小松原織香

小松原織香

パキスタン・北部のペシャワールの街。アフガニスタンとの国境に近い。ソ連によるアフガン侵攻まで、街の人々は国境を気ままに行き来していた。

パキスタン・北部のペシャワールの街。アフガニスタンとの国境に近い。ソ連によるアフガン侵攻まで、街の人々は国境を気ままに行き来していた。

人を傷つける行為は、
語れないときに加速する

インターネットの普及は人と人との関係を確実に変えてきた。今や、ネットがなかった時代に比べ、赤の他人を傷つけ、また傷つけられる機会は格段に増えている。ではそれによって心に傷を負ってしまったとき、あるいは負わせてしまったときの対処方法は充分に示されているだろうか。もしかしたら「修復的正義」がそのようなときに適した処方箋になりうるかもしれない。「修復的正義」の研究者である小松原織香氏が紹介する。

Updated by Orika Komatsubara on January, 24, 2022, 0:00 pm JST

人を傷つけるという行為は、語るのをやめたときに加速する

私は研究のなかで、苛烈な暴力や犯罪のあとを生き延びている人たちと出会ってきた。被害者の言葉はいつも重く、かれらの語りは唯一無二の生と絡み合っている。被害者が語っていて、突然話せなくなってしまい、沈黙が続いたり嗚咽が止まらなくなったりすることがある。言葉にならない声であっても、「この人の身になにが起きたのか」ということが、そばにいる者にダイレクトに伝わる。被害者の声に耳を傾けていると、その人の生きてきた豊かな世界が立ち上がってくる。だが加害者の語りは難しい。加害者が懸命に話そうとしても、どこかで聞いたことのある話の繰り返しに思えたり、誰かに言わされるように感じたり、加害者が自分の世界にこもって被害者と向き合っていないように見えたりする。

教会を見つめる人
アメリカ・ニューメキシコ州、タオス・プエブロの土でできた教会。近隣にはネイティブ・インディアンの集落がある。

「なぜ、あなたは、こんなことをしたのか?」
もし加害者にその問いに答えるだけの、言葉の豊かさがあれば、差別や暴力には至らなかったのかもしれない。いや、人は差別や暴力にのめり込むとき、言葉を失うのかもしれないとも思う。興奮や熱狂のなか、「これが正しいのだ」という信念に突き動かされて、人はただ行動に徹する。人が人を傷つけるという行為は、語れないとき、語るのをやめたときに一気に加速するのではないか。だからこそ、加害者は声を取り戻さなければならない。もちろん雄弁に言葉で語る必要はない。あるときには絵や音楽などがかれらの声を伝える方法になることもあるだろう。誰にもその声は晒さず、内省や祈りを通じて、自分のなかで昇華することもあるだろう。いずれにせよ、加害者が過去の行いに対して「こうするしかなかったのだ」という想いから解放され、そのままの自己を見つめて、それを受け止めて表現すること。それが加害者にとって、自己の回復になるのではないか。自己を回復しなければ、被害者への謝罪もそらぞらしいものになるだろう。ひとりの人間として、被害者に向き合うためには、まず、自分自身を見つめ、受け入れなくてはならない。それが、加害者が自分の声を取り戻すことでもある。

この作品の翻訳版下巻の帯には、「なぜ、人を殺すより 謝罪するほうが 難しいのだろう」と書かれている。「加害者の声を聴く」ことは、加害者を甘やかすことになるだろうか。また、こうした行為を促す、修復的正義の哲学は、処罰を求めるよりも寛容だと言えるだろうか。修復的正義の哲学は、加害者に行為の修正だけではなく心の変化を求めるため、より矯正的で負担が大きいと考える論者もいる。法律の世界では、個人の心の中や欲望は裁かない。だが修復的正義の哲学は人の内面に踏み込んでいく。 修復的正義の哲学は、加害者に対してソフトでも優しくもない。むしろ、個人の内面に対して侵害していくため、危険でもある。それでは、実際に修復的正義の実践では、どのようなことが行われているのだろうか。次回は、具体的な修復的正義のプログラムの例を紹介したい。

本文中で紹介した書籍
祖国』著 フェルナンド・アラムブル 訳 木村裕美(河出書房新社 2021年)