佐藤秀明

佐藤秀明

ユーコン川にて。下流では川幅が広く、流れが枝分かれしているので地図でチェックする。ナビなど無い時代だった。

(写真:佐藤秀明

極地にはフル・ライフがある

カヌーを広め、日本のアウトドア文化を花開かせた一人である野田知佑氏が2022年3月27日に亡くなった。Modern Timesでたくさんの作品を発表している写真家・佐藤秀明氏は野田氏と半世紀以上にわたる交流があり、多くの旅に同行している。ここでは佐藤氏が数々の写真とともに、盟友との遊びと冒険に満ちた日々を振り返る。

Updated by Hideaki Sato on April, 28, 2022, 8:50 am JST

遊びの達人で誰とでも仲良くなれた

僕が野田さんと出会ったのは、日本人の海外渡航が自由化されてまもなくだった。好奇心を抑えられていた日本人は怒涛の勢いでパスポートを取得し、行き先を選びだした。
世界中の観光局が、そんな日本人の誘致を狙っていた。東京には観光局のオフィスがいくつもでき、魅力的な情報を発信した。日本初の海外旅行専門誌も発行され、その編集部で働いていたのが野田さんだった。
僕はカメラマンとして編集部から仕事をもらい、野田さんと一緒に世界をまわった。

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初代カヌー犬・ネコと亀山湖で。野田さんのことが大好きな犬だった。

最初の渡航先はオーストラリアだった。羽田空港で待ち合わせたのだが、野田さんはチェックイン時間をすぎてもなかなか姿を表さない。ようやく落ち合えたのはフライトの30分前だ。野田さんは巨大な荷物を抱えていた。
オーストラリアに着いてから、野田さんはその荷物の中身を見せてくれた。足ヒレだの魚とり網だのと遊び道具がぎっしり入っていた。

野田さんは本当に遊び上手で、遊ぶのが大好きな人だった。
政府観光局の仕事にはガイドがつき、その人が車に乗せてあちこちと観光地を回ってくれる。僕はそれを逐一写真に収めていかなくてはならなかった。しかし、ふと気がつくと野田さんがいない。野田さんは海や川を見ると、車を飛び出して水に入っていってしまうのだった。そこで魚なんかを獲ってしまうものだから、近所の人たちは驚いて集まってきた。野田さんは獲った魚を集まった人にあげて、みるみる仲良くなっていった。

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信濃川をイギリス人作家でアウトドアクッキングの創始者C・W・ニコルさんと下る。

彼は遊びながら取材をしていた。あるときは、いなくなったと思ったら人の家に上がりこんで話をしていたこともあった。英語が達者というだけでなく、話上手、聞き上手で普通の人ではなかなか聞き出せないことも引き出していた。

野田さんが考案したコピーで四万十川が一躍有名に

後にカヌーや川の領域で名を馳せる野田さんだが、最初の出会いはやはり雑誌の取材だった。日本交通公社が出版していた『』という雑誌の企画で、僕と2人、日本の12本の川を回ることになった。

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那珂川を小説家の立松和平さんと下る。

12本の川のうちの一つが四万十川だった。今は誰でも「しまんと」と読めるこの川だが、当時日本の多くの人はこの川を知らなかった。野田さんも僕も読み間違えた。それを僕たちがこの雑誌のなかで紹介した。「最後の清流」とは野田さんがつけたコピーだ。このあと四万十川は一気に有名になった。
当時の四万十川は本当に地元の人にしか知られておらず、今よりさらに豊かだった。カヌーを漕いだ後は、テントを張り、川の水で割ったウィスキーを飲んだ。ふとテントの外を照らすと、なにかがキラキラと輝いていた。大量に蠢く川エビだった。

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フランスのローヌ川。世界遺産のアヴィニョンの橋と野田さん。

野田さんの取材は相変わらず面白くて、たくさんの風変わりな話を聞くことができた。熊本を流れる菊池川を旅しているときに、西南戦争を知っているというおばあさんに出会った。菊池川付近は西南戦争の激戦地で、戦いを見物に行ったのだという。そでには両軍が戦いに疲れたころを見計らい、握り飯を売りにきた人を見たらしい。そんな人がいたということを僕は聞いたこともなかった。

