井山弘幸

井山弘幸

アボリジニの壁画(ロックアート)。オーストラリアのカカドゥ国立公園には古代の壁画群が残されている。1990年代撮影。

(写真:佐藤秀明

単線的な物語がもたらす理解の狭隘化

昨今、あらゆる業界で用いられている「ナラティブアプローチ」だが、ここには落とし穴が潜む。物語は人びとに魔法をかけ、世界の見方をあらかた支配してしまう。魔法にかけられていることにハッと気がつくと、世界はまた違った見え方がしてくるものだ。数ある物語の魔法のなかで「単線的な語り」が、われわれの知るという行為を如何に制約してしまうかをみてみよう。

Updated by Hiroyuki Iyama on June, 23, 2022, 9:00 am JST

お伽噺のほとんどが単線的である 

「わらしべ長者」は誰でも一度は聞いたことがある。『宇治拾遺物語』巻七の「長谷寺参籠の男、利生に預かる事」が原話の一つだが、さまざまな伝承や異本があるし、絵本やアニメにもなっている。それでも、物語には共通する筋立てがある。天涯孤独で無一文の男が寺の御堂で寝ていると、夢枕に立った観音様から御告げを受ける。「初めに触ったものを、大事に持って旅に出なさい」と教えられ、これを忠実に守る。最初に手に触れたのが藁一本で、これが縁で長者にまでのぼりつめる成功譚だ。物語は一本道である。つぎからつぎへと交換を繰り返す……かのように見える。藁しべの先にアブを結びつけて歩いていると、泣き止まぬ子供に所望され、替りに母親から蜜柑を貰う。ついで喉の渇いた商人に蜜柑を譲り、上等の反物を受け取る。更に進むと愛馬を急病で失った侍に出会い、後始末に残った従者に反物を渡し瀕死の馬を引き取る。ここで馬が死ねば元の木阿弥だが、水を遣ると馬は蘇生し、男は馬に乗り旅を続け、最後に立派な門構えの屋敷にたどりつく。屋敷の主人は、男の馬を借りて旅に出立する。暫くの間、屋敷の留守を頼まれたが、家主は帰ってこずにとうとう男のものとなった。めでたし、めでたし。一つ一つの交換行為が成立する条件は異なるが、この話の単線的な筋立ては明らかだ。

一本道ではあるが結末までに至る道筋は正反対の、もう一つの同型寓話と較べてみよう。グリム童話のなかでも謎めいた物語「幸福なハンス」(Hans im Glück)である。
奉公に出ていたハンスは、年季が明けて里帰りする。親方から給金の金塊を授かる。本国ドイツでの給金は分からないけれど、江戸時代の商家の奉公人の年収が百万円はあったらしいから、見習いとはいえ、ハンスは七年分で数百万円相当の金塊を貰った計算になろうか。ハンスの頭と同じくらいの重さだとされている。とにかく重たい。わらしべ長者と同様に旅の途次、会う者の言われるがまま、惜しみもなく不等価交換を繰り返していく。最初は馬と交換し、乗ろうとしたが振り落とされ、牝牛と交換。喉が乾いて乳を絞ってみたら乳は出ず。痛がる牝牛に頭を蹴られ、嫌気が差して豚と換えてしまう。良い交換をしたと喜ぶハンスにその豚は盗まれたものだと指摘する男が現れ、男のもっていた鵞鳥と取り替える。そして最終場面。ハンスは、これまでの経緯を洗いざらい研ぎ屋の男に話してしまう。研ぎ屋は砥石さえあればいつでも儲かると説諭し、路傍の石を拾ってハンスに渡し、替りに鵞鳥をせしめる。ここの件(くだり)はかなり気の毒だ。聞いていて腹が立つ子供もいるだろう。井戸で水を飲もうとして、とうとう石ころに変わり果てた「給金」を落としてしまう。それでもハンスは幸福だった。めでたし、めでたし。

