暮沢剛巳

暮沢剛巳

新宿の映画館。人気キャラクターの姿を写真を収める観光客も多い。

(写真:image_vulture / shutterstock

ウルトラマンを大阪万博で紐解く

新たな映画が公開されたことで再び注目が集まっているウルトラマンや仮面ライダーだが、この2大ヒーローには日本社会を映し出すさまざまな要素が隠されている。補助線となるのは大阪万博だ。

Updated by Takemi Kuresawa on July, 8, 2022, 9:00 am JST

ウルトラマンと仮面ライダーには大阪万博にちなんだエピソードがある

特撮は日本が世界に誇る文化の1つと言ってよいが、その長い歴史を通じて生まれてきた多くのヒーローの双璧がウルトラマンと仮面ライダーであることは、大多数の読者が認めるところであろう。両者はともに誕生から50年以上の長寿コンテンツであり、日本のサブカルチャーシーンに絶大な影響を与える一方で、21世紀の現在も継続的に新作が作られ、新しいファンを生み出し続けている。最近では、庵野秀明による両者の意欲的なリメークが記憶に新しい。

片や空飛ぶ宇宙人、片やバイクにまたがる改造人間。片や身長40メートルに達する巨人、片や等身大。片や怪獣や侵略宇宙人と、片や世界征服を目論む悪の秘密結社と戦い、片やベータカプセルによって、かたやベルトによって変身するといった具合に、両者には様々な違いがあるのだが、実は両者には、どちらにも大阪万博にちなんだエピソードが存在するという意外な共通点がある。ウルトラマンと仮面ライダーにとっての大阪万博とは何であったのか。本稿の目的は、ウルトラマンと仮面ライダーの当該エピソードのなかで大阪万博がどのように描かれていたのかを確認し、対比して違いを浮かび上がらせることによって、大阪万博とは、ひいては万国博覧会とは何であったのかを再考するきっかけとすることにある。

生け捕りにしたゴモラザウルスの生体展示を試みる

まず、ウルトラマンから見ていこう。ウルトラマンに大阪万博が登場するのは、第26・27話の「怪獣殿下」(1967年1月8日、15日放送)という前後編のエピソードである。その概要は以下の通り。

阪神大学の中谷教授は、南海のジョンストン島で1億5千万年前のゴモラザウルスの化石を調査していたが、偶然生きたゴモラザウルスを発見したため、急遽これを生け捕りにして大阪万博に生きたまま展示することを思いつく。協力要請を受けた科特隊は、生け捕りにしたゴモラに麻酔をかけて大阪まで空輸するが、途中で麻酔が切れて暴れたゴモラが六甲山に落下し、本来の凶暴性を取り戻す。地中を移動したゴモラは千里丘陵に出現し、迎撃しようとしたウルトラマンをしっぽの一撃で打ちのめして姿を消す。その後、大阪市内に出現したゴモラは科特隊によってしっぽを切り落とされて逃走、3度目に出現した時は大阪城を破壊するが、その直後に再度ウルトラマンと交戦、今度はしっぽを失っていたために歯が立たず、角を折られた上にスペシウム光線を浴びて絶命する。大阪万博には、ゴモラのはく製が展示されることになった。ちなみにタイトルの「怪獣殿下」とは、物語のキーを握る怪獣好きの少年のことを指す。

調布飛行場の滑走路を見下ろす二人
調布飛行場の滑走路を見下ろす二人。空には月が出ていた。2021年撮影。

このエピソードが放映された1967年1月の時点で、大阪万博は開催こそ決定していたものの、詳細はまだまだ未定の部分が多かった。大阪万博の会場計画が具体化するのは、多くの関係者が同年4月に開幕したモントリオール万博を視察して以降のことである。当然、画面の中に万博会場は一切登場しないが、前編の途中には会場の図面が映るシーンがあり、「古代館」という架空のパビリオンへの言及がなされるなど、スタッフの想像力によって補われた情報が挿入されている。

