田原総一朗

田原総一朗

ジャーナリスト・田原総一朗が戦争とメディアを語る。

「山川学校」で学んだこと。田中角栄と宮澤喜一、二つの対米観

世界が大きく動き出しているときに、長年メディアの第一線で活躍してきた人物は何を思うのか。田原総一朗氏がメディアの激動の時代を振り返りながら語るシリーズ第3回。

Updated by Soichiro Tahara on May, 25, 2022, 9:00 am JST

時計は巻き戻されたのか

プーチンのウクライナ侵攻から3カ月が経つ。
西側メディアが盛んに報じていた5月9日の「戦勝記念日」も戦況の大きな転換点にはならず、ロシア軍による民間人虐殺は国際社会から大きな非難を受けている。

いったいこの戦争はいつまで続くのか。米国バイデン大統領は数年、場合によっては数十年にも及ぶ影響を覚悟しないといけないと言及したとも報じられている。世界は本当に100年も前の国際秩序に引き戻されてしまったのだろうか。そしていま、パックス・アメリカーナの終焉も目の当たりにしている。欧州において動けないNATO、自国の防衛に危機感を高めるウクライナ周辺国、東アジアにおいては台湾を巡る懸念と、この日本も渦中にあるという現実。米国は「守ってくれない」のではないか。戦後日本がずっと棚上げしてきた安全保障上の重大問題にとうとう向き合わなければならなくなった。

今回は米国の対日戦略について振り返りながら、僕がジャーナリストとしてとても大きな影響を受けた人たちのことを語ってみたい。

本土の「沖縄化」を指摘していた人物

僕が影響を受けた人といえば、まず山川暁夫さんだ。彼と知り合わなければ、現在の自分はなかったと思う。彼は日本共産党の最高幹部。今年2022年5月15日、沖縄の日本復帰50年を迎えたが、当時、佐藤内閣で沖縄が返還されるとき、返還はもう全政党が歓迎した。しかし、山川さんは「それは違う」と言った。沖縄返還は本土の「沖縄化」である。日本を米国に都合のいい国にする。それはある意味当たっていたと思う。時代は変わったが、集団的自衛権の問題もその延長にある。山川さんは共産党を除名され、辞めざるを得なくなる。僕はその後、1973年に山川さんと知り合った。

ハワイのオワフ島
ハワイのオアフ島、ハレイワにて。かつてこのあたりにはサトウキビ畑が広がっていた。ハレイワに最初に入植して成功したのが日本人。未だフィリピン人はそこでサトウキビを切っている。

その山川さんと一緒に共産党を辞めた一人に、高野孟がいる。高野は共産党の中で非常に大事にされていた。でも彼は山川さんを非常に信頼していて、自ら党を辞めた。僕はそれから高野といろいろな取材を一緒にやった。僕がとても信頼するジャーナリストの一人である。

山川さんに教えられたことは、アメリカの対日戦略。日本は戦後一貫して対米従属。米国の言うことを聞いていればいい。山川さんからは自衛隊と自民党の創立当時のこと、自衛隊と憲法は明らかに大矛盾していること、鳩山一郎以降の憲法改正の話など、たくさん聞いた。

憲法を逆手にとってベトナムへの派遣を回避した「宮沢理論」

山川さんと出会う前、僕は1971年に佐藤内閣の通産大臣だった宮澤喜一さんの話を聞きたいと思い、事務所に連絡した。僕は東京12チャンネル(現テレビ東京)のディレクター。宮澤さんは自民党の大物政治家。まだジャーナリストとも言えない無名の僕に会ってくれるはずもないと思っていたら、「お会いしましょう」と。僕はその時、現在も自身の価値観をつくっている決定的な話を宮澤さんから聞いた。宮澤さんの歴史観はこうだった。

日本は明治維新後、欧米に伍していくことを真剣に考えた。植民地になるか、植民地をつくるか。日本は植民地をつくることを考えた。そのためには、世界で強い国にならなければいけない。それで海外にどんどん進出していくと、軍の力は強くなる。満洲事変、日中戦争という侵略戦争を起こした。当時の世界は侵略するか、侵略されるかの二つ。日中戦争は国内でも反対が多かった。こんな戦争をすれば、アメリカにやられると。当時の総理大臣は近衛文麿。近衛も反対、昭和研究会もじつは反対だった。

しかし、軍に反対したら軍に殺される。5・15事件と2・26事件の記憶が生々しく甦る。だから近衛は、とにかく日中戦争に勝って早く収めたい。当時、欧州で一番力のあったのはドイツのヒトラー。広田弘毅を外務大臣にして、ヒトラーに頼んでトラウトマン(駐華ドイツ大使)、蒋介石との会談をしようとした。はじめ蒋介石は全く相手にしなかったが、日本がどんどん中国を攻めて上海を攻撃。蒋介石がこれはもう止むを得ない、会議に参加しようと思ったのとほぼ同時に南京陥落。日本の軍は非常に自信過剰になって、中国に賠償金を出すように言うが、出すわけがない。それで日中戦争は全然展望なく進んでいった。それにより、絶対に勝てるはずのない、太平洋戦争に踏み込まざるを得なくなった。