ニューヨークのバス
ニューヨークのバスの中にて。当時はどこまで乗っても25セントだった。1969年撮影。

絵本作家ヤーノシュの『大人のためのグリム童話』では、ハンスを迎えた母親が、息子の一連の取引を「さすがわが息子」と褒めたたえているし、ドイツの哲学者ルートヴィヒ・マルクーゼは『幸福の哲学』のなかで、古今の哲学者の幸福思想を差し置いて、もっとも優れた幸福思想だと激賞している。わらしべ長者の分かりやすい成功物語とくらべると、確かに謎めいた寓話だし、交換と所有という観点からも一考を要する作品であることは間違いないのだが、一見正反対に見えるこの二つの物語は、単線的構造 single-track structure をもつことで類似している。どちらも、一本の因果の鎖をたどるように起承転結する。実際のところほとんどの昔話やお伽話の類いは単線的であるため、当たり前すぎてこの構造の特異性は気づきにくいのである。ところが、単線的構造の物語の自明性は、もっと広い視野のもとで眺めれば、疑わしいことが容易に分かる。

語られない無数の物語を無視していいのか

わらしべ長者の登場人物については、アブつきの藁を蜜柑と取り換えた母子は、どこからやってきたのか。なぜ高価な果実を礼としたのか。異本では、子供でなく長者の娘で、アブが縁となって結婚へと急展開する話もある。馬を借りて屋敷の留守を任せた武士の急用は何だったのか。歴史の一コマならば、この武士の行く末こそ物語るべきではないか。政変でもあったのかと考えてしまう。

幸福のハンスを騙した研ぎ屋は神罰を受けなかったのか。仲間にハンスのことを嘲る言葉を吐いたりしないか。博物学者のリンネのように、神罰のカタログを書き残す者もいたわけだし。それに、そもそも世間知に長けていないハンスに、親方はなぜ金塊を渡したのか。老婆心からこと細かく旅の心得を諭そうとは思わなかったのか。

こうした脇役 side-player たちの物語は「それはまた別の話」とされ読者に知られることはないし、そもそもサイドプレイヤーである理由も明確ではない。現実であれ架空であれ、事態は重層的 multi-layered である。あらゆる可能性を秘めた事象の複合体を、強引に貫き通し作られた一本の道が、単線的な物語なのである。ピンスポットの当たらない影の領域には、語られぬ無数の物語がひっそりと横たわっている。

単線的構造の問題は物語の発端にある

語り継がれた出来事の系列と言えば、創世神話はもっとも古い部類に属するだろう。大地を象(かたど)る巨人が解体していく神話と、造物主デミウルゴス Δημιουργός の手になる天地創造の二つの類型があるなか、創造主をおく「創世記」の記述は天地創造の偉業を語り、アダムからイエスに至る悠久の系譜を伝える。アッシャー大司教は1654年にこの記録を忠実に遡って、天地創造の年代を B.C.4004年10月22日とした。もちろん、事実として受け入れた上での計算である。これは創世物語が単線的構造を持つからできることである。ところどころ枝分かれのある系図ではあるけれど、イエスの父親ヨセフはアブラハムから数えて42代目、ダヴィデからだと28代目にあたる。単線的構造の問題は、物語の発端にある。ものの始源を語るときに、その限界が露呈するからである。

天地創造の六日目。神は人類の祖先アダムとエヴァを創造する。知恵の実を食べたため楽園から追放された二人は夫婦となり、二人の男児を得る。長男がカインで次男がアベル。ところが聖書には人類最初の殺人が語られている。カインは嫉妬心からアベルを殺し、神の怒りを買い放浪の身となる。このくだりを読んだ者は、不安に襲われる。せっかくの人類創世なのに、殺されたアベルに、追放されたカイン。老夫婦の寿命がつきれば、はや絶滅は確実である。だがそうはならない。やがて三男が生まれ、セツと名づけられる。セツから数えて八代目がノアだ。さらに「創世記」第四章には、カインの末裔が語られているではないか。

