井山弘幸

井山弘幸

ハワイの北海岸は波のパワーが違う。風の強さによって波の大きさが変わり、海の深さによって波の力が変わる。さざなみが7本重なると大きな波になるといわれている。

(写真:佐藤秀明

創造的発見の動機づけとなる「メタファー」

AIがメタファーを理解できるようになるのかという議題は度々あげられる。しかしそもそも、私たち自身がメタファーを理解しているのだろうか。私たちはなぜメタファーを用いるのだろう。それはなぜ理解されるのか、どう作用するのか。科学哲学者が考察する。

Updated by Hiroyuki Iyama on May, 27, 2022, 9:00 am JST

実は相互類似性がない「メタファー」

「男は狼である」というのは、46年前のヒット曲にあるメタファーである。しかし、よく考えてみると「男」にも「狼」にも相互類似性は認められない。これがある種「悪口」として作用するのはなぜなのか。野生の狼は人間を襲ったりしないし、むしろ家畜化して犬になるくらいの適性と品格がある。

哲学者ブラックの古典的な著書 Models and Metaphors, 1962 によれば、こう解釈される。「男は狼である」と聞くと、男はますます狼に近づき、他方、狼の方は一層人間味を帯びてくる。互いの意味空間は変容して、新たに混成概念を形成する。この際に、男でもない、狼でもない、もともとは無かった新しい意味の創出が起きる。つまり「豹変して女性を襲う色情魔」は、相互作用の結果生まれたことになる。本当にそうなのだろうか。

メタファーは非対称である

「光は波である」という物理学の古いメタファーを例にとろう。光は太陽光線、波は海辺に押し寄せる波である。狼のメタファーと大きく違う点は、この命題は明らかに偽である、とは言い難いことだ。どちらも日常よく知るものでありながら、本当のことはよく分からないから、両者をイコールでつないだ時にさほど違和感がない。特に波については、「人波」や「寄る年波」の如くメタファーとして汎用され、実在の様態として奥深い何かを感じさせるが、だとしても即座に共通項が見つかるわけでもない。

レオナルド・ダ・ヴィンチの残した膨大な草稿やスケッチのなかに、光を波として捉えた描画がある。光は蝋燭から放たれ、波形を描いて広がってゆく。光を波として理解しよう、という意図が分かる。言い換えると、光は「被説明項」つまり説明される側であり、波の方は「説明項」即ち説明する側である。光は神々しいまでも鮮やかな現象ではあるが、未だ謎が多く、その正体をつかみ兼ねている。一方、海や湖沼の波はなじみのあるもので、波形としてすでに図像化されている。この関係は逆転することはない。謎めいたものをなじみのもので説明する。自然の哲学者たちはこの種のメタファーを多用してきた。

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ネパールのゴルカという街は、グルカ兵のふるさとだ。グルカ兵は山岳民族で、世界で一番強い傭兵である。世界中の軍隊がグルカ兵を雇うが、兵の家には家具もなにもない。

その一方で「波は光である」とは言わない。海洋の波を想像しながら、それを光として説明しようとは考えないし、考えた者もいない。「光は波である」の、主辞である光と賓辞である波の先後の関係は、入れ換えると全く違う事態が出来し、別のメタファーとなる。「波は光である」は、メタファーだとしても戸惑うだけで、そこから現時点では、何の展開も約束されないのである。メタファーにはこの非対称性がある。

それでは「男は狼である」の前後を逆にして「狼は男である」とするとどうだろう。何か偉大なことをなし遂げた狼に「お前って男だね」と、(ジェンダー論者ならば問題視するであろう)誉め言葉をかける状況は十分に想像可能ではあるし、こちらは狼にとっても男にとっても、悪いイメージを伴わないが、全く別のメタファーになってしまう。相互作用の考え方だと、この非対称が説明できないのである。     

メタファーとは違うが、機転を利かせて主辞と賓辞を入れ換え、文の印象をすっかり逆転させた例を紹介しておく。安土桃山時代の逸話である。秀吉は信長から猿と呼ばれていた。主君から言われるのは我慢できても、太閤となった今、町民に噂されるのは威信にかかわることだ。そこで御伽衆の曽呂利新左衛門に御下問。「町ではわしを猿に似ていると噂しているようだが、どう思う」。これに対し曽呂利は「殿下のお顔が猿に似ているのではなく、猿が殿下に似ているのです。殿下のご威徳にあやかって努めて似たいと思うのは誰しも同じ」と答えた。

