作者の背景を読み取ることは、是か否か
私は評伝を読むのが好きである。というよりも、特に思想や哲学、更には芸術等において、ある程度評伝的な背景が分かっていないと居心地が悪いという傾向もある。こうした姿勢は、必ずしも人文系に共通する態度とはいえない。偉大なる過去のテキストはそれ(のみ)をねっちりと読む事が正しいアプローチであり、評伝的な事実でそうした読解を方向づけるのはよろしくないという議論もあるからである。
いうまでもなく、作品としてのテキストとその作者の関係について、それを厳密に切断することで科学的な読解を試みるという姿勢の一つの源は、ロシア革命期の文芸理論、ロシア・フォルマリ ズムである。後の記号論のルーツの一つであるこの運動は、特定のテキストの解読に関して、それを作者の意図や性格、社会環境等の情報によるのではなく、独立した対象としてのテキストそのものの「科学」をする事によって行う、という勇ましい方針を打ち出したのである。
その主張を正面から否定するつもりはないが、作者が置かれた社会的文脈への理解にもそれなりの利点があり、社会科学系としてはそちらの方が納得しやすい場合もある。例えば先日ドイツの哲学者ショーペンハウワー(A.Schopenhauer)についての評伝を読んでいて気がついたのは、多くの人がニーチェ(F.Nietzsche)の発想と考える一連の概念のかなりの部分が、実はショーペンハウワー由来であり、ニーチェがそれらを換骨奪胎したものだという発見である。例えばニーチェの「権力への意志」という話は、本来なら単に「生」(das Leben)とまとめておかしくないのだが、当時そう呼んでしまうと、あまりにショーペンハウワー色が強いので、別の表現に変える必要があった、等々。
さらに、特定の表現にはそれを支える文脈上の背景があり、そこから大きくはずれると意味不明になったり、全く違う意味にとられかねないというのも、テキストの興味深い性質である。その点で良き評伝というのは、個人から文化、社会にいたる多様な文脈について、立体的な見取り図を提供してくれる。こうした評伝の対象は、たいてい特定の分野で名を馳せた人々だが、名声の裏には、それを可能にした制度的拡声装置がある場合も多く、そうした社会装置の特殊構造も関心の一つである。
ドラマチックなフランスの哲学者の評伝
この点で面白いのは、同じ欧米の哲学者といっても、純粋に評伝的な観点からいえば、大陸系、特にフランスのそれが圧倒的に面白いという点である。こうした印象が私個人に限らないのは、ある多少変わった評伝集の編者も同じような感想を漏らしているからである。これは、古今東西、古代ギリシャから現在に至る多様な哲学者の「死に方」について短く紹介した本で、東洋系も多少含まれている。現代哲学の章では、大陸系と英米系(編者自身は後者に属する)のそれぞれが紹介されているが、彼自身、まさに上のような感想を述べているのである。
英米哲学の主流は、分析哲学という、哲学的命題の解析を主体とする高度にテクニカルなものだが、そこでの代表的な人々の評伝が、フランスの同業者達のようなドラマチックな展開を示すことはまずない。分析哲学者の大半は、他の大学の職業的研究者と同様に、そのキャリアはアカデミアの中で完結し、他領域の学者人生とあまり変わらない。影響が狭い専門業界の外に波及しないのである。例外の一人が、疾風怒濤の人生を送ったヴィトゲンシュ タイン(L.Witgenstein)だが、英米哲学に対する彼の影響は間違いないとしても、彼自身はむしろ大陸型で、後の分析哲学の枠に納まらない、実存的な問いを終始抱えていたともいえる。
他方、大陸、特にフランスのそれは滅法面白いが、その背後には、登場人物の多くの殆ど演劇的といってもいい人生航路と同時に、フランス社会独特の制度的な仕組みがあるといっていい。実際、私自身が多少その内実を知っている英国の大学制度に比べても、フランスのそれはかなり独自である。普通の大学とグランゼコルといわれるエリート校の間の格差は、外からはなかなか分かりにくい。更に国際的に有名なフランス知識人が所属していることが多い、コレージュドフランスといった制度は、他にあまり類をみない。
人文系のフランス知識人の多くが高等師範学校という人文系エリート校の出身で、彼らはその名からノルマリアンといわれる。その意味で彼らは同じ釜の飯を食った一握りのエリートでもある。構造主義的マルクス主義者として有名なアルチュセール(L.Althusser)が、そこで試験対策を学生に教えるカイマンという地位にいて、彼の当時の影響力がこの地位そのものによる面もある、といった話は、こうした特殊な制度上の内情を知らないと分かりにくい。前にフランスSTSの大御所と雑談の際、私がこのカイマンという言葉を知っていることに驚いていたが、それはこうした評伝的知識による。
文化エリートは、その狭い集団で共有される語法でしゃべる
しかし制度的な状況は歴史的に変化する。80年代に世界中で猛威を振るったフランス哲学ブームを担った世代は、当然それより遥か前にここで教育を受けた訳だが、諸行無常の理よろしく、近年の状況はだいぶ変わったようだ。先日会ったフランスの映像研究者は、もともと高等師範学校出身で、現在、高等美術学校の教授をしている。彼女曰く、卒業した哲学科には往年の迫力はなく、当時の教授は哲学の将来を悲観して、学生に副専攻を持つ事を強く推奨したという。彼女が哲学ではなく、映画研究の分野で優れた業績を残した背景には、こうした苦い経験もあったようだ。