かくして正統のセツと呪われたカインの系統があるわけだが、何かおかしい。エヴァ以外に女性がいないのに、どうして子孫を殖やせるのか。雌の単為生殖やクローン出産はありうることだが、雄ではいたし方ない。ところが、カインはエデンの東にあるノデの地に棲みつき、妻を娶る。そしてエノクという子をもうけるのである。エノクの母親あるいはその一族は、天地創造の六日間にすでに存在したと言うのか。どこにも書いていない。もちろん、セツの妻の記述もない。単線的な物語では、同時多発を語れない。創造主がノデにエヴァ以外の女性を創造したのだとしても、語りの性質上、枝分かれの記述が容易でない。

二次元の広がりをもつ絵画は同時に進行する物語を表現できる

物語は、文字を綴る以外にも表現する手だてがある。音楽と絵画である。システィーナ礼拝堂の天上画は1508年から1512年にかけてミケランジェロが描いたものだが、その中にアダムの創造がある。神と思しき老人の右手の指先が、今にもアダムの左手の指に触れそうだ。神の背後には天使が描かれている。もしミケランジェロがノデにおける女性の創造を気にかけていたならば、天使の代わりにすでに創造し終わった女性を描きこむこともできた。二次元の広がりをもつ絵画は、同時進行の物語を語れるのである。正確には同時でなくとも、時間の前後はあっても、一連の事象を俯瞰するように描くことができる。

音楽は、ポリフォニーが複線あるいは多重の楽音の進行を可能にする。スコア譜がまさにそれで、声部の一つひとつは単線的に展開するが、和声と対位法の韻律にしたがい、物語の全体の厚みのある再現が可能である。1798年に初演されたハイドンのオラトリオ「天地創造」。ソプラノ、テノール、バスに混声四部、管楽器八種、弦楽器五種に打楽器と通奏低音からなる。第23曲が人間の創造であり、複数の女性の誕生を言祝ごうと思えば、それを謳う声部はいくらだってある。実際にハイドンがそうしたわけではないが、あくまでも可能性の領域においての話である。

科学者の立てる単線的な仮説は、多くの補助仮設に支えられている

宇宙物理学の創世論でも、似たような単線的な語り口が踏襲されている。ワインバーグの『宇宙創世はじめの三分間』など、宇宙開闢の仮説を物理学者はさまざまに語る。厳めしい相対論とか出てくるから、さぞかし科学的に厳密な話かと思いきや、いくつかの過去の重要な発見を覚束ない論理の糸でつなぎあわせただけの、人格神の登場しない殺風景な創世神話となっている。根拠となる論料は赤方偏移 red-shift と宇宙背景放射 cosmic background radiation でどちらも世紀を代表する大発見だったが、この二つの知見から宇宙創世を得るには、多くの補助仮説が必要となる。大胆だが未証明の条件を設定しなければならない。赤方偏移は光がドップラー効果を生み出していることの証拠とされ、宇宙全体がハッブル=ルメートルの法則にしたがって遠のいていること。つまりあたかも大爆発の後の「爆風」で四散しているかのように見える。時間を逆行させればビッグバンの起点に戻ってくる。正確に言えば、ピンポイントで特異な一点に収斂することを証明するだけの、正確無比で十分なデータがあるわけではない。実にアバウトな推論だ。つまり、全ての物質が一点に集まり高エネルギー密度の宇宙の卵となる、という仮説を立てたにすぎない。

宇宙背景放射は、ビッグバンのかなり有力な証拠とされる。百億年以上昔の大爆発のエネルギーの残響のようなもので、宇宙どの方角からも特定の波長のマイクロ波が観測される。もちろんこの有力な証拠にしても、論理学で言うところの後件肯定の虚偽 fallacy of affirming the consequent を犯している。「ビッグバンが起きれば、全方位に電磁波が放射される。全方位に電磁波が放射されている。故に、ビッグバンが起きた」。論理的には虚偽ではあるが、正しいこともある。賭をするようなものだ。科学者の立てる仮説には、このタイプのものが多い。

