同じ「コミュニティ」においても用語の意味や関心領域にはズレがある
かつてSTSの国際会議で、がんの研究体制が近年組織化される過程を分析した発表を聞いたことがある。発表者は社会学者だが、医学者自身の分析の様子について「こんな分析をされると我々の出番がなくなる」と冗談だか本音だか分からない感想を述べていた。科学的実践の社会・文化的意味合いを分析するのがSTSの本領だが、現場の研究者の自己省察になるほど、と頷く場面も少なくない。
地球科学系の会合の冒頭、ある研究者が、環境問題のような学際的な領域では、異なる分野の人々が使う用語-例えば「モデル」-が領域ごとに微妙に意味が違うので、細心の注意が必要だ、と指摘していた。これをネタにSTS論文が一つ書けそうな内容である。実際、こうした意味合いの微妙さは、科学政策の場面でも遭遇した。「研究拠点」づくりというテーマに関する会合だったが、各領域の大御所の理解が微妙にずれていた。特に物理系の先生は、それを大型の実験装置と理解し、その前提で議論していた。あとで本人が事務局に近づいてきて「どうも意味を取り違えていたようだ」と呟いていたのが印象に残っている。
研究者自身の省察には多くの社会学的ヒントがある。それを痛感したのは、宇宙科学系会議での「コミュニティ」に関する反省的議論である。宇宙科学、特にロケット打ち上げが必要なスペース系のそれにおいて、近年、観測装置やそれを打ち上げるロケット等が大型化し、関連するプロジェクトも規模が拡大、長期化する傾向がある。天文台を中心とした地上系にもそうした傾向はあるが、小型の観測装置を地上に設置するという選択枝もある。他方、スペース系はロケット打ち上げがメインだが、回数をむやみに増やす訳にもいかず、数あるプロジェクト提案に関し、選択と集中は必須となる。
どの分野においても、研究者はそれぞれ個別の関心があり、科学における研究対象の細分化という特性とも相まって、異なる関心をベースに多くの個人、小集団が無数に存在している。彼らは特定のプロジェクトに関係して集まってくるが、関心の多様性とプロジェクト数は釣り合わない。さらに予算の制約やプロジェクトの大型化による数の減少、準備の長期化によってその採択数も減ってくる。特定の科学領域の周辺には他のライバル 領域が存在するから、予算獲得競争に勝つ必要もある。
「コミュニティ」は常に支持するべきか?
プロジェクトを選別する過程で、当然勝者と敗者が生じる。問題は、自分の提案が採用されなかった人々は、選ばれたプロジェクトを支持すべきかという点である。ここで出てくるのが、研究者「コミュニティ」という問題である。英語のcommunityという言葉は、学術用語として共同体と訳される場合も多く、例えばcommunities of practiceという学習理論の用語は「実践共同体」と訳される。他方科学の現場等では、コミュニティとカタカナで示す場合が多いが、学界といった単語とは微妙に異なるニュアンスがある。あまり制度的なヒエラルキーを感じさせない、フラットな集まりという感じだろうか。
ある会合で、司会者がそもそも宇宙科学コミュニティといったものは存在するのか、という議論を始めたので、聞いていて驚いた。論点は、まさに外と内でのイメージのギャップである。政策担当者から見れば、特定のプロジェクトに予算を使う要因の一つは、その背後にそれを「一致団結・箱弁当」的に支える科学者「コミュニティ」がある、というのが前提である。「この案は、コミュニティのサポートを得ていますか」というのが担当官の問いだという。研究者が一致して推挙するプロジェクトなら予算をつけるのにやぶさかではない、という訳だ。しかし、もし提案されたプロジェクトについて、実は狭い関係者だけが熱心でその周辺はそれほどでもない、とすれば、その計画の正当性に疑問が生じる可能性がある。
他方、これはどの分野でも起こる話だが、研究者というのは、常に他者との差異化によって自分なりの新しいデータや発見を求める職業である。そうした差異化の実利が回ってこない別のプロジェクトを支持するというのは、信条的には難しい。実際、30年近く計画され、最近実施が見送られたある野心的な宇宙科学プロジェクトの来歴がその良い例である。ロケットに載せる最新型の宇宙望遠鏡が重量、予算オーバーのため、工学的観点からそのサイズが縮小されたところ、それでは斬新な研究が出来ないと理学系の支持者が減ってしまい、一部でプロジェクト推進の熱意が薄れたという。特定プロジェクトを支持するのは、それにより自分の興味関心が満たされるからで、そうした利点がないのなら撤退するというのは正直な反応である。しかし政策担当者側から見れば、提案されるプロジェクトが、関係するコミュニティ全体から一致して支持されていなければ困るのである。