つまり、日中戦争を日本が進めた段階で、米国はやはり日本は潰さなければいけないと思い始めた。時の米国大統領はルーズベルト。ヒトラーが第二次世界大戦を始め、欧州ではヒトラーの勢いは非常に強かった。米国はヒトラーをやっつけるため、欧州戦線に参入したい。だが国際連盟が出来るときに、米国は欧州には介入しないと言明していた。それで米国は、日本と戦争になれば日本と同盟を結んでいるドイツに対し、欧州で参戦できる。だから、米国はなんとしても太平洋戦争をさせようとする。

日本は米国と戦争をしたら負けるに決まってるから、戦争をしないための交渉をする。ところが最後通告となったハル・ノートで、交渉を妥結するには日本は満洲、朝鮮から手を引けと。できるわけない。米国は一刻も早く米日交渉を打ち切りたい。そして日本は負けるに決まっている戦争に突入する。ということを、宮澤さんは僕に説明した。

戦後、1965年にベトナム戦争が始まった。米国は日本に自衛隊のベトナムへの派遣を要請した。日本は米国の言うことにノーと言えない。総理、佐藤栄作はとても困った。その時、宮澤さんが、日本は米国が押し付けた憲法によって行くにいけないと米国に言ったことで、日本は自衛隊を派遣しなくて済んだ。その後、日本はこの憲法を逆手にとって、米国の戦争に一切巻き込まれないでやってこられた。自衛隊の戦死者は戦後ゼロ。これが「宮澤理論」である。

田中角栄失脚の真実を教えられた

山川さんは、この対日戦略とは別の見方を教えてくれた。
最初、米国は日本を弱い国にしておきたかった、だからあの憲法をつくったと。さらに経済的にも弱い国にしたいから、財閥解体をした。ところが、朝鮮戦争が始まった。在日米軍が朝鮮半島に行って戦争する。共産圏と米軍の対立が高まる。米ソ冷戦がどんどん進む。朝鮮戦争が始まったのを契機に、米国が対日戦略を変える。日本を米国にとって都合のよい、多少強い国にしたい。それまで日本に軍隊がなかったのを、強引に自衛隊をつくらせた。それから財閥解体で日本の経済を弱くしようとしたのを、今度は強くしようとした。すべてがガラッと変わった。それで日本は戦後、成長できた。

山川さんに聞いた一番大きいことは、田中角栄に関すること。田中は金権政治を追及されて退陣した。その後、1976年にはロッキード事件で逮捕された。それは、実は米国が田中をやっつけるためにやった。対日戦略が変わったからだという。なぜ田中が狙われたのか、これに対しての山川さんの説明に、僕は非常に感じ入った。

1973年秋の第4次中東戦争まで、日本は経済もエネルギーも全て米国に頼ってきた。ところが、サウジアラビアなど中東の米国と親しい国の政情が不安定になってきた。そこで田中は、エネルギーの自立計画を立てた。日本は米国に頼るのではなく、自立しなければならないと。田中はアジア、欧州、ロシアまで行って、エネルギーの自立計画をやろうとする。それに対して米国はこれは反米政策だと捉えた。当時、ニクソン政権の国務長官だったキッシンジャーは日本は米国の敵になる、危ないぞと言ったと。こうした話を全部、山川さんから聞いた。それでも田中はやろうとし、その一環として彼は新潟県柏崎刈羽に原発をつくった。
だから米国は田中を潰そうとしたんだ、ということを詳しく聞いた。

ニューヨークのヴェトナム反戦デモ
ニューヨークのベトナム反戦デモ。多くの市民がシュプレヒコールをあげ、通りを練り歩いた。

1976年に田中が逮捕される前、僕は『中央公論』に「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」という記事を書いた(『中央公論』 1976年7月号)。中央公論の水口義朗さんが書かせてくれた。僕は水口さんに非常に恩を感じている。この記事は世の中から非常に注目され、これが契機となって文藝春秋や講談社、朝日新聞などいろんなところから原稿の依頼が来るようになった。それまでは僕はまったく、テレビの人間だった。

国民から金権政治でけしからんと言われているときに、彼は日本のエネルギー自立計画をやろうとして虎の尾を踏んだと。米国の戦略はどんどん変わるから、日本にはそれにきちんと対応して戦略を持たないといけない。対米従属は、オイルショックを契機にそれだけではだめだということがわかった。山川さんは世界戦略に非常に詳しく、いろいろな人が、朝日新聞、共同通信、毎日新聞の記者ほか、みんなが山川さんに話を聞きに来た。
さながら「山川学校」だった。僕も山川さんに教えられた一人だ。
山川さんの存在は、当時の僕にとって非常に大きい。

対極から学ぶことを忘れない

僕は「山川学校」と「宮澤理論」というように、対極にあるような両方から学ぶことができた。自分が疑問に思ったことはなんでも直接、聞きに行く。自分で確かめないといけない。与党にも野党にも、それから経営者にも労働組合にも、いわば反体制派にも話を聞きに行く。自分で一次情報を確かめなければいけない。そのためには、絶対に嘘を言わない。誰とでも本音で付き合う。損得を考えない。この姿勢だけは、今もずっと変わらない。