暮沢剛巳

暮沢剛巳

2021年のドバイ万博。会場中心のアルワスル・プラザでは最新鋭の光と映像、音楽のスペクタクルショーが催事を彩った。

(写真:Creative Family / shutterstock

多幸症的な幻想を振りまくことのできない時代に万博を開催するということ

2025年に開催される「大阪万博」。盛り上がっている人や地域もあるが、一方で「なぜ、また」と眉根を寄せる人も少なくない。その理由はすでに万博が「終わっている」イメージを持たれているからだ。しかし実は万博が終わったのは20世紀のことであり、万博が持つ意味は今新たに生まれようとしている。美術評論家の暮沢剛巳氏が紹介する。

Updated by Takemi Kuresawa on May, 13, 2022, 9:00 am JST

「万博」は時代遅れか

「万博思考」と聞いて、多くの人々は「何だそれは?」と怪訝に思うに違いない。それも当然だろう。これはどんな辞書にも載っていない、私自身の造語なのだから。では人々は、この造語から何を感じ取るだろうか。一般に万博というと、だだっ広い満艦飾の会場に多くのパビリオンが林立し、参加各国による観光と物産の展示や大手企業による最新技術の展示が繰り広げられている光景を連想する人が多いだろう。ただ率直に言って、現在万博と聞いて是非とも家族や友人と一緒に足を運びたいと思う人はそれほど多くなく、むしろどこか時代遅れに感じられ、あまり食指が動かない人の方が多いのではないだろうか。

もちろん、かつてはそんなことはなかった。万博と聞くと多くの人が心躍らせ、我先にと会場に詰め掛け、人気パビリオンに長蛇の列をなしたものだ。日本で万博といえば、誰しもまず1970年の大阪万博を思い起こすに違いない。日本初であったこの万博は、当時史上最高の6140万人もの観客を動員した未曽有の国家事業であり、1964年の東京オリンピックと並んで戦後復興を象徴するイベントであった。その成功体験は多くの関係者の心に刻まれ、その後の日本では「夢よもう一度!」とばかりに日本では沖縄海洋博(1975)、つくば科学博(1985)、花と緑の国際博(1990)、愛・地球博(2005)と4度の万博が開催された。「万博」を名乗っていない地方博まで含めたら、その数はさらに増大する。だがその1つとして大阪万博の熱気を再現するには至らず、会場で繰り広げられる数々の見世物は、回を重ねるごとに飽きられていった。数年にわたるプロモーションの結果招致にこぎ着けた2025年関西万博が、開催まであと3年となった現在もあまり盛り上がっているようには見えないのも、そうした既視感のためだろう。1年遅れで開催された2020東京オリンピックは、大半の競技が無観客で開催されたためイマイチ盛り上がりに欠けた感が否めなかったが、コロナ禍の影響が依然として不透明な昨今、関西万博に同様の危惧を抱いている人も少なくないのではないか。

すでに一度終わっている万博の時代

2025年関西万博の成否がどうなるのか、もちろん現時点ではわからない。ただ同じ大阪が舞台ではあっても、そこに出現する風景が半世紀前の万博のそれとはまったく異質なものとなるであろうことは間違いない。夢洲を舞台とした万博で、果たしていかなる実験が繰り広げられるのだろうか。私がここで「万博思考」と呼びたいのは、様々な実験のベースとなるであろう思考のことである。

再び1970年大阪万博へと戻ろう。といっても、半世紀前の万博について、新たに何かを語ろうということではない。この万博については今までに膨大な言葉が費やされてきたし、私自身も数冊の本を著してきた。ここで語りたいのはその後のことだ。従来、万博は特別博と一般博に区分されてきた。両者の違いは、原則として前者では複数の部門展示による総花的な展示が行われ、また参加国に自国のパビリオン建設を求める(単独でパビリオンを建設する資力のないアジア・アフリカの小国は、複数の国で共同館というパビリオンを開設する)のに対し、後者は「海洋博」「科学博」など1つの部門展示に特化して開催されることだ。当然、前者の方が大規模であり、多額の予算や長期の準備期間が必要とされる。これを日本で今までに開催されてきた5つの万博に当てはめると、大阪万博と愛・地球博が一般博、沖縄海洋博、つくば科学博、花博が特別博ということになる。大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」というものだった。よく言えばスケールの大きい、悪く言えばあまりにも漠然とした、いずれにせよ一般博にふさわしい間口の広いテーマである。

