴射させることができたが、3)の宇宙飛行士による入力が、1)と2)よりも優先される設計となった。宇宙飛行士に操縦手段を与えなかったボストーク宇宙船の設計とは対照的である。

宇宙では経験に基づく判断力が役に立つとは限らない

一体、ソ連とアメリカのどちらが正しかったのか。
原理原則に立てば、正しいのはソ連だった。空気のない宇宙空間は、ニュートンの運動法則通りに物体は運動する。つまり完全に予測可能だ。帰還時の大気圏再突入時も、秒速7kmというような高速飛行でかつ希薄な大気圏上層部を突っ切る場合には、大気の振る舞いは、気体分子が機体に衝突するという単純な力学的過程で近似できる。つまり比較的簡単に計算でき、しかも計算が狂うことはない。だから宇宙機の動作は、機械的なシーケンスの進行だけで制御できるし、原則としてはそれで問題ない。機械にできることは機械にやらせて、人間は人間にしかできないことを行うという点では、ソ連の考え方は優れていた。

人間の訓練と経験に基づく判断力・適応力に期待するアメリカの方法は、特に初期にいくつかの失敗を起こした。人間には先入観がある。経験に基づく判断力・適応力とは、別の言い方をすれば先入観に他ならない。そして宇宙空間は、普段人間が生きている地球上のとは完全に異質の環境であり、先入観が通用するとは限らない。
例えば、同じ地球周回軌道を飛行する2機の宇宙機があるとする。後方から追う宇宙機が、前方の宇宙機に追いつくにはどうすればいいか。

普通に地上の常識で考えれば、ロケット噴射で加速して前の宇宙機に追いつけばいい、ということになる。しかしこれは間違いだ。正解は「前に向けて逆噴射して、減速する」なのである。
前に向いて逆噴射して減速する。すると軌道高度が下がる。下がると坂を下るのと同じことで速度が上がる。速度が上がると軌道高度が上がる。つまり減速することで位置エネルギーが運動エネルギーになって加速し、前に追いつくのである。
逆に加速して追いつこうとすると、今度は軌道高度が上がって速度が遅くなる。つまり追いつくつもりがますます離れていってしまうのだ。

アメリカは1人乗りのマーキュリー宇宙船に続いて、2人乗りのジェミニ宇宙船を開発した。ジェミニ宇宙船は、有人月着陸を目指すアポロ計画のための技術試験に使われた。中でも軌道上でのランデブー・ドッキング技術の実証は重要な項目だった。アポロ宇宙船は月周回軌道で、軌道船と着陸船が分離して、着陸船のみが月面に降りる。帰還時は月面から上昇してきた月着陸船と軌道船がランデブー・ドッキングして軌道船のみが地球に帰還する。ランデブー・ドッキング技術が実証できないと、アポロ計画は実施不可能になるのだ。

ジェミニ宇宙船によるランデブー試験は、1965年6月打ち上げのジェミニ4号から始まった。この時は、軌道上にあったタイタンロケット第2段を標的として、ジェミニ宇宙船を近づけてランデブーするという試験が実施された。パイロットのジェームズ・マクディビット飛行士はジェミニ宇宙船のスラスターを操作して、タイタン2段に近づこうとした。しかし、いくら噴射して加速しても、逆にタイタン2段は遠ざかってしまう。結局このランデブー試験は失敗に終わった。
マクディビット飛行士はもちろんのこと、訓練プログラムを作成した技術者達も、この時点では周回軌道における物体運動の力学を理解していなかったのである。

人間はコンピューターよりも有能だった

しかし、1960年代においては、機械に任せるソ連のやり方が正しいかといえばそうでもなかった。宇宙空間でソ連の宇宙船はよく動作不良を起こした。単純なシーケンサーによる制御では、動作不良が起きても回復させることができない。そのままミッションのすべてが失敗してしまう。トラブル発生時に回復動作を行わせるには、最低でも「もしも条件Aの場合は、Bの操作をせよ、さもなくばCの動作をせよ」という条件分岐をシーケンスの中に組み込む必要がある。これを行うにはコンピューターを宇宙船に搭載して、コンピューター上で走るプログラムから機体の制御を行う必要がある。が、1960年代、まだコンピューターは発達途上で、そのような用途への応用は始まったばかりだった。

宇宙飛行士は、高価で貴重で動作のためには快適な温度と空気と水と食料を必要とする、大変やっかいな宇宙船の部品であった。しかし、当時の、重くて電力を食い、その割に能力は低く、できることは限られていたコンピューターに比べると、はるかに有能で融通が利いた。それが徹底的に訓練された軍のテストパイロットならばなおさらだった。

1966年3月に打ち上げられたジェミニ8号は、先行して打ち上げた「アジェナ」標的衛星にランデブーし、かつドッキングまで行う試験を実施した。試験は成功し、ジェミニ8号はアジェナとドッキングしたが、直後にその状態でスラスターを噴射して姿勢を変える試験を行ったところ、スラスターの故障のため回転が止まらなくなった。シーケンサーの自動制御ならばそこで試験は失敗していたところだが、ジェミニ8号のニール・アームストロング船長は、素速くアジェナの切り離しを実施し、地球に緊急帰還することに成功した。

1969年7月20日、ニール・アームストロングは、アポロ11号船長として月着陸船「イーグル」にバズ・オルドリン飛行士と共に搭乗し、月面の静かの海へと降下した。月面からの高度1,800mまで降下した時、着陸用レーダーからの高度情報を処理する搭載コンピューターにエラーが発生した。また、事前の着陸予定地点に岩があるのが見えたため、アームストロングはイーグルの操縦を手動に切り換え、自ら操縦した。エンジン推進剤の残量がどんどん減っていく中、アームストロングは安全な着陸地点を探し、クレーターを回避し、月面に着陸することに成功した。
この時確かに、ニール・アームストロングは1969年の宇宙空間において、人間が機械よりも有能で強力であることを実証したのであった。

参照リンク
TsPK-1 astronaut group, 1960
Russia’s early manned space flight projects (1945-1963)
Project Mercury – America’s First Astronauts | NASA
Gemini 4 – Spacecraft
Apollo 11 Mission Overview – NASA