またこのエピソードを見て驚くのが、ゴモラが一度はウルトラマンを退けていることだ。ウルトラマンの敗北というと、何といっても最終話のゼットン戦が有名だが、実はこのゴモラ戦を初黒星と見なせないわけではなく、また1話完結が基本であったウルトラマンで、このエピソードは全39話中唯一の前後編と、通常の2倍の尺で描かれている。ゴモラのデザインは成田亨、造形は高山良策と、いずれもウルトラ怪獣を語る上で欠かせない2人が担当している。真偽は定かではないが、ゴモラの名はゴジラ、モスラ、ラドンの3頭の頭文字から取られたという説があるなど、ここにもスタッフの強い思い入れが感じられる。

大阪城や千里ニュータウンが映し出されるわけ

加えて、「怪獣殿下」は、大阪を舞台とした初のエピソードである。場所を特定できないエピソードもあるものの、ウルトラマンが怪獣や宇宙人と戦う場所は東京が圧倒的に多く、なかには国立競技場(第19話「悪魔はふたたび」/アボラスとバニラ)や代々木競技場(第23話「故郷は地球」/ジャミラ)など、終了して間もなかった東京オリンピックの会場が舞台となったエピソードもあった。大阪万博を舞台とした「怪獣殿下」は、これらのエピソードとの対で、ウルトラマンの大阪初登場を飾るべく企画されたのかもしれない。このエピソードでは、ゴモラが大阪のランドマークである大阪城を破壊する場面が描かれるほか(前年に公開された映画「大怪獣決闘 ガメラvsバルゴン」では、通天閣が倒される場面が登場するが、さすがにその二番煎じは避けたのであろう)、千里ニュータウンと思しき団地が登場するなど、大阪万博を強く意識した演出が散見される。

キングコングから引き継がれた「南から連れてこられる」という設定

それにしても、南海の孤島で見つけた怪物を見世物にするために大都会に連れてくる、という設定には強い既視感がある。「キングコング」である。1933年に公開されて大ヒットを記録した「キングコング」は、見世物にするために南海の孤島「髑髏島」からニューヨークへと連れてこられた巨猿キングコングが、途中で逃げ出し美女をさらって大暴れするものの、最後は銃撃を受けてエンパイアステートビルから落下し、息絶える物語である。

この作品に人一倍強いインパクトを受けたのが、ちょうどこの年日活太秦撮影所に入所し、映画監督としての一歩を踏み出した円谷英二であった。封切りに先駆けて「キングコング」のフィルムを入手した円谷は、ルーペで1コマずつフィルムを観察し、当時最先端のストップ・アニメーションで制作されたコングの動きを徹底的に分析したという逸話がある。その思い入れは、後年大ヒットした「ゴジラ」シリーズにキングコングを客演させたこと(「キングコングvsゴジラ」)や、コング主役の「キングコングの逆襲」の特技監督を務めたことからもうかがい知れる。東宝が自社作品にキングコングを出演させるために権利所有者のRKOに支払ったギャラは、当時の金額で8000万円とも言われる。テレビシリーズであったウルトラマンにキングコングを出演させることはかなわなかったが、南海の孤島から都会へと連れてこられた怪物が大暴れするというゴモラの設定は、明らかにキングコングから引き継がれたものであろう。

万博が持っていた「南」の意味

一方で「南」という舞台装置は、実は万博ともなじみ深い。万博が誕生した19世紀後半、万博を率先して開催していたイギリスとフランスはいずれも広大な海外植民地を所有しており、「南」に位置する植民地の「原始人」や珍獣の展示は初期の万博の大きな目玉の1つであった。いくつか見てみよう。

1889年のパリ万博は、シャン・デ・マルス地区とトロカデロ地区の間の約40ヘクタールの土地を活用して、多くのパビリオンが林立するなど、大規模な植民地展示が行われた。ここでは、アジアやアフリカの先住民を現地の住宅を模したパビリオンに居住させ、それを観客の見世物とする一種の生態展示が行われたのだ。現在パリのランドマークとしてなじみ深いエッフェル塔は、この年の万博に合わせて建設された。最新技術の粋を尽くして建てられた塔の下に広がる会場で行われたこの展示は、先進的な西洋文明とアジア・アフリカの「未開」や「野蛮」の露骨な対比の基に成立していた。