メタファーとはベクトルである

いずれにしても、メタファーはベクトルとして捉える必要がある。宮澤賢治の翻訳者でもあるユダヤ人作家ロジャー・パルバースは、かつて賢治の詩文の独自性は豊穣なメタファーにあると言い、メタファーとは「我々を遠く彼方へ運ぶ表現」とした。やはりベクトルなのである。とりわけ科学においては、「光を波として捉えることによって、限りなく波に近い性質を光のなかに発見しよう」と促す、新たな探究状況が形成される。たとえば光は波である、と考えることで、夜明けの薄明を説明できる。まだ太陽が地平線から顔を出していないのに、東の空はぼんやり明るくなる。これは光が回折する(波のように回り込む)ことで説明できる。他方「光は鉄砲玉である」というメタファーは、太陽光の直進性と高速を説明するけれど、暁闇の薄明かりは説明できない。非難や侮蔑を表わす修辞的メタファーにおいては「余計な意味」が上乗せされるのに対して、科学で用いられる認知的メタファーでは、余計などではなく「創造的発見」の動機づけがなされるのである。

科学の認知的メタファーはいつも正しい結果をもたらすわけではない

ニュートンは、また別のメタファーを用いている。ペスト大流行で大学が閉鎖。故郷ウールソープであの有名なりんごの落下を目撃した(ことになっている)奇蹟の年。白色光をプリズムに通す実験を通じて、白色は七色の混合によるという結論に達した。何かと対立することの多かったロバート・フックや、当時の多くの哲学者の間では「プリズムによって白色光が着色される」と解釈する者が大半であった。青年ニュートンは奇抜な発想で、この常識を覆す。プリズムによって分光された七色の光線を、逆向きにしたもう一つのプリズムに通した。すると彩色された光線はもとの白色に戻る。もしプリズムによる着色がなされるのであれば、二度の通過でもっと濃く着色されるはずで、白色に戻ることは考えられない。

決定実験とも言われるこのプリズムの実験で、ニュートンは光のスペクトル分解の原因を説明するため「光は音階である」というメタファーにたどりつく。白色光の中に含まれる異なる色の光が屈折し、色によって光の屈折率が異なるため、赤から紫にいたる色の帯が出現すると考えた。そして、七色の光のスペクトルを、音階の1オクターヴに対応させた。ドリア旋法の音階でレ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド、レを弦楽器の弦長で表わし、スペクトルの基線から各色の間の仕切り線までの距離と関連づけた。(『光学』1704年)。図示しないと分かりにくいが、この相関が正しいかどうかは、ここでは興味がない。なにしろニュートンは光を鉄砲玉(微細粒子)だと考えていて、「光は波である」というメタファーを使わなかったからだ。ガラスの上に凸レンズを置くと見ることのできる干渉縞(ニュートンリング)は、波動ではなく粒子の発作 fits によるとした。もちろんこの発作もまたメタファーである。科学の認知的メタファーはいつも正しい結果をもたらすわけではない。これが言いたかったわけだ。実際に測ってみると、七色のスペクトルの赤と紫の両端の距離の比は2倍にはならない。音階ならば倍音の関係になるのに。面白いのは虹が二重に見える時だ。あたかも赤から紫の音階が1オクターヴ上がって繰り返されるように見えるではないか。ニュートンが書いているわけではないけれど。

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カナイマの滝。ギアナ高地のロライマ山からセスナで1時間ほど。渇水期に撮影したが、雨季にはこの3〜4倍もの水が流れるらしい。

もちろん虹の七色の周波数と、平均律の音階の振動数との間に相関はない、ということを我々は知っている。なぜなら、スペクトルの帯域を何色に分けるかは恣意的で、言語文化によって五つになることもあり(アマゾンの部族ピダハンの言語の如く色を表わす言語のない社会だってある)、七色であることの客観的な根拠はない。七という数字が好まれること以外に理由はない。七不思議とか七つの大罪だってそうだ。メタファーはときに幻想を誘発する。

思考の過程で役立てられた音階のメタファー

元素は音階である、と考えた科学者もいる。1865年イギリスの化学者ニューランズは、当時知られていた約60の元素を原子量の順に並べ、そこに音階のオクターヴの周期性を投影した。8番目ごとに性質のよく似た元素が繰り返し出現するからだ。このメタファーは倍音以外の音程と元素の化学的性質の関係や未知元素の発見、という魅力的な研究テーマを促すものであったが、余り注目されず、メンデレーエフの音階とは異なる周期表にとって代わられた。もっとも希ガス元素の単離と発見があって、周期が8でないことは後に判明した。