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南仏ローヌ川から分岐した運河にかかる跳ね橋。ゴッホが描いたことで有名になった。一般的にはアルルのラングロワ橋と呼ばれる。

またあるときは、川下りのために橋の下で待ち合わせをしていたことがあった。僕がそこへ着くと、既に野田さんはそこで生活をしている人たちと酒盛りをしていた。季節労働者だった彼らは、寒い季節には南へ移動し、暖かくなると北へ向かう。渡り鳥のように移動して生活する彼らは、川の事情に詳しかった。野田さんは酒を飲みながら、情報収集をしていたのだ。

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信濃川の七巻部落と桑名川を結ぶ渡し。1980年代撮影。

桑名で出会った渡しの爺さんのことは面白おかしく書いていた。失われつつあった「渡し」という職業は当時よく注目されていて、爺さんはたくさんの取材を受けていた。だからなかなかに威張っていた。
一連の経験は『日本の川を旅する』という本にまとめられ、日本ノンフィクション賞・新人賞を受賞した。

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北海道・尻別川の河口近くで子供を乗せて遊ぶ。この年に出した『日本の川を旅する』でノンフィクション賞の新人賞に輝く。

以来、野田さんはすっかり川の魅力に惹かれ、千葉県の亀山湖に住居を構えた。夏には信州の農家を借りて過ごすこともあった。近くの温泉への行き帰りに網を持っていくから何をするのかと思えば、藪から飛び出してくるウサギを捕えて食べた。

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千葉の亀山湖。1970年代後半に撮影。カヌーに魅せられた野田さんはこの近くに住んでいた。

そんな生活をエッセイにして世に出していたら、面白い人たちが野田さんを訪ねてくるようになった。夢枕獏さんが遊びにきたこともあれば、椎名誠さんが「あやしい探検隊」を引き連れてやってきたこともある。「あやしい探検隊」は本当に怪しい人たちで、酒を飲んで火を吹く人までいた。

未来を育てた「川の学校」

野田さんは川の魅力を伝えることにも精力的だった。吉野川で「川の学校」というものを開催し、子どもたちに川での遊び方を教えた。当時すでに野田さんは有名になっていたので、野田さんのファンである親たちからの申込みが殺到した。20名の定員はすぐに埋まり、北は北海道から、南は九州まで全国から子どもが集まった。

野田さんは「親はついてきてはいけない」ときつくおふれを出した。それでも心配な親たちは、野田さんに見つからないように1キロ前まで子どもに付き添い、その後は双眼鏡を使って見守っていた。野田さんが親の帯同を禁じたのにはわけがある。親を気にすると子どもが思いっきり遊ぶことができなくなるからだ。橋の上から川に飛び込ませるなど、危なそうに思えることもやらせていた。

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釧路川で倉本聰氏と川下り。カヌー犬・ガクと一緒。

「川の学校」にはおやつの持ち込みは禁止だった。では、お腹が空いたときにどうするか。自分で魚を獲って食べるのだ。なかなかのサバイバル生活だったが、みんな心底楽しんでいて、卒業式では多くの子が泣いた。

ここから巣立っていった子のなかには、環境省の役人になったり、学校で自然教育の指導をするようになったりした人たちがいる。野田さんに影響されて、川を愛する仲間が増えたのだ。
川の学校は野田さんの家族に引き継がれ、今でも存続している。コロナ禍がおさまればきっと再開するはずだ。

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タヒチで子ども達と魚をとって遊ぶ。1970年撮影。写真家に「写真なんか撮らずに遊ぼう!」と誘いかけている。手にしているのは現地で買った魚とりの道具。野田さんはこのような遊び道具を見つけては購入していたので、帰りは大荷物になっていた。午前中はたっぷり身体を動かして遊びながら取材をし、午後は滞在先のコテージで本を読んでいた。その最中、足に釣り糸を結びつけて魚を釣っていた。