このような制度的特性は、彼らが書くテキストの分かりにくさにも影響があるという話もある。フランス思想好きのある米国STS研究者は、彼らのテキストを愛読してきたものの、何故あれほど分かりにくいか、長いこといぶかしく思っていたともいう。最近分かってきたのは、曰く、この哲学者たちが、内輪でのみ分かるような、隠語風の書き方をしているという点である。専門職(プロフェッション)の社会学に よるまでもなく、特定集団への帰属の一つの証明は、そこでの特殊用語(ジャーゴン)をしゃべる事にある。つまり文化エリートであるという事は、その狭い集団で共有される(暗黙の)語法でしゃべる事と近い。出典を明らかにせずに、文中で誰か(例えばハイデガー)を引用し、しかもその一部を敢えて改変してみたりする。学識ある友人達は、ほう、これはハイデガーの文で、しかも微妙に変えておる、と分かる人は分かる。分からないのは田舎者なのである。
知識人の生産体制を支える「チーム」の経営
また、その著作が国際的に流通する知識人は、その研究・出版体制についても独自のあり方があるという点も評伝が教えてくれる。デリダ(J.Derrida)は一時期脱構築批評で人文系に大きな影響を与えた哲学者で、更に本人は明らかに科学に関して全くの門外漢であったにも係わらず、STSの理論的な研究でもその議論が取り上げられることもある。もともと大学に職を得ず、また後年英国の大学が名誉博士号を授与するという計画が明らかになった際には、英国の分析哲学系の多くから猛反対をくらったこともある。
彼はある時期から、自分の出版社を経営しはじめ、書いたものは皆そこから出版するようになった。と同時に、そのスタッフの中には、デリダが書き散らした原稿のチェック係がおり、ギリシャやドイツ哲学関係の出典についての確認といった校正作業をやってくれるというので驚きである。私自身、先日脱稿した原稿の中で、引用した い内容の出典を同定できなかったことがあり、泣く泣くその引用を見送ったという苦い経験がある。それをやってくれるスタッフがいたのである。評伝によると、晩年には世界地図を眺めながら「この地域は制覇した、ここはまだだ」と悦にいっていたというが、そうした世界制覇の野望の背後には、チーム・デリダとでも言うべき経営体制があり、それが知的生産体制を蔭ながら支えていたのである。
多少似ているのはラトゥール(B.Latour)のケースである。同業者の集まりである小さなイノベーション社会学センター(CSI)から、パリ政治学院(Sciences Po) に移籍したラトゥールは、こうした制度間での異動自体がフランス教育行政上前例がなく、だいぶ苦労したとぼやいていた。しかし学生のみならずスタッフも多い新境地で、自分がやりたい事を組織化し、ウェブ研究を中心としたMediaLab、政治とアートの間をつなぐ教育プログラム(SPEAP)、そしてポスト・アクターネットワーク理論用の研究者集団(AIME)といったグループを矢継ぎ早に立ち上げた。STS業界内外で彼の名前が突出して言及される事が多い背景には、こうした組織経営上の努力や、彼の軍団による積極的なメディア戦略があることも間違いがない。
評伝によって、孤高の天才哲学者が一人で真理を刻んでいるという思い込みから離れる
だが、ある意味こうした組織経営は、何もフランス哲学系に限定される訳ではない。例えば世界的に有名な理論物理学者ホーキング(S.Hawking)について民族誌的調査を行った研究者は、殆ど体が動かないホーキングを様々な側面から支えるスタッフの日々の活動を詳細に観察した。そうした組織的活動の成果として、車椅子の天才物理学者ホーキングというイメージ・活動が生み出される様子を「ホーキングInc」と呼んだのである。またカントロビッチ(E.Kantorowicz)の有名な『王の二つの身体』説への言及もある。王の生物学的身体は死んでも、政体としての王の身体は死なないという、例の説である。ホーキングIncは彼の拡張身体でもあるという事だ。
孤高の天才哲学者が一人テキストに真理を刻み込む、という分かりやすいイメージは、多分に現実から遠い面がある。優れた評伝とは、そうした著者の単子論的なイメージをずらし、テキスト生産という場面の、いわば工房的、経営的な事実を垣間見させてくれるという点で、多くの発見をもたらすものなのである。
参考文献
『亡霊たちの実験室』福島真人(MAM Project 025 アピチャッポン・ウィーラセタクン+久門剛史)森美術館(2020)
「ラトゥールとは誰か-総説」『現代思想』51(3):22-38. 福島真人(2023)
『アルチュセール伝-思想の形成(1918-1956)』ヤン・ムーリエ・ブータン 今村仁司訳(筑摩書房 1998年)
『哲学者190人の死にかた』サイモン・クリッチリー 杉本隆久、國領佳樹訳(河出書房新社 2018年)
『ホーキングInc. 』エレーヌ・ミアレ 河野純治訳(柏書房 2014年)
『ウィトゲンシュタイン-天才の責務』レイ・モンク 岡田雅勝訳(みすず書房 1994年)
『デリダ伝』ブノワ・ペータース 原宏之、大森晋輔訳(白水社 2014年)
『ショーペンハウアー-哲学の荒れ狂った時代の一つの伝記』リュディガー・ザフランスキー 山本尤訳(法政大学出版局 1990年)