久野愛

久野愛

(写真:andrey_l / shutterstock

人とモノとの接し方を大きく変えた「セロハン」という素材

あるモノの登場がそれまでの文化や生活を大きく変えてしまうことがある。包装などによく使われる「セロハン」もそんなモノの一種だ。私たちは今、ほとんど無自覚にセロハンによって導かれた消費生活を謳歌している。

Updated by Ai Hisano on March, 1, 2024, 5:00 am JST

身体がドレスの一部となる「セロハン・ドレス」

「Torso in Cellophane Dress(セロハン・ドレスを着た胴体)」という写真をご存じだろうか。これは、シュルレアリストの写真家として知られるマン・レイが、1929年に撮影した作品で、1934年刊行の写真集『Photographs by Man Ray: 1920–1934 Paris』に収められている(リンク内37番の写真)。セロハンで作られた「ドレス」を体に巻きつけた女性の胴体がアップで写っており、セロハンを通してモデルの胸や腹、足の形がうっすら透けて見えている。

1920年代から30年代にかけて、セロハンは、特にその生産・使用が拡大した米国において、単なる包装フィルムとしてだけでなく、近代的な技術や生活スタイルを象徴するものとして、写真や歌の歌詞、映画、風刺画などのモチーフとしても用いられるようになった。先述のレイの写真のほか、例えば、1933年9月、エスクァイア誌は、「セロハン・ガウン」と題して、セロハンで作った煌びやかなドレスを着た女性の写真を掲載した。レイの写真と細部は異なるものの、この写真でもセロハンを通して女性モデルの身体を透視することができる。シースルーの素材を使った衣服はさほど珍しいものではないが、文化的アイコンであったセロハンを用いていることを鑑みると、いずれの写真においても、セロハン・ドレスは、身体を保護し隠すという一般的な衣服の役割からの逸脱を象徴的に表すと同時に、透明性がいかに私たちのモノの見方に影響を与えるかを考えさせるものでもある。

セロハン・ドレスは、それだけでは単なる透明な(ドレスの形をした)フィルムだが、セロハンが身体を包むことで、そのセロハン越しに乳首や足が透けて見えるようになる。つまりセロハン・ドレスは、この透けて見える身体が模様のようになることで、一つの作品として完成するのだ。身体がドレスの一部となるわけである。同時に、その身体は、セロハンを纏うことで、裸体としてではなく、何らかの「衣服」を身につけたものとなる。換言すれば、単に透明のセロハンを通して身体が見えているのではなく、セロハンが身体の見せ方を変えると同時に、身体がセロハン・ドレスを成立させてもいるのである。セロハン(包装材)と身体(包まれるもの)とは、ダイアレクティカルな関係にあるともいえるだろう。今回は、主にセロハンに焦点を当てながら、透明性なるものがいかに私たちの視覚性やモノとの関係性に影響を与えてきたのかを考えてみたい。

デュポン社は、セロハンの販売拡大のために「透明性」を強調した

セロハンの歴史は、1908年にスイスの化学者ジャック・ブランデンベルガーが、木材パルプを原料とする透明なセルロースシートを発明したことに始まる。ちなみに「セロハン(cellophane)」とは、その材料である「セルロース(cellulose)」とフランス語で透明を意味する「diaphane」を掛け合わせた造語である。その後、ブランデンベルガーの特許をフランスのラ・セロハン社が取得し、商業的な製造販売を開始した。また米国では、1923年に化学メーカーのデュポン社が同国での独占製造販売権を取得し、セロハンの技術開発を担うようになった。パッケージ用フィルムとしての利用が期待されたセロハンであったが、当時は、その用途は限られており、チョコレートや香水、タバコなどの外箱を包むフィルムとして主に用いられていた。これは、当時のセロハンには、防水性はあったものの、防湿効果はなく、食品など水分のあるものを直に包装することなどが難しかったためである。ちなみに日本でも1920年代半ば(大正末から昭和初期)にはすでにセロハンの輸入が始まり、デパートで売られていた高級菓子の外箱を包むフィルムや、海産物や歯ブラシの袋などとして用いられていた。そして、1926年には国内製造も始まった。

デュポン社は、防湿性を高めるための研究開発を進め、1927年に同社の科学者ウィリアム・ヘール・チャーチが、防湿セロハンの開発に成功した。これによりセロハンは、キャンディーや焼き菓子、ベーコン、ハム、ソーセージなど様々な食品の包装材としても用いられるようになった。ただ、それまで一般的な包装材として用いられていたグラシンや羊皮紙は、セロハンよりも安価だったため、新しい包装材としてはなかなか普及しなかった。そこでデュポン社が、セロハンの販売拡大のために強調したのが、その透明性である。紙など包装材の多くは不透明で中身が見えなかったため、セロハンで商品を包むことで、消費者は店舗で中身を確認でき、それが購買意欲の高揚につながると、食品メーカーらに宣伝したのである。