説明しきれない宇宙のはじまりの物語は敵陣に押し付けられた

さて、1992年にインディペンデント紙で発表された扇形図 How the universe began には、簡潔な宇宙創世物語が語られている。
最初、すべての物質とエネルギーは一点に集中していた。この高密度の時空間がビッグバンを起こし、時間と空間が発生した。1秒後以内に宇宙は膨張して急激に冷え、数兆度から数十億度にまで下がる。この時点で宇宙は、陽子と中性子と電子からなり、すべてが光の海に浸されていた。数分後、陽子は他の粒子と反応してヘリウムになり、次第に他の軽い原子核を形成する。宇宙に存在する水素とヘリウムの存在比率は、これでほぼ決定される。(今日の観測と一致する)。三十万年後に温度が十分に下がり、電子の速度が落ちて原子核に捕獲されて、原子を形成するようになる。ようやく周囲に邪魔されなくなった光は直進できるようになり、自由に放散される。この光の波長が、宇宙背景放射のマイクロ波なのである。途中は割愛するが、かくして百億年経過して現在の宇宙となる。めでたし、めでたし、とは書いていないが。どこか殺伐とした印象を受ける。ビッグバン理論の提唱者ガモフがこれ以前に物語った宇宙創世の方が、まだなじみやすい。ガモフは創造主を加えた。

 初めに神は放射とアイレムを創造された。アイレムは形も数もなく、核子は深淵の面(おもて)にあって、気が狂ったよう走り回っていた。
 神は言われた。「質量2あれ」こうして質量2があった。神は重水素を見て、良しとされた。
 神は言われた。「質量3あれ」こうして質量3があった。神は三重水素を見て、良しとされた。
 神は番号を呼び続け、ついに超ウラン元素まできた。神はお造りになったものをご覧になったが、まるで良くなかった。番号を数えるのに夢中になって、神は質量5を呼び損ない、当然ながら、それ以上の元素は形成できなかったからだ。神はたいそうがっかりされて、宇宙をもう一度縮ませ、最初からやり直そうかとお考えになった。しかしそれは余りにも安易だ。そこで全能なる神は、自らの間違いをもっとも困難な方法で修正することにした。
 神は言われた。「ホイルあれ!」こうしてホイルがあった。神はホイルを見て、好きな方法で重い元素をつくりなさいと言われた。(以下略)

アイレム(ylem)とは古代ギリシャのアリストテレスの言葉で、ここでは超高温、超高密度の粒子からなる、あらゆる物質の根源となる始源物質と考えられている。生命の起源の原始スープに似ている。こう書いてみると、科学と言うよりほとんど魔術の世界だ。ホイルは物理学者だが、実はビッグバン理論に反対して、定常宇宙論(つまり物語のない、始源をもたない世界)を考えていた。「ホイルあれ!」は18世紀の詩人アレキサンダー・ポープ の詩のなかの「ニュートンあれ!」をもじったもの。
 Nature and nature’s laws lay hid in night.
 God said “Let Newton be” and all was light. 
ポープはニュートンの古典力学の体系を「創造の原理」と捉え、創造の六日以降の世界の運行は彼の定めた法則に従えばよいと解釈した。ガモフは自説に反論したホイルを担ぎ上げて、宇宙創世の仕事を押しつけたのである。

霊長類のルーツは本当に一つか

このように物語作者であれ、科学者であれ、ものの始源を語るとなると、単線的な構造は避けられない。ビッグバンは宇宙の特異な一点で起きる。他でも似たような事件が起きたりしない。アンドロメダ銀河やマゼラン星雲が別の機会に生まれた、とは考えないのだ。すべてが唯一の根源から発する、という単線的物語は、このような複数の起源の物語を排除してしまう。

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ロライマ山頂からの眺め。テーブルマウンテンの山裾に雲がたなびく。