フラットな意思決定を重んじるはずだが、巨大化したプロジェクトでは、それが難しいことも
同じような矛盾を全く別の分野、アート・マネージメント領域の学界でも聞いた。発表の内容は、市民参加型の講座の活動報告である。参加者それぞれにアート系プロジェクトを提案させ、一つ選んでそれをみんなで実行するという内容である。面白いのは、講座の責任者である発表者が特に留意したのは、自らの提案が選ばれなかった人達(つまりほぼ大半の参加者)のモチベーションをいかに維持し、自分のものではないプロジェクトに向けさせていくか、という点であった。そのための努力についても説明があった。
これが企業であれば、不満があってもそれは我が社の方針、ということで押し通せるかもしれない。しかし科学者「コミュニティ」は理想としてはよりフラットな意思決定を重んじるはずの集合体である。コミュニティという用語にはそうしたニュアンスがある。その意味ではよくも悪くも民主的な性格が期待されている。学界を睥睨する大ボスが号令一つで集団を動かすというのではなく、自由な討議と、明確なエビデンスによって決定されるのが望ましい。
こうした状況は全体としては悪くはないが、ある大きなテーマの研究をするには、集団的に特定プロジェクト案を推し、それを具現化する工程表に乗っけなければならない。外からは大きなコミュニティに見える研究者集団も、中からみるとその単位はどんどん小さくなり、 しまいには個人レベルにまで還元しうる。他方、分野によってはプロジェクトは巨大化し、集団的結束がないとその実行は難しい。この矛盾への反応が先程のコミュニティへの自問である。
民主主義の矛盾と同じことが科学者集団にも起きている
この話を聞いて、何故か私はドイツの政治理論家シュミット(K.Schmidt)の議論を思い出した。政治の本質は「敵と味方」の峻別、といった特異な思想で有名な政治哲学者である。彼は、民主主義には根本的な矛盾があると主張する。曰く民主主義は一方では個人の意見の自由を尊重するが、他方それは多数による支配を容認するシステムでもある。この二つのベクトルは基本的に矛盾する、と彼は主張する。それがうまく機能するのは、組織の規模が小さい、地域共同体のような場合である。他方、より大きな社会になると、この矛盾は深刻な問題をもたらしかねない。
この議論はもともと独裁政治の誕生を説明する議論として持ち出されたものだが、なかなかに深い洞察である。かつての民主党政権の政治スタイルの批判として、党内で議論が公的に決着しても相変わらず議論を止めず、まとまりを欠いたという指摘がある。まさに個人の意見の自由と、集団としての団結という矛盾をうまく乗り越えられなかったという話だろう。近年でも派閥はけしからんという議論が少なくないが、個人の意見の自由だけでは政策は実現できず、「一致結束・箱弁当」という集合性も必要とされる。そしてそこに は矛盾があるというのがシュミットの指摘である。
政治における派閥が、常に自らの利益のために政争を繰り返し、そのために裏金をも作る違法な集団、といった意味で理解されれば、それはけしからん、解散せよという短絡的な議論になる。しかし特定の政策目標を実現するための、志を同じくする集団と考えれば、前述した科学者コミュニティとそれほど異ならない。放っておけば無限に細分化する科学者の集合も、特定研究プロジェクトを遂行するための集団化は必須である。
科学者集団は基本的に民主主義的な運営を理想とするが、そこには政治における民主主義がもつ本質的な矛盾と似たような問題が内在する。コミュニティはあるのか、という問いかけが思いの外深い意味を持つのはこの点である。シュミットはこの矛盾は大規模な社会では顕在化し、独裁政治への温床になると指摘する。大規模化する科学が同じような矛盾を抱えつつ、どういう方向へとその矛盾を解決しようとするのか、興味深い組織実験が続いているのである。
参考文献
『状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加』J.レィヴ、E.ウェンガー 佐伯胖訳(産業図書 1993年)
『独裁-近代主権論の起源からプロレタリア階級闘争まで』カール・シュミット 田中浩、原田武雄訳(未來社 1991年)
Robert K. Merton(1973) The sociology of science : theoretical and empirical investigations, University of Chicago Press