同じくパリのヴァンセンヌでは、1931年には国際植民地博覧会が開催された。名前の通り、博覧会場では、カンボジアのアンコール・ワット寺院やマリのジェンネ・モスクが実物大で再現され、開会式にはベトナムの踊り子、セネガルの村人や職人、アラブ人騎兵など多くの「原住民」が登場、会場では葬送行列やラクダレースなどの催しが連日繰り広げられたという。

同種の展示は、実は日本でも行われたことがある。明治期の日本では、内国勧業博覧会という殖産興業を目的とした博覧会が5回に渡って開催されたが、1903年に大阪で開かれた5回目の博覧会には、「学術人類館」というパビリオンが設けられ、アイヌ、台湾高山族、琉球人、朝鮮、清、ベンガル、トルコ、アフリカなど総計32名の人々に民族衣装を着せ、一定の区画内に住まわせる日常生活を見せる「生態展示」を行い、清と沖縄から強い抗議を受けることになった。

果ては「人間動物園」の開設に及ぶ

南海の孤島で生け捕りにしたキングコングを都会に連れ帰って見世物にしようという発想は、明らかにこれらの万博と同類のものであろう。第2次世界大戦からしばらく経過した1958年のブリュッセル万博で、ホスト国のベルギーは海外植民地ザイール(現コンゴ民主共和国)から連れてきた多くの男女を展示する「人間動物園」を開設して物議を醸した。アジア・アフリカ諸国が相次いで独立したこともあり、これを最後に万博における植民地展示は姿を消すのだが、この植民地展示に100万人もの観客が詰めかけたというエピソードは、そうした展示が多くの観客の好奇心を刺激したことを物語っている。相対的に観客の視線が成熟していた欧米ですらそうだったのだから、まだ万博を開催した経験のなかった日本の観客の好奇心は推して知るべしであろう。「キングコング」の設定がRKOの許可を取得して制作された「キングコングvsゴジラ」(62年)でも反復されたことも、さらに5年後のゴモラで再現されたことにも、そうした植民地的想像力の一端を伺うことができる。そういえば、ゴジラもまた南洋上の核実験がきっかけで誕生した怪獣であったし、「モスラvsゴジラ」「南海の大決闘」「怪獣島の決戦」など、ゴジラシリーズの多くは南海の洋上や孤島を舞台としていた。怪獣と「南」とは切っても切れない関係にあると言えようか。

戦意高揚映画を作っていたころから独自の撮影技術を研究していた円谷英二

もちろん、ゴモラの背景にあるのはキングコングへの思い入れだけではない。監修という立場でウルトラマンの世界観に関与していた円谷英二は、戦時中に戦意高揚映画の制作に携わり、太平洋上の戦闘場面を数多く撮影した経験があり、ゴモラのエピソードには、そうした経験も多々注ぎ込まれているからだ。

1933年に日活に入社した円谷英二は、翌年にJOトーキー(現在の東宝)に移籍、連合艦隊の練習艦「浅間」に乗艦し、練習生たちの実習風景を記録したドキュメンタリー映画「赤道を越えて」で監督デビューを飾り、翌1936年にはナチス・ドイツのヨゼフ・ゲッペルス宣伝相の指示で制作された日独合作映画「新しき土」で、独自に研究したスクリーンプロセス(合成技術の一種)でミニチュアセットによる天変地異を演出して、ドイツの映画スタッフを驚かせた。1937年に東宝が設立されて以降は、独自の撮影技術の研究に打ち込む一方、もともと飛行士志望だったこともあり多くの飛行機映画の撮影に関与、太平洋戦争が勃発してからは「ハワイ・マレー沖海戦」や「加藤隼戦闘隊」など多くの戦意高揚映画の撮影に携わった。残念ながら資料的な裏付けは得られなかったが、同時期の満洲映画における映像実験にも強い関心を持っていた可能性がある。