セルフサービス店の誕生が「見せる」ことを重視させた

この透明性が商品販売に重要であるという認識が生まれた背景の一つとして、当時米国で全国的に広がり始めた食料品店のセルフサービス化がある。それまでは、客が店に来ると、店員が一人ひとり対応し、注文に応じて店の奥から商品を持ってくる販売形態が主だった。だが、1910年代、現在私たちが普段買い物をするような、店に入ると客が自分で商品を買い物カゴに取り、レジで会計を済ませるという「セルフサービス」の店舗が誕生したのである。その最初が、1917年にテネシー州メンフィスで、クラレンス・サンダースが開いた「ピグリー・ウィグリー(Piggly Wiggly)写真1写真2」だといわれている。

セルフサービスの場合、買い物客が自ら商品を見て選ぶことが必要となるため、商品の見え方・見せ方が重要となる。多くの食品会社や小売店は、セルフサービスの店舗で商品を販売するためには、視認性が最も重要な要素であると考えていた。また、その製造者であるデュポン社にとっては、セロハンの透明性こそがセルフサービスに必要だと強調することで、その売り上げを伸ばす目論みであった。同社は、1937年にセロハン営業担当者に配布した社内報の中で、その真偽は定かではないものの「購買の87%は『目』を通して行われる」という市場調査に言及し、商品を販売する上で「100%の視認性」が重要であることを営業先メーカーに伝えるよう、社員に通達していた。視覚に訴えることが小売業において最も重要な要素であると考えたデュポン社は、製菓、製パン、食肉加工など、様々な食品メーカーに透明包装フィルムを売り込むため、積極的なキャンペーンを展開したのである。

消費者が自ら、商品の品質を詳しく調べられるように

さらに一般消費者向けの宣伝広告でも、デュポン社は買い物においてパッケージの透明性がいかに重要かを強調した。1931年の『サタデー・イブニング・ポスト』紙に掲載された広告では、「セロハンはどんな風味も密封すると同時に、自分が買うもの[中身]を見ることができる」と書かれており、セロハンに包まれた焼き菓子や麺、ドライフルーツのカラフルな写真が掲載されている。また、食品だけではなく、ハンカチなどの日用品に対しても、購入前に中身を確認できるというフレーズが強調された。ここでいう透明性とは、単に消費者が、何が中に入っているのかや、モノのデザインなどを確認するためだけでなく、中身の品質を消費者自らが詳しく調べられること(デュポン社は、「検査」を意味する「inspect」という言葉を度々用いている)、つまり視覚を通して品質確認ができることを意味していた。また、上記の広告からもわかるように、セロハンの視認性を保持しながらも、埃や汚れ、細菌等から内容物を守ることで中身を清潔に保つことが売り文句として多用された。

(写真:Nekrasov Eugene / shutterstock

いつでも「ヴァージン」を手に入れたいというジレンマ

このセロハンの透明性と保護性は、時に風刺やユーモアの対象ともなった。その一つが、1932年にベット・フーパーという著者が書いた『Virgins in Cellophane: From Maker to Consumer Untouched』である。これは、主人公である女性タイピストが、仕事や生活の悩み、日頃の出来事について書き綴った手紙を集めた書簡集のような体裁をとっているのだが、これらの手紙の内容が、著者フーパーの実際の体験に基づくものかどうかは不明である。本書で特に興味深いのは、タイトルと挿絵である。タイトルを直訳すると「セロハンを着たヴァージン」となる(ただしこれは、本の内容とはほぼ無関係で、タイトル以外にはセロハンに関する言及はほとんどない)。そして表紙には、セロハンに包まれた三体の裸の女性を男性がポケットに差し込んだ絵が描かれている(上記リンク内の写真参照)。さらに本の冒頭に挿入されたイラストには、人形か人間か定かでないものの裸の女性がセロハンのフィルムに包まれ、どこかの玄関先に配達された様子が描かれている。受け取り手は、挿絵の右端に見えている手から判断するに男性である。この「ヴァージン」には、「F.O.B. VIRGIN ISLANDS」と書かれた荷札が付けられており、ヴァージン諸島(カリブ海にある諸島)からの配達物だという洒落をきかせている。ちなみに「FOB」とはFree on Boardの略で、日本語では「船上渡し」ともいわれ、荷物を船舶に積み込んだ時点で費用負担やその他輸送に関する責任・義務が輸入者側に移る取引のことである。この挿絵のキャプションには、「全ての男性は、手に入れた大切な賞品をセロハンで包まれたヴァージンだと思いたいものだ——それは作り手から消費者に届くまで、誰の手にも触れられていない」と書かれている。

