玉木俊明

玉木俊明

アフリカのビクトリアフォールズ(ビクトリアの滝)。柵もない崖から、地元の人々が飛瀑を見下ろしている。2016年ごろ撮影。

(写真:佐藤秀明

西洋中心主義者には見えない、中世の立役者

世の中が大きく転換するとき、そこには「意義」や「主義(イズム)」があり、それが現象をリードしていると考えられることがある。しかし、実は16世紀の宗教改革でさえ、実は信条よりも商売を優先して動いていた可能性がある。経済史学者の玉木俊明氏が紹介する。

Updated by Toshiaki Tamaki on June, 1, 2022, 9:00 am JST

あまりに西洋中心の見方をしていないか?宗教改革は本当に大事件だったのか?

1517年、マルティン・ルターがカトリック教会の腐敗に対して発表した95箇条の論題をきっかけとして宗教改革がはじまり、世界史は大きく変わった。一般的にはそう考えられることが多い。

宗教改革のために、西欧世界はカトリック地域とプロテスタント地域に分裂した。プロテスタント地域はさらに細かな分派に分かれ、宗教戦争がナショナリズムを生み出し、国や地域によって奉じる宗教が異なる状況を生み出した。その終結は、三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約締結の1648年を待たなければならなかった。

上記の要約は、単にユーラシア大陸の西端にあるヨーロッパ世界の状況を述べたにすぎない。宗教改革は、始まった時点では、決して世界史的な事件ではなかった。にもかかわらず、それを当初から世界史を変えた出来事だと言うとすれば、あまりに西洋中心的な見方にすぎよう。

だが同時に、現在では世界中にキリスト教徒がいることも確かである。しかし、少なくともその出発点はカトリックの2カ国―スペインとポルトガル―の海外進出にあった。

ここでは、拙著(『迫害された移民の経済史 ヨーロッパ覇権、影の主役』河出書房新社)にもとづきながら、宗教改革の世界化について論じてみたい。

日本にキリスト教を広めたイエズス会。創始者はユダヤ人だった可能性

コンベルソ」という言葉をご存知だろうか。コンベルソとは、ユダヤ教からカトリックに改宗したか、もしくは現在はカトリック信徒だが祖先はユダヤ教徒だった人々のことをいう。イエズス会創始者であったイグナチウス・ロヨラ(1491〜1556)もまた、コンベルソの家系に属していた可能性がかなり高いというのが、スペイン史家ケヴィン・イングラムの主張である。

ロヨラ家は、家系的には13世紀にまで遡り、バスク地方の出身であった。イグナチウスの母方の家系は成り上がり者の家系であり、貿易によって巨額の利益を獲得し、それをもとにして社会階級を上昇させていった。

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マンハッタン郊外、ロングアイランドサイドの墓地。遠景の摩天楼も墓石のよう。1967年撮影。

ロヨラの母方の祖父にあたる人物は商人であり、また弁護士でもあった。この当時、スペインで商業に従事していたことから、彼がコンベルソであった可能性は高い。というのもこの当時のスペインの有力商人の多くは、コンベルソであったからである。

1506年、ロヨラはカスティーリャ王国のアレバロに移動し、新キリスト教徒(コンベルソ)の商人と親しくなった。このときから、彼はコンベルソとの関係を強めていった。おそらくそれには、コンベルソ商人が富裕であったことも関係していよう。

やがてロヨラは軍人となり、各地を転戦した。1521年にパンプローナの戦いの際に砲弾が足に当たって負傷し、療養生活を送ることを余儀なくされた。この療養生活の最中に『黄金聖人伝』とキリスト伝を読み、聖地に赴いて非キリスト教徒を改宗させようと決心したと言われている。

死の商人、イエズス会

ロヨラは、1522〜1523年にはバルセロナ近くのマンレサで隠遁生活をした。そして洞穴のなかで瞑想をしていたとき、イエス・キリストの姿を内的に見たと思ったのである。1548年に出版された『霊操』(イエズス会の霊性修行、またその方法を記した書)の草稿は、マンレサで生活していたときに完成したとされる。 

その後、ロヨラはスペインのアルカラ大学で学んだ。1528年からパリ大学で学び、彼の考え方に共感する同志を探した。1534年、フランシスコ・ザビエルを含む同志となった6人とともにモンマルトルの丘に登り、自分の生涯を神にささげる誓いを立てた。これは、「モンマルトルの誓い」と呼ばれる。