ドバイ万博会場
ドバイ万博のTerra-サステナビリティパビリオン前でおこなわれたイベント。

史上初とされるロンドン万博(1851年)以来、19世紀の半ば以降、欧米諸国では競うように万博が開催されてきたが、第2次世界大戦後その頻度は大きく低下し、大阪万博より前に一般博が開催されたのは1958年のブリュッセル万博と1967年のモントリオール万博の2回だけであった。万博は、全世界の物産が一堂に会するスケールの大きい催事である。ところが交通機関の発達した20世紀後半には海外旅行が一般的となり、その半面大半のアジア・アフリカ諸国が独立したため、それまでの万博の目玉であった植民地展示を行うことが不可能になってしまった。前述の通り大阪万博は記録的な大成功を収めたものの、これは日本初だったことに加え、アジア初、東洋初の万博でもあった地域性と、戦後復興の象徴として位置づけられた日本特有の事情による部分が大きかった。大阪万博の次の一般博はコロンブス新大陸発見500周年の節目に開催された1992年のセビリア万博で、両者の間には実に20年以上もの空白がある。この長い空白は、各国が莫大な経費を必要とする万博開催に二の足を踏んでいたこと、またこれといった万博開催の大義名分を見つけられずにいたことを物語る。これでは、「万博の時代は終わった」と巷間でささやかれるのも無理からぬことだった。

万博を復活させた周期開催とテーマの導入

こうした状況に強い危機感を持ったのが、博覧会国際事務局(BIE)であった。BIEは1928年に締結された国際博覧会条約に基づく国際的な万博の統括組織である。万博の開催地の選定や管理運営などをミッションとする、近代オリンピックを統括するIOCのような組織と考えておけば、まあ間違いではないだろう。BIEの認証を受けていない博覧会はいかに大規模であっても万国博覧会を名乗ることができないため、例えば1964年にニューヨークで開催された大型博覧会は、万博ではなく世界博の通称で呼ばれている。1928年に発効した国際博覧会条約は、その後1948年、1966年、1972年、1988年の4度に渡って改正されてきたが、ここで重要なのが、現在の万博を規定している1988年の改正事項である。

1988年改正の大きな特徴は、万博に周期開催の考え方を導入したことと、万博の区分を一般博と特別博から登録博と認定博に変更したことが挙げられる。まず前者だが、これは登録博(旧一般博)の開催周期を5年に1度とし、また3か月間の会期の認定博(旧特別博)をその間に1度のみ開催するというものだった。大阪万博の後で長い空白が生じたと書いたが、これは大規模な一般博の話であって、相対的に規模の小さい特別博はむしろ乱立気味であった。BIEはこれを抑制して特別博の希少価値を高めると同時に、特別博から一般博への鞍替え立候補を促そうとしたものと考えられる。一方後者は、認定博という小規模なカテゴリーを新設することによって、発展途上国の立候補を促すことを主な目的としたものだった。1996年に発効して以降、ハノーバー(2000)、愛知(2005)、北京(2010)、ミラノ(2015)、ドバイ(2020/コロナ禍のため1年延期)と登録博は5年周期で開催されており、一方で麗水(韓国/2012)やアスタナ(カザフスタン/2017)とアジア諸国が認定博を招致するなど、この改正が一定の効力を発揮したことがわかる。先のコロンブス新大陸発見500周年が典型だが、かつて各国は「建国」や「独立」などの節目の時期に万博招致を行う傾向が強かったが(それは、かつて紀元2600年記念事業として1940年にオリンピックと万博を同時開催しようとした日本にも当てはまる)、その結果として開催周期が一定せず、国際的な万博への関心低下を招いていた。BIEは、今後も万博を継続的に開催するためには、オリンピックのように開催周期を固定したほうがよいと考えたのであろう。