『Virgins in Cellophane』のこれらの描写は、セロハンが象徴する清潔さや保護性、透明性、特に人の手が中身に触れることを拒む特性を、ファロセントリックな社会の風刺として描いているようにもみえる。ヴァージンという言葉が象徴的に示すように、セロハンは単に中身を綺麗に保つだけでなく、その清潔さは、純潔さと読み替えることができるだろう。また、その中身がモノであれ女性であれ、人の手(=汚れ)が触れるのを防ぎ、自分だけのものにしたいという独占欲もこれらの挿絵やキャプションから見てとることができる。セロハンが透明であるが故にその中身のありのままの姿を眺めることができると同時に、他人が直接触れることは決してない。だが、セロハンに包んでいる限り、自分でも直接触ることはできない。そして、セロハンから出した瞬間に中身は「ヴァージン」ではなくなってしまう。それ故に、次なる「ヴァージン」を手に入れようとする欲望が掻き立てられもするのだ。「ヴァージン」を実際に手に入れること・手で触れることは不可能なのだが、それでも手に入れたい、触れたいという欲望が常に存在するのである。『Virgins in Cellophane』の例においては、いわゆる「男のまなざし」によって支配される女性・女性性、そしてそれによる欲望が、セロハンを通して描かれているともいえるが、そこには、より広い意味で、消費主義者社会における「商品」に対するジレンマや矛盾、繰り返される欲望が透けて見えるようでもある。

触覚や嗅覚を遮断。視覚ばかりに訴え、徹底的に客の感覚刺激を管理したセロハン

ただ、セロハンが持つ透明性は、必ずしもその中身の「ありのまま」の姿を見せるものではなかった。セロハンをパッケージフィルムとして利用することで、中に入った商品の外観を人工的に操作することも可能となったのである。例えば、食品パッケージの場合、中の酸素や窒素濃度などを調整することで食品の変色を遅らせることが可能となり、包装せずそのまま陳列した時よりも長期間、新鮮に見せることができる。つまり、セロハンの透明性、ひいてはスーパーマーケットが作り出す可視性は、商品のありのままを見せるというよりも、ありのままに見える・・・ように生産者と小売業者らが入念に管理し作り上げた視覚性だったのだ。セロハンがフィルムを通して見せるのは、モノのありのままの姿であり、同時にありのままではないのだ。

さらにセロハンは、パッケージの中身を見せる一方で、触覚や嗅覚など他の感覚を通した商品への接近を遮断した。多くの店では、切り身となった肉や魚、パン、さらに一部の生鮮食品が、透明のフィルムに包まれた状態で陳列されるようになった。買い物客は、それら商品の匂いを直に嗅いだり、触ったりすることができなくなったのである。実際、多くの食料品店は、魚や肉の生臭いにおいなど、嫌悪されるべき感覚刺激を排除するよう、店舗およびパッケージのデザインに苦心していた。デュポン社のある広告では、セロハンは「魚の臭いを周りの他の商品に移るのを防ぐことができる」として、セロハンを使えば徹底的に客の感覚刺激を管理できることを強調したりもした。このように、この透明な薄いフィルムは、単にセルフサービスという新たな購入方法の拡大を促進したのみならず、人々がいかにモノと接するか、さらにそれをいかに理解するか、つまりモノの見方や接近の仕方を大きく変化させたのである。

セロハンや透明性の社会的な意味を様々な緊張関係の中に置くことで、ある特定の歴史的コンテクストにおいて、近代技術の象徴として認識され、それが経済・社会・文化、そして人の感性にまで影を落とすものであったこと、さらには、透明性なるものが、技術的進歩だけでなく、当時の社会に広がっていた欲望(例えば、清潔さ、近代性、純粋さなど)とも結びついたものであったことがわかるだろう。こうした歴史へのまなざし、そしてそのまなざしを常に揺さぶり続けることで、現代社会において技術が透明なものになってしまうことを少しでも阻止できるのではないだろうか。

参考文献
視覚化する味覚――食を彩る資本主義』久野愛(岩波新書 2021年)
Brown, Judith. Glamour in Six Dimensions: Modernism and the Radiance of Form (Cornell University Press, 2009.
Trainor, Sam. “Retracing Transparency: Calques and Creativity in Modernist Translation.” Traductologie, traduction: Travail et creation. CECILLE EA 4074. Ronald Jenn, Fabrice Antoine, February 2014.