彼らは、「今後、7人はおなじグループとして活動し、イェルサレムでの宣教と病院での奉仕を目標とする。あるいは教皇の望むところならどこにでも赴く」という誓いを立てたのである。彼らは教皇への絶対的服従を誓った。このときがイエズス会の設立だとされる。

ロヨラは、1547年に『イエズス会会憲』、さらには『イエズス会規則』を作成した。イエズス会は、これらの規則によって統制される組織になった。また、イエズス会は布教集団ではなく経済団体でもあり、武器を輸出する死の商人としても活躍した。ヨーロッパの軍事革命の成果をアジアに輸出したのは、イエズス会であった。倭寇の武器の購入先として、もっとも可能性が高いのはイエズス会なのである。

イエズス会独自のネットワーク

カトリックの国であるスペインでは、なによりも「血の純潔」が重視されていた。「血の純潔」とは、代々キリスト教徒であった旧キリスト教徒が尊ばれることであり、元ユダヤ教徒のコンベルソは特定の職種から排除される存在だった。コンベルソは、カトリック教会の中で公職につけなかったのである。

スペインは長年にわたり、カトリック、ユダヤ教、イスラーム教が共存した国家であった。われわれは、キリスト教徒がイスラームから国土を回復するレコンキスタ(国土回復運動)を世界史で学習するため、スペインがカトリック国になるのは当然のことであったと考えがちであるが、私の考えでは、それはキリスト教中心史観ともいうべきである。そもそも「血の純潔」とは、15世紀後半以降に強くなった思想なのである。

ロヨラは、パリに滞在中に仲間とともにコンベルソ商人の財政的援助を受けていた。なかには、バルセロナのパトロンからの支援も含まれていた。ロヨラがコンベルソであれば、コンベルソから財政的支援を受けること自体に抵抗感がなかった、と考えるのが自然であろう。

ロヨラはまた、スペインのブルゴス出身の複数のコンベルソ商人と接触するようになった。彼らは、当時の代表商業都市ブリュージュとアントウェルペン(アントワープ)の商業集団との関係が強かった人々であった。そしてこれらの商人は、イエズス会設立以降も支援者となってくれた人々だったのである。

イエズス会創設時には、ロヨラを含めて全部で7人のメンバーがいた。このうち、6人がコンベルソであった可能性が高い。日本への布教で有名なフランシス・ザビエルも、コンベルソだったかもしれないのだ。

実際に、初期のイエズス会の指導者たちは新キリスト教徒で占められていた。したがって、イエズス会の宣教には、ユダヤ教徒の血をひくコンベルソによる多数宣教師がいたのである。先祖代々のキリスト教徒ではなく、キリスト教を信仰していると言っているが実はそうではない人たちがいた可能性すらあるのだ。

ロヨラの時代のイエズス会は、コンベルソを構成員とすることで発展していった。これは、非常に重要な事実である。ロヨラは、イエズス会はすべてのキリスト教徒に開かれた組織であるべきだと考えていた。だが、やがてコンベルソは旧キリスト教徒(先祖代々のキリスト教徒)との争いで勝てなくなっていった。イエズス会は、開かれた組織とは言えなくなったのである。

しかし、もしロヨラがコンベルソを排斥していたなら、イエズス会の急速な発達はなかったと考えられる。「血の純潔」は、本来もっとも忠実なカトリック信者が集まるべきイエズス会により、否定されたのである。

日本への進出は、もとより商売が目的だった

ポルトガルの対外的進出を支えた人々は、コンベルソであったかもしれない。もしそうでなければ、わざわざポルトガルからアジアまで赴く必要はないからである。

インドに行けば本国にいるよりも金持ちになれると信じて海を渡る人々は多く、そのなかには多数のコンベルソが含まれていた。コンベルソは、東南アジアにとどまったわけではない。人文学者ルシオ・デ・ソウザ氏の研究によれば、セファルディム(イベリア系のユダヤ人。ここではコンベルソと同義)は日本にまでやってきた。コンベルソは大西洋と同様、インド洋から東南アジアにかけ、さらには東アジアの日本との貿易にも従事していた。

デ・ソウザ氏は、1543〜1660年にアジアで活躍した110名のコンベルソについて研究した。このうち、職業がわかっている者は76名であり、そのうち85%が貿易商人であった。コンベルソのうち、大半はポルトガル系である。

当時、マカオではユダヤ人の血をひくバルトロメウ・ランデリオという人物が非常に大きな商業ネットワークを形成したばかりか、イエズス会と協力したのである。ランデリオは、マカオを中心として商業ネットワークを拡大させていったが、それは東南アジアだけではなく、インドや中国、さらには日本にまでおよんだ。