同様に、条文の改正こそ為されなかったものの、重要なのが1994年の第115回BIE総会において発出された決議である。その中には、以下のような一文が含まれている。

 すべての博覧会、現代社会の要請に応えられる今日的なテーマを持たなくてはならない。テーマは、開催国とBIEとの合意に基づき、正確で、かつ明瞭に定められることとする。
 テーマは、すべての参加者がそれを表現できるほど十分大きなものであって、当該分野における科学的、技術的、および経済的な進歩の現状と、人間的、社会学的な要求および自然環境保護の必要性から諸問題を浮き彫りにするようなものでなければならない*1。

1988年の改正事項には、認定博に「明確なテーマを掲げること」が明記されていたが、これはその方針を登録博にも適用したうえで、さらに推し進めることを狙ったものといえる。

*1 岩田泰「国際博覧会の歴史に博覧会国際事務局(BIE)が果たした役割」(佐野真由子編『万博学』、思文閣出版、2020に所収)を参照

見本市から課題解決型へ

黎明期の万博には開催テーマなど存在しなかった。万博に求められていたのは多くの参加国と見本市としてのバラエティ豊かな品揃え、それに「〇〇何周年」のような開催の大義名分であって、特定のテーマはかえって間口を狭くしかねなかったから、それも当然のことだった。1933年のシカゴ万博で初めて掲げられたテーマは「進歩の世紀」という進歩史観を前面に押し出したもので、「科学文明とヒューマニズム」(58年ブリュッセル万博)、「人間とその世界」(67年モントリオール万博)といった具合に、第2次世界大戦後もその傾向は続くが、それが可能だったのも70年大阪万博の「人類と進歩と調和」までだった。多くの日本人は、大阪万博の数年後にオイルショックによって成長神話があえなく瓦解したことを記憶しているだろうし、欧米諸国は一足先に低成長時代を迎えていた。久々に開催された92年のセビリア万博が「発見の時代」を掲げたときは、数十年も前に終わったはずの植民地展示を彷彿とさせるそのテーマ認識が厳しく批判されることとなった。20世紀の終わりを迎え、もはや世界中の珍品や最新技術を一堂に集め、進歩史観に依拠した多幸症的な幻想を振りまくことのできる時代ではなくなっていた。万博は否応なしに見本市から課題解決型イベントへの移行を迫られることになったのである。

ミラノ万博
2015年のミラノ万博。「食」をテーマに掲げ、”生命の樹”はそのシンボルとなった。

しかし、課題解決型イベントとはいっても、一体いかなるテーマを掲げるべきなのか。「万国博覧会」である以上、そのテーマは特定の国家や地域に固有のものではなく、あくまで普遍的、汎地球的なものでなくてはならない。とはいえ、BIEは万博の開催地の選定や運営計画の整備を主たるミッションとする、要するに多国間の利害調整のための国際組織である。いくら普遍的とはいえ、平和、軍縮、宗教といったテーマは加盟各国間の利害が激しく対立するため、正面切って掲げることが難しい。そこでクローズアップされるのが、決議のなかにある「人間的、社会学的な要求および自然環境保護の必要性」という言葉である。1972年にはローマクラブが『成長の限界』を発表し、このままでは地球の成長は100年以内に限界に達するとの提言をまとめたことや、同年に国連が「環境」と「開発」に関する最初の国際会議を開始したことなど、大阪万博とセビリア万博の間の約20年間の空白期間に、環境問題への関心は飛躍的な高まりを見せていた。言うまでもなく、環境問題は普遍的であり、また多くの参加国が基本的な認識を共有することが可能なテーマである。BIEは、環境問題が課題解決型万博にとってもっともふさわしいテーマの1つであることを早くから認識していたに違いない。