まだ音階のメタファーは終わらない。イギリスの化学者で調香師のピースは、天然香料を音階に合わせて並べた「ピースの香階」Gamut of Odours を考案した。The Art of Perfumery, 1879 という本を書いている。このメタファーはさらに進んで、香りも和音のようにブレンドすることで新しい香り、和香を醸成できるという発想を生み出した点で創造的なメタファーであった。科学研究においては、以上のように、観察言語で記述される現象(主辞)を、理論言語(賓辞)によって説明しようとする動きが始まると、そこに機能上メタファーが成立するが、理論によって新現象が推論され、それが検証されると、やがてメタファーは消失し、一つの科学的事実が残って記録されることになる。

メタファーを成り立たせる「悪意」

他方「男は狼である」からと言って、調べてみたら一部の男性のなかに狼が発見される、などということはない。男性の遺伝子の塩基配列を狼のものと比較したところ、猿やチンパンジーよりも類似性が高かった、ということもない。修辞のメタファーは、新たな事実をもたらさない。しかしながら、科学的発見とはまた違ったタイプの「認識」を与える点を見逃してはならない。「男は狼なのよ」は悪口にもなりうるからだ。

XはYである。と同時に、この文が字義的に偽であるときにメタファーが成立するのであれば、当然、悪口の多くはメタファーである。小説家の筒井康隆は「悪口雑言罵詈讒謗」のなかに、古今東西の悪口雑言、謗(そし)り、嘲(あざけ)り、誹謗中傷を網羅し、なおかつ分類もしているが、相手を獣や虫に譬えるメタファーも多く含まれる。さらに古い例を英文学者の中野好夫は「翻訳雑話」のなかで伝えている。ラヴレーの『ガルガンチュア物語』第一書第25章に菓子パン売りと羊飼いが街道で大喧嘩するシーン。悪口雑言が28個続くところがある。このフランス語原文をアーカートが翻訳(というか変訳)すると悪口は40種に増えていて、中野先生、大絶賛している。だが「XはYである」の形式のメタファーが、なぜ悪口になるのか侮蔑語のYをどれだけ掘り下げ、詮索したところで、答えは見つからない。

収録語数9千3百語のフランス語版「罵詈讒謗辞典」の原題が Dictionaire des Injures であることから、一つ分かることがある。賓辞に使われる語の意味如何にかかわらず、話者に相手を傷つけようという、攻撃や非難の意図がある限りにおいて、悪口のメタファーは成り立つからだ。「貴方って、狼なのよ」。「家康は古狸だ」。「この女狐め」。「野郎は幕府の犬だ」。どれも敬意や賞賛とは無縁で、攻撃や批判を感じさせる。でも、そのさじ加減は、話者の腹の中と話者を包む社会や共同体に依存する。哲学者の梅原猛は、嘲りや侮蔑の成立条件に「底意の共犯」があるとした。言葉による攻撃である、と互いに理解しうるコードが存在する。人類学者のリチャード・ランガムは『善と悪のパラドックス ヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史』(2020年)のなかで、ホモサピエンスが進化を遂げる過程を自己家畜化と捉える。種内での殺し合いを未然に防ぐために、反応的攻撃性を抑制する淘汰圧が働いたと言う。個体の暴力への衝動を抑制するために、言語や仕種での応酬がなされる。最終的には刑罰に訴えるにしても、それ以前の段階で、批判や非難の言語による戒めが必要だ。悪口の起源は暴力の抑制だった、という見方もできるのだ。

参考文献
オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険』鈴木光太郎(新曜社 2008年)
『知の革命と再構成』マリー・ヘッセ 村上陽一郎ほか共訳(サイエンス社 1986年)
光学』アイザック・ニュートン  島尾永訳(岩波書店 1983年)
賢治から、あなたへ 世界のすべてはつながっている』ロジャー・パルバース 森本奈理訳(集英社 2013年)
欠陥大百科』筒井康隆(河出書房新社 1970年)
『英文学夜ばなし』中野好夫(新潮社 1971年)
善と悪のパラドックス ヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史』リチャード・ランガム(NTT出版 2020年)