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紙幣のデザインは多種多様であり、芸術的な意味を見出す人も多い。

1583年には、マカオの商人が、ランデリオのガレオン船やカラック船で商品を日本に運んだ。ランデリオは、マカオ-マニラルートを開設した。翌年、彼はマカオからマニラまで航海した。さらに彼の甥のヴィンセント・ランデリオは、平戸を最終目的地とするマニラ-日本ルートを開拓したのである。

1580年頃から、ポルトガル人は、日本から毎年20トン程度の銀を輸出していたと推計されている。ポルトガル人は、中国で購入した生糸・絹織物を積載して日本に来航し、これらの商品を銀(石見銀)に換えて東南アジアで香辛料を購入する、という中継貿易に従事していた。いうまでもなく、このポルトガル人の多くは、イエズス会士であった可能性が高い。

新世界においては、スペイン領新大陸とペルーにコンベルソが到着し、コンベルソのネットワークは日本からマカオへ、そして新世界へと結びついた。すなわち、コンベルソのネットワークは世界的なものへと変貌した。それはおそらく、イエズス会のネットワークとかなり緊密に結びついていた。

長崎に潜んだ「隠れユダヤ人」

長崎に居住した人々の中にコンベルソがいた可能性は、かなり高い。むろん、彼らはユダヤ教徒ではなく、カトリックを信じるふりをしていた隠れユダヤ人(Crypto Jews)であった。

マカオにはユダヤ人共同体があったが、それは公にはできないことであった。書簡から明らかなことは、1579年の時点で、ポルトガル出身の600の家計があり、そのうち半分がコンベルソであった。

コンベルソは、イベリア半島から追放されたディアスポラの民である。彼らは、追放されたがゆえにアジアに住み着いた。彼らはイエズス会と協調し、商業活動をした。イエズス会もまた、彼らのネットワークを利用し、活動領域を拡大した。イエズス会とコンベルソの活動は、表裏一体の関係にあったといえよう。

宗教的な面だけが世界を変えたわけではない

ロヨラがコンベルソであったことは、彼の秘書がコンベルソであったことから考えても、間違いないことだと思われる。われわれは、イエズス会はカトリックの宣教のための集団だという意識が強く、その他の面にあまり目を向けてこなかったのではないか。ここでは、それが大きな問題だと指定したい。

宗教改革は、確かにドイツからはじまった。それに対抗して、カトリックが対抗宗教改革をおこなった。大航海時代の口火を切ったのは、イベリア半島のポルトガルとスペインであり、彼らがいわば宗教改革と対抗宗教改革の影響を世界各地に輸出したのである。

ポルトガルとスペインの2国は、プロテスタント諸国に先駆けて世界の諸地域を植民地化し、カトリック地域にしていった。それを嚆矢として、世界はヨーロッパ化していった。プロテスタント諸国は、カトリック諸国よりも遅れて世界に出ていったのである。これは、決して忘れるべきことではない。

アジアへのヨーロッパ諸国の拡大にとって非常に重要な機関として、プロテスタント国である英蘭の東インド会社がある。しかしこれらは、国家的事業であっても、宗教的事業ではなかった。イエズス会の海外進出と英蘭のそれとは、この点で決定的に違っているのである。

土地を追われた人々によるネットワーク

宗教戦争の時代には、多くの人々が居住地を離れることを余儀なくされた。彼らのなかには、ヨーロッパ内部にとどまらず、外部の世界に移住せざるをえなかった人たちもいた。そのなかに、コンベルソがいたのである。彼らは、もしかしたらユダヤ教の信徒だったかもしれない。少なくとも、ヨーロッパのなかでは生きづらかった人々であった。その彼らを、自らの組織内部に組み込んだのがイエズス会であった。したがってイエズス会は、コンベルソ(その一部は現実にはユダヤ教を信仰していたかもしれない)の商業ネットワークを利用して拡大できたと考えるのが妥当ではないか。

イエズス会を、単にカトリックの布教団体だととらえるべきではない。彼らこそ、宗教改革を世界に普及し、ヨーロッパの世界観を世界各地に植え付け、武器貿易で巨額の利益を得たと考えられる集団なのである。ただその実態の解明は、バチカンの文書館にある無数の史料の解読を待つほかない。

参考文献
迫害された移民の経済史 ヨーロッパ覇権、影の主役』玉木俊明(河出書房新社 2022年)