大阪の成功体験を捨てたことで「万博思考」の可能性が開かれた

ともあれ、課題解決型イベントへと舵を切った万博は、各回ごとにふさわしいテーマを打ち出す必要に迫られた。ここでは登録博*2に限定するが、21世紀以降の万博はそれぞれ以下のテーマを掲げて開催された。

2005年 愛知    自然の叡智
2010年 上海    より良い都市、より良い生活
2015年 ミラノ   地球に食料を 声明にエネルギーを
2020年 ドバイ   心をつなぎ、未来を創る

個々の万博についての考察は稿を改めるとして、字面から受ける印象としては、欧米や日本の万博は環境問題にストレートに向き合おうとしているのに対し、上海やドバイは以前の開発型万博を志向しているように見える。これはもちろん、過去の万博の開催経験の多寡によって大きく左右されているのだろう。また、一見開発志向型のドバイ万博にしても、サステナビリティをサブテーマに盛り込むなど、環境問題には十分に注意を払っている。

ではこれらの万博では、どのような立場から環境問題にアクセスしようとしたのだろうか。ここで注意しておきたいのが、BIEが課題解決型イベントへの転換を目指した経緯である。BIEが多国間の利害調整機関であることは既に述べた通りだが、これはすなわち、より大規模な多国間の利害調整機関である国連の決定から非常に影響を受けやすいことを意味している。1992年、国連はブラジルのリオデジャネイロで環境と開発に関する国連会議(いわゆる「地球サミット」)を開催し、全地球的な気候変動や化石燃料に代わる新しいエネルギー源、新しい公共交通システムなどの問題について多くの議論が交わされた。BIEの1994年の発議は、加盟各国に今後の万博ではこのサミットの問題提起に沿った展示を行うことを促すことが目的だったのではないかとも推測することができる。

そうしたBIEの意向がいち早く反映されたのが、他でもない愛・地球博であった。ソウルに敗北して1988年の名古屋オリンピック招致に失敗した愛知県は次の目標を万博招致に定め、1994年に基本構想を発表するが、その時点でのテーマは「技術・文化・交流―新しい地球創造―」というもので、大阪万博の約2倍の約650ヘクタールの会場面積や予想入場者4000万人を想定し、「あいち学術研究開発ゾーン」と「新住宅市街地開発事業」の跡地構想を掲げるなど、その青写真は70年大阪万博同様の開発至上主義的なものだった。これは、多くの関係者が大阪万博の成功体験にしがみつき、その再現を願っていたことを物語るが、もちろんこれではBIEの打ち出した方針と折り合うはずもないし、そもそも招致も成功しなかっただろう。結局このテーマは1996年に正式に立候補を表明した時には、「新しい地球創造―自然の叡智(Beyond Development:Rediscovering Nature’s Wisdom)」という決定案に近いものへと変更される(愛・地球博という通称も、そのプロセスで造語されたものだろう)。万博招致に当たっては政府や自治体、大企業など様々な関係者の思惑が交錯していたはずだが、招致を実現するためにはまずBIEの打ち出した新方針に従うべきというのが最大公約数的な判断であったに違いない。

翌1997年6月12日、愛知県はBIE総会にて2005年の万博開催地として正式に承認され、「自然の叡智」という開催テーマと合わせて広く報道される。同年12月には気候変動枠組み条約に関する議定書(いわゆる京都議定書)が締結され、万博は格好の実験場としても注目を集めることになった。それぞれの参加国や企業は、いかにして環境問題へのアプローチを試みるのか。それは、万博が見本市だった時代にはありえなかった「万博思考」の可能性が開かれた瞬間でもあったのだ。

*2 愛・地球博の招致決定は国際博覧会条約の改定と前後してなされたため、この万博の法的な位置づけは複雑だが、ここでは列挙している他の万博と同様の登録博として扱う

参考文献
万博学』佐野真由子 編(思文閣 2020年)