文句の付けようがなかったガガーリンの宇宙飛行
宇宙に人がいく——20世紀のロケット工学の長足の進歩が、人間を宇宙空間に送り出すことを可能にした1950年代、宇宙を知るには人が赴くしかなかった。今ならばまずはコンピューターで制御する観測機器を搭載した無人探査機が赴くところでも、エレクトロニクスもロボット工学も未発達な当時は、人が行って、見て、感じて、言葉で報告する必要があった。
こうして、当然のようにソ連とアメリカで、有人宇宙飛行計画が始まる。が、米ソの計画は、人間を計画の中でどのように位置付けるかは対照的であった。
先行したソ連は、1960年に宇宙飛行士候補「TsPK-1」の20人を選抜。その中から優秀な者6人を、最初の飛行計画の宇宙飛行士候補として優先的に訓練した。その中から、ユーリ・ガガーリンが最初の飛行に選ばれて、1961年4月12日に有人宇宙船「ボストーク1号」で、人類初の宇宙飛行に成功する。
宇宙飛行は通常は高度100km以上の飛行を意味する。「通常は」というのは、アメリカの軍は高度50マイル(80km)以上と定義して、実験機「X-15」が行った高度飛行のテストパイロットも宇宙飛行士の数に入れているからなのだが、ともあれ80kmなり100kmなりに到達すれば宇宙飛行士ということになる。が、ガガーリンの飛行はそれ以上だった。単に100km以上に上がって、そのまま降りてくる弾道飛行でも宇宙飛行といえる。しかしガガーリンの飛行は地球を回る軌道に一度入る、軌道飛行だった。弾道飛行と軌道飛行では必要な運動エネルギーが10倍以上異なる。高度300kmほどの地球を周回する軌道に入り、地球を一周し、逆噴射で地上に帰還する——ガガーリンの飛行は、文句の付けようのない、宇宙飛行であった。