今では珍しいものではなくなったカヌーによる川旅だが、僕らが始めたころは、日本ではカヌーを知る人すら少なかった。
当時、河川の管理は建設省の管轄で、河口でカヌーを浮かべていたら海上保安庁に妨害をされたことがある。キャンプをしていても「誰に許可を得ているのか」とすぐに警察がきて文句を言っていた。
それでもカヌーを漕ぐことを諦めず、何年も続けていたら段々と文句を言われる機会が減り、やがては以前妨害してきた海上保安庁に「お気をつけて」とまで言われるようになった。
そして現状は皆さんがよく知る通り、アウトドアはすっかり市民権を得ている。

ユーコン川での出会い

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川幅が5kmほどもあるユーコン川の河口。1980年代に撮影。

そしてさらに、野田さんがカヌーを日本人に知らしめるきっかけになったのが、ユーコン川の旅である。
野田さんがはじめてユーコン川に挑戦したのは1980年代のことだった。ユーコンは2700kmもある川なので、1シーズンで下りきることは難しい。暖かい季節には水量が増えすぎるし、寒くなれば川が凍ってしまうからだ。だから最初の挑戦で、野田さんは2回にわけてユーコン川を下った。

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ユーコンの支流であるテスリン川にて。1990年頃撮影。身体障がいのあるチャレンジャーとともに川を下る。

僕は野田さんに頼まれて、最後の2週間の様子を撮影しにいった。川のほとりにあるエスキモーの村を待ち合わせ場所にしていたが、なにしろ川幅が2キロもある場所だ。本当に会えるのかとても不安だった。
僕は野田さんを待ちながら、村の人たちに「カヌーに犬を乗せた男を見なかったか」と聞いてまわった。その犬はご存知の方も多いだろう、カヌー犬・ガクである。

あるとき、僕を保安官が訪ねてきた。言付けがあるという。
「カヌーに犬を乗せた男が、あと2日で来るそうだ」
2日後、保安官の言うとおり野田さんは川を下ってきた。

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ユーコン川。河口に近くなると川幅が数キロにもなる。

待ち合わせてからは、僕も一緒に川を下った。大きな事故などはなかったものの、食料が尽きてきて少し困っていた。そんなとき、川に浮かぶ商船をみつけた。日本の商社の名前が入っている。ユーコン川沿いで作られる鮭缶を運んでいるようだった。
「あの船に行けば、日本食が食えるぞ」
船に近づくと、エスキモーの船員たちが出てきた。
「中に日本人はいるか」
「いっぱいいる!」
船にあげてもらい、船室を訪ねた。確かに日本人がいた。しかし、対応はつれない。
「何か用ですか?」
それまで、旅人と知れば気遣ってくれる人々にばかり会っていたので驚いてしまった。
「ユーコン川を下ってきました」と伝えても「そうですか」としか言わない。

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ユーコン川沿の先住民が鮭を解体しているところを見る。塩水につけてから干すことで保存食になる。

頭にきてしまったが、なんとか船長に会うことができ、社員食堂でごちそうにありついた。そのときのサンドイッチの美味しかったこと!僕たちががつがつと食事をつづけていると、エスキモーの船員たちが集まってきた。
「◯◯の村にある白い家をみたか?あれはうちなんだ」
「◯◯の方まで行ったのか、すごいな。自分も行ってみたい」
彼らはユーコン川のことをよく知っているので、下ってきたという僕らに対して敬意を払ってくれた。

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ユーコン川を行く。1980年頃撮影。

川岸でキャンプをしていると、すごいスピードでカヌーを漕いでくるカップルに出会ったこともあった。近くに上陸してきたのでコーヒーをご馳走すると、急いでいる理由について話してくれた。
「早く離婚をするために急いでいるんです」
聞けば、新婚旅行でユーコン川に来たらしい。しかし川下りをするうちに互いの本性が見え、一緒に暮らしていくことはできないと思ったのだそうだ。
川下りでは自然だけでなく、妙な事情を抱えた人に出会うこともある。