南太平洋のグリーンフラッシュ
南太平洋のグリーンフラッシュ。赤い太陽が沈む瞬間、緑色の光を放つ。2003年撮影。

戦後は公職追放処分を受けたこともあり、一時期現場を離れるものの、1952年に東宝に復帰してからはまた精力的に映画製作に携わるようになり、1954年の「ゴジラ」の記録的大成功を機に多くの怪獣映画を製作、日本初の「特技監督」として確固たる地位を築き、1963年には円谷プロダクションを設立してテレビ界にも進出、ウルトラシリーズなど多くのテレビ番組を世に送る一方で、古巣の東宝でも多くのSF映画や怪獣映画、戦争映画の特撮に関わり続けた。万博直前の時期にも「太平洋上奇跡の作戦 キスカ」「ゼロ・ファイター大空戦」「連合艦隊司令長官 山本五十六」など、太平洋上を舞台とした戦争映画の特撮に関わるなど、晩年に至るまで円谷の意識が「南」に向いていたことは間違いなく、その射程は、戦後生まれの子どもが主な視聴者であったウルトラマンにも及んでいたのである。

「南」を淵源としつつ、万博では「日本の自然と日本人の夢」を描いた円谷

一方で円谷は、全く別の形で大阪万博に関わることになった。1967年の夏、円谷はモントリオール万博を視察している。同博は「映像の万博」と呼ばれ、多くのパビリオンで当時最先端の技術を駆使した様々な映像が上映されたが、それらを見た円谷は大いに刺激を受けたことだろう。この時すでに三菱未来館の映像演出を請け負っていた円谷は、帰国後に他の仕事と並行してその構想を練り、万博本番では「日本の自然と日本人の夢」をテーマとした火山活動や、未来の海底牧場をテーマとした映像を上映(音楽は、ゴジラでもコンビを組んだ伊福部昭である)。360度の映像を視界に映し出す「サークロマ映像方式」が大きな話題となり、三菱未来館は企業パビリオンのなかでも最高の動員を記録した。結果的に遺作となったこの仕事は、円谷の特撮映像の集大成と言ってもよいだろう。「南」を淵源とする円谷の想像力は、「日本の自然と日本人の夢」といういたってオーソドックスなテーマへと回帰していったのである。

日米安保条約に例えられ続けてきたウルトラマンと沖縄

ところで、円谷英二と万博の関係はここで終わるが、ウルトラマンと万博の関係にはさらに続く後日譚がある。大阪万博から5年後の1975年、本土復帰して間もない沖縄で沖縄海洋博が開催された。「海―その望ましい未来」をテーマとしたこの特別博で会場の構成演出を担当したのが、ウルトラマンのメイン脚本家であり、円谷プロを退社後に故郷の沖縄へと帰郷していた金城哲夫であり、またこの博覧会で上映された映画「藤戸」の監督を務めたのが、TBS所属の演出家としてウルトラマンに関わっていた実相寺昭雄であった。

ナレーションなどでしばしば「地球の平和」を守ることが強調されるウルトラマンだが、怪獣や宇宙人が来襲するのはなぜか日本だけであり、実態として守っているのは「日本の平和」である。そもそも、宇宙人であるウルトラマンには地球=日本を守る義理など一切ないはずなのに、彼は何の見返りもなしに粛々と怪獣や宇宙人を退治してくれる。ウルトラマンと地球人=日本人の関係はいたって片務的なものであり、それゆえしばしば日米安保条約にたとえられ、賛否両論を呼んできた。最新作の「シン・ウルトラマン」にまで深く浸透しているこのアナロジーは、メイン脚本家だった金城が沖縄出身の琉球ナショナリストであったことに由来している。他方「故郷は地球」や「怪獣墓場」などの内省的なエピソードを演出したことで知られている実相寺は、TBS退社後には劇映画監督やオペラ演出家としても十分な実績を上げた人物であった。ウルトラマンが単なる怪獣退治の物語にとどまらなかったのはこの2人の貢献による部分も大きかったのだが、果たして彼らは円谷から何を継承し、また何を独自に展開したのだろうか。残念ながら今はまだその用意がないが、いつの日か彼らが沖縄海洋博で為したことの意味を考えてみたいものである。

仮面ライダーについては、次回詳しく解説する。

参考文献
ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』福嶋亮大(PLANETS 2018年)
ユリイカ』2021年10月号 特集=円谷英二(青土社 2021年)
虚構の時代の果て』大澤真幸(筑摩書房 2009年)