村山司

村山司

1980年ごろに撮影。モルディブに浮かぶ漁船。主にカツオを獲っている。カツオは焼いて細かくほぐし、唐辛子をあえて米にかけて食べると美味しい。

偉大な発見には、多くの知性の協力が不可欠である

AIの開発が進むにつれて「知性とは何か」を議論される機会が増えた。このとき人は知性をヒトの専売特許として考えがちだが、当然知性を持つ生き物は他にいくらでもいる。古くから知的な動物だと考えられてきたのがイルカだ。海獣学者の村山司氏は、イルカとのコミュニケーションを試みることで、知性の正体に迫ろうとしている。DX化が進みあらゆるものとの関係が変化していく将来においては、ヒトとは異なる社会性をもっているイルカの知性は何か開発のヒントを与えてくれるかもしれない。
ここではまず、村山氏が過去に行った実験から知性とはどこにあるのか、イルカは物事をどのように認知しているのかを紹介したい。

Updated by Tsukasa Murayama on January, 24, 2022, 0:00 pm JST

イルカなりの知性

筆者はイルカに言葉を教える研究をしている。その研究の中でこんな実験をした。
ダイビングで身に着けるフィンとマスク、それから「⊥」と「R」という記号の描かれたターゲットを使い、イルカにフィンを見せたときは2つの記号のうちの「⊥」を、また、マスクを見せたら「R」を選ばせた。正しく選んだらエサをあげる。するとイルカはまた同じことをしよう(同じものを選ぼう)とする。これを「強化」という。こうしたことをしばらく続けていると、やがてフィンを見せたら「⊥」を、マスクを見せたら「R」を確実に選べるようになった。そこで今度は逆をやってみた。つまり、「⊥」を見せてフィンとマスクからフィンを選べるかという実験である。結果は、全然できない。「⊥」を見せてフィンとマスクを目の前に並べると、左右をさんざん見交わして、結局、当たらない。フィンから「⊥」は選べるのに、逆の「⊥」からフィンは選べないのである。マスクについても同じだ。「R」を見せてもフィンを選んだりマスクを選んだり……である。
すなわち、「A→B」はできるのに「B→A」ができない。こういう関係を対称性というが、それができないのである。

私たちはふだんの生活でこうした対称性の関係を無意識のうちに、自然に使っている。たとえば、私たちはリンゴが「apple」というスペルであることを覚えたら、逆に、果物屋さんで「apple」と書かれた札を見て、たくさん並んだ果物からリンゴを選ぶことができる。造作もないことである。また、ビジネスの現場では、初めて会った取引先の人とは名刺交換してその人の名前を覚えるが、展示会で今度は大勢の人がいる中で、名刺で覚えた名前がどの人かわからなければ商談が成立しなくなってしまう。
視覚だけではなく、視覚と聴覚の関係も同じだ。ピアノを弾きながら、「音符のドはこの音、音符のレはこの音…」というふうに音符が示す音階を覚えたら、今度はピアノから聞こえてくる音を聞いて音符を書くことができる(ただし、これはみんなができるわけではない)。「ド→実際の音」がわかれば「実際の音→ド」もわかるという具合である。

ほかにもこうした例は枚挙にいとまがないが、ヒトはこうした関係を理解できるから円滑で豊かな生活が送れている。それはコミュニケーションにおいても同様で、上述のビジネス現場の例からわかるように、私たちはもし対称性が理解できなければ円滑なコミュニケーションもできなくなってしまう。
しかし、イルカにはそれができない。こんな簡単なことなのにできない。なぜだろう。
実は、この対称性が理解できない動物は結構多い。優秀と言われるチンパンジーでもできない。こう考えると、本当はできないほうが当たり前なのかもしれない。

ソファに座る姉妹
1971年撮影。アメリカ南部の富裕層。当時は日本でようやく海外旅行が一般的になったころ。

ではなぜヒトはできるのだろうか。生まれたばかりのヒト(乳幼児)でも対称性は理解できるのか。もしかしたら、動物はみな生まれつき対称性が理解できず、ただ、ヒトの場合は人生における莫大な経験を経た結果、できるようになったのではないか……そんな推測も浮かんでくる。実際、対称性が理解できない動物でも訓練や経験を積むとやがてできるようになるし、イルカも経験を経た個体は対称性ができるようになった。
イルカだってふだんの生活の中で莫大な経験を積んでいるだろうから、対称性がはぐくまれているはずなのに、年長の個体でも対称性が成り立たないということは、イルカたちにはそういう経験がない、あるいは経験していることの中身がヒトとは違うことを意味する。少し乱暴な言い方をすれば、死ぬようなことでない限り何をしてもよく、どんな行動をしても誰からも咎められることがない野生動物たちと、生まれてから、「あれしちゃいけない、こうしたほうがいい」とさまざまなルールや制限を課せられ、倫理や正義といったことに演出された複雑な社会のなかで育ったヒトとでは、経験していることの量も質も全く違うのかもしれない。

ところが、イルカたちは対称性を理解できないのに、お互いに盛んにコミュニケーションしているように見える。狩りをめぐる戦略やほかの群れと連合を組んで別の群れを攻撃するとき、あるいは生態において行われていると思われる複雑なやりとりも、こうした「逆に考える」関係がわからずとも、ちゃんとできている。別に困っている様子もない。
こうしたことから考えると、イルカとヒトでは事象についての認識の結びつきが違うのではないかという想いが出てくる。ヒトとは大きく異なる生態で暮らしてきているのだから、ヒトと違った認識の違いや論理の展開をしていてもおかしくない。イルカにはイルカなりの知性があるのかもしれない。そう思うと、もしかしたらコミュニケーションのしかたもヒトとは違うのかもしれない。次回はそうしたコミュニケーションのしかたの違いから、イルカの知性を探っていく。

本文中に登場した書籍
行動生物学辞典」(東京化学同人 2013年)