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ユーコン川、最初の挑戦時。川幅が5kmもあるところ。

「佐藤は立派に死にました」

野田さんは大真面目に冗談を言う人でもあった。
アラスカのコバック川を旅していたとき、僕が滝に落ちて死にそうになったことがある。コバック川は「原始の川」ともいわれる素晴らしい川だったが、氷河が解けた水が流れているため、水温は非常に低かった。
あるとき、滝に遭遇した。それ自体は全く珍しいことでなはい。荷物を起きカヌーを引き上げて歩いて迂回すればいいだけのことだ。

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ノアタック川で先住民の子どもと遊ぶ。1990年頃撮影。

しかしそのときは既に夕方で、僕たちは疲れ果てていた。もう正常な判断はできない状態だった僕は、滝の端を通っていくことにした。
漕ぎ出した僕は、滝に差し掛かった瞬間に飛んだ。5メートルは飛んだと思う。そのまま滝壺へ落ち込み、まったく上がることができなかった。もうだめだ、そう思ったときに地面に足がついた。そして上に突き上げる水流に遭遇することができ、九死に一生を得た。全身の打撲に加え、尾てい骨にヒビが入るという重傷ではあったが、なんとか生きて還ることができたのだ。

そのときの様子を見ていた野田さんは、僕が滝に落ちた瞬間に「佐藤は死んだ」と思ったという。そして「佐藤の両親にはなんと伝えようか。『立派に死にました』と言わなくては。記者会見も必要だ。なんと言うべきか」と考えていたという。
笑い事ではないが、今話してみるとどうしても笑わずにはいられないできごとだった。

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写真家の家族と野田さんの妹さんで熊野川を下る。家族ぐるみのつきあいだった。

遊びの達人は、悩みも痛みも知っていた

いつも楽しそうな姿を見せる野田さんだが、落ち込むこともあった。書く仕事に悩むこともあったのだ。そういうとき、野田さんはよく相模川の上流の猿橋の方へ行っていた。そこで大きな樹に登ってじっとしていた。しかし人好きのする野田さんのこと、いつのまにか周辺の農家の方々と仲良くなっているということもあった。

悩むことも知っていた野田さんは雑誌『Outdoor』(山と溪谷社)に「痛快!アウトドア人生相談」という連載コーナーを持っていた。とても人気のあったコーナーで、後に『本日順風』という本にまとめられている。
多くの名回答が飛び出したこの連載であったが、傑作なのは白紙で出てきた回があったことである。野田さんがユーコンに行っていたため原稿が送れず、掲載できなかったのだ。野田さんも編集部も正直な人たちだった。

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50代の野田さん。1980年代撮影。

野田さんの最後の長旅もユーコン川だった。75歳にして筏でユーコン川をくだった。筏は横幅が広いためにゆっくりとしか動けないと思っていたが、違った。川の流れが早く、いくつもの流木が積み重なっている場所を、野田さんはオールを巧みに動かしてひょいひょいと迂回することができた。これには野田さん自身も驚いたようであった。
50年近く川旅をしていても、野田さんの旅はいつも発見にあふれていた。

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最後のユーコン旅。2013年撮影。
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最後の川旅はユーコン川を筏で行く。カナダのホワイトホースを出発し、4分の3ほど進んだところ。上流(支流)で金の採掘をしているため、水は濁っている。ここからさらに下ったところに、かつてゴールドラッシュに沸いた街・ドーソンがある。

野田さんは僕にとって最大の遊び友達だった。人生の半分以上を彼と一緒に遊んで過ごしてきた。野田さんと出会わなければ川に関心は持たなかっただろうし、アウトドアへの関心も持てなかった。僕の作品の多くは、今発表している形では生まれなかったかもしれない。

そしてまた、多くの日本人も野田さんに影響を受けたはずだ。野田さんは現代のアウトドア文化の創始者の一人といえる。野田さんが旅をする前は、カヌーで川をくだることは一般的ではなかった。川とのつきあい、水での遊び方も、違っていた。

つまり、野田さんがいなければ今の世界は、こと日本はまったく変わったものになっていたということだ。ありがとう、野田さん。野田さんの生きた道には、後に続く人たちがきっとたくさんいるよ。

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徳島県日和佐の自宅前で愛犬と。ユーコン川へも連れていったマルとアレックス。