霊長類の起源についても「単線的思考」の支配が強く、実に不思議な物語が綴られている。ことの発端は、最古の霊長類の化石が発見である。2021年2月24日付のRoyal Society Open Science掲載の論文によると、調査した歯のいくつかは新種と判明。プルガトリウス・マッキーベリ Purgatorius mckeeveriと名付けられた。この動物は、現在の霊長類の先駆者の小型の哺乳類で、約6590万年前に生息。恐竜などの大量絶滅後も生存。こうした初期の霊長類の仲間は、ゴリラ、チンパンジーなどの大型類人猿、そして最終的にはヒトへとつながるサルの系譜を生み出した、と言う。問題はここからだ。化石を発掘した場所は北米モンタナ州。サルの先祖プルガトリウスは約5500万年前に、当時地続きのユーラシア大陸に渡る。以後、北アメリカ大陸は砂漠化してサルの子孫は絶える。ユーラシアからアフリカ大陸まで移動した霊長類は、約3400万年前までに真猿類に進化するが、更なる過酷な気候変動のため、一千万年前までにヨーロッパのサルはすべて消滅してしまう。かくして生き残った類人猿は、アジアのオランウータンにテナガザル、アフリカ東部のチンパンジーおよびボノボ、アフリカ西部のゴリラ、後にヒトへと進化するグループとなる。以上が原始霊長類の西進物語である。

ところが、有名な人類の旅グレート・ジャーニーを思い出そう。ヒトの祖先ホモ・サピエンスが、アフリカ東部の大地溝帯の草原に約13万年前に出現する。そして約9万年前にヨーロッパ方面と、アジア経由でアメリカ大陸への悠久の旅に出る。氷の回廊を通ってアメリカに到達したのは約1万2600年前と言われる。(以上、年代については諸説ある)。

不思議な話と冒頭で書いた理由はお分かり頂けるだろうか。霊長類の起源と、このホモ・サピエンスの大移動とをつなぎ合わせると、サルの祖先からヒトへの進化の物語は、北米に始まり、アフリカまで移動し、かなり時間が経過してから、今度はシベリア経由で北米へと戻ってゆく。まるで秀吉の「中国大返し」じゃないか、とかけ離れたツッコミを入れたくなる。古人類学の事情を知らない素人からすれば、なぜ北米に誕生した初期霊長類はそのまま居残るか、あるいは温暖な気候を求めて南下しなかったのか。そしてアマゾンの密林地帯でやがて類人猿、猿人、原人を経て新人類にまで進化しなかったのか。なぜ遠路はるばるアフリカまで行って、立派な体格を得てから里帰りするような面倒なことをしたのか。答えは「化石が見つからない」からだ。プルガトリウスから類人猿、原人へと変異してゆく過程の化石がまったく出土していない。化石の不在をすなわち絶滅と考えるのは仮説にすぎないのではないか、と思うけれど、それよりも、人類誕生までの物語を、アフリカ篇とアメリカ篇の二つ綴ることへの禁忌が働いているのではないか。単線物語は唯一つでなければならないからだ。

文学作品や神話あるいは人類史のなかの単線的語りの背後には、物語の成り行きに大きく関わっているにもかかわらず語られぬ暗部が存在すること。語り落ちが不可避であること。こうした問題点を指摘したが、それでもこの語り口は簡潔で分かりやすいが故に、世界を読み解くツールとして今なお強い影響力をもっている。

参考文献
『幸福の哲学』ルートヴィヒ・マルクーゼ 藤川芳朗訳(白水社 1977年)
大人のためのグリム童話』ヤーノシュ 池田香代子訳(宝島社 1994年)
神罰』カール・フォン・リンネ ヴォルフ・レペニース編 小川さくえ訳(法政大学出版局 1995年)
神話としての創世記』エドマンド・ロナルド・リーチ 江河徹訳(紀伊国屋書店 1980年)
宇宙創成』サイモン・シン 青木薫訳(新潮社 2009年)
『宇宙創世はじめの三分間』スティーヴン・ワインバーグ 小尾信彌訳(ダイヤモンド社 1977年)
宇宙はこうして始まりこう終わりを告げる 疾風怒濤の宇宙論研究』デニス・オーヴァバイ 鳥居祥二ほか訳(白揚社 2000年)
人類20万年 遙かなる旅路』アリス・ロバーツ 野中香方子訳(文藝春秋 2016年)
The Sleepwalkers: A History of Man’s Changing Vision of the Universe Arthur Koestler(Penguine Books 1959年)