小松原織香

小松原織香

「魔女の宅急便」(1989)より。

(写真:スタジオジブリ / StudioGhibli

成熟した人間は、他人の助けを上手に借りて、人間関係のなかで生きていくことを楽しめる

宮崎駿の作品の根底にあるテーマを炙り出していくシリーズ第5弾。今回は『魔女の宅急便』に見える「少女の成熟」を紐解いていく。

Updated by Orika Komatsubara on August, 9, 2022, 5:00 am JST

バブル真っ只中で公開された「魔女の宅急便」は女性たちへのエールだった

映画「魔女の宅急便」(1989年)は、空前のバブル景気(1986-1991年)のまっただなかで公開された。日本の人々は浮かれ、華やかな消費社会が花開いていた。1985年には男女雇用機会均等法が制定され、女性の社会進出が声高に叫ばれ、フェミニズムが経済的自立をうたった。その渦中で宮崎駿は、物質的豊かさだけではなく、精神的自立の支えとなるような、若い女性のための物語が必要だと考えた。そのため、主人公のキキは、地方から都会に出てきて職を得て、飛躍しようとする女性たちと重ねられている(宮崎駿『出発点』徳間書店、1996年)。魔女たちのすむ小さな田舎町から大都市に出てきたキキが、宅急便屋さんになるべく悪戦苦闘して成功を目指す姿は、都会で居場所を見つけようともがく女性たちへのエールでもあった。

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「魔女の宅急便」(1989)より

物語の冒頭で、キキは魔女になるための修行の一環として、若くして生まれ故郷を離れることになる。キキの母親は、年配の女性に「あの歳で独り立ちなんて、今の世には合いませんわ」とぼやいている。母親自身も若い頃に今住んでいる場所に降り立ち、生活基盤を作ってきた。そのしきたりを理解しながらも、魔女として今ひとつ技術の身につかない娘・キキを心配している。それに対し、年配の女性が「時代のせいですよ。なにもかも変わってしまう」ととりなしている。キキのほうは希望に胸を膨らませており、母親の小言もまともに聞いていない。「キキ、形にそんなにこだわらないの。大切なのは心よ」と忠言されても、「わかってるわ、心の方はまかしといて。お見せできなくて残念だわ」と生意気に言い返す。「笑顔を忘れずにね」と言われても、キキはそんなことはわかってます、という顔をしている。母親の古いほうきを持たされもブツブツ言い、下手くそな飛行で木にぶつかりながら飛び出しても、明るい未来で頭がいっぱいだ。両親や地元の人々に愛され、見送られ、キキは旅立つのである。

自立したてのタイミングでは何もかもがうまくいかない。オソノさんに商売を学ぶまでは

ところが、故郷をあとにするとキキは心細くなっていく。飛行中に、先に魔女の修行を始めた女の子に出会い、特技はあるのかと聞かれる。「いえ、いろいろ考えてはいるんですけど」と答えてみるものの、生活の糧を稼ぐあてはない。海の見える都会の町に住むと決めたが、飛行中に警察官に捕まりそうになるわ、未成年でホテルに泊まれないわで、なにもうまくいかない。意気消沈して、お弁当のサンドイッチを食べる気力もなくなってしまった。相棒の黒猫のジジに「別の街をさがそうよ。大きくてもっといい街があるよ、きっと」と言われて、黙り込んでしまう。両親や地元の人々に守られて、安穏に暮らしてきた楽天家の少女は、現実に直面するとすぐに落ち込み、立ち行かなくなるのである。事態が好転するのは、パン屋のオソノさんとの出会いからだ。キキがオソノさんに「この街の方は魔女がお好きじゃないみたいですね」と弱音を吐くと、彼女は「大きな街だからね、いろんな人がいるさ。でも、あたしはあんたが気に入ったよ」と言ってくれる。そのうえ、寝床まで提供してくれた。オソノさんの助けもあり、キキは町の宅急便屋さんとしてビジネスをスタートする。

この作品の興味深いところを二点に絞って考察しよう。第一に、キキは雇用されている労働者ではなく、自営業者であることだ。キキを助けるオソノさんもまた、地域のパン屋さんを切り盛りする自営業者である。彼女は、キキに「奥さん」と呼ばれると大笑いをして、「パン屋のオソノ」であると名乗る。キキが開業するときにも、最初に常連客がつくまでが大変だからと言って、電話や部屋を貸すから初期投資を最低限にするようにアドバイスしている。そして、パン屋の客にキキの宅配サービスを紹介して、仕事をまわしてくれる。こうした自営業者同士の実務に関するビジネススキルの伝授がこの映画では描かれている。

商いとは何か、その苦しみと喜び

また、オソノさんは一貫して、一方的に助ける関係ではなく、対価による交換の関係を築こうとする。最初に彼女がキキを家のなかに招き入れるのは、キキが常連客に届け物をしてくれたお礼である。部屋や電話を貸すのは、パン屋の手伝いによる労働と引き換えである。キキが近くまで歩いて荷物を運ぶときにお金を受け取るのを断ろうとすると、「だめよ、仕事は仕事」と諌める。彼女は一貫して、サービスは対価を得て提供すべきだと考えている。それに対して、キキはもっと甘く、ぼんやりと商売について考えている。

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「魔女の宅急便」(1989)より。

その象徴が、「ニシンとカボチャのパイ」のエピソードだ。キキは老婦人の家を訪れる。老婦人は、孫娘のパーティーのためにニシンとカボチャのパイを届けようと思っていたが、オーブンが壊れて焼けなかった。老婦人はキキに、直前に宅配のキャンセルをすることになるので、料金を払おうとする。だが、キキは「お金だけもらえないよ」と思い、料理を手伝う。彼女は、宅配業者の業務を超えて老婦人を助け、暴風雨のなかをほうきで空を飛んで、焼き上がったパイを老婦人の孫娘のもとに届けた。しかし、肝心の孫娘は少しも喜ばず、荷物を受け取ると「あたし、このパイ嫌いなのよね」とそっけなくいい、キキの鼻先でバタンとドアを閉める。キキは、その孫娘の態度にショックを受ける。
この場面について、宮崎は次のように語っている。

(前略)老婦人のパイを届けたときに、女の子から冷たくあしらわれてしまうんですけど、宅急便の仕事をするというのは、ああいう目にあうことなんですから。特にひどい目にあったわけじゃあなくてね、ああいうことを経験するのが仕事なんです。
僕はそう思いますし、キキはあそこで自分の甘さを思い知らされたんです。当然、感謝してくれるだろうと思い込んでいたのが……違うんですよ。お金をもらったから運ばなきゃいけないんです。もし、そこでいい人に出会えたなら、それは幸せなことだと思わなくちゃ……。別に映画ではそこまでは言ってませんけどね(笑)。(宮崎、1996年、前掲書、512-513頁)

また、宮崎はパイを受け取った孫娘の口ぶりについて、このように述べている。

(前略)僕はあのパーティーの女の子が出てきたときのしゃべり方が気に入ってますけどね。あれは嘘をついてない、正直な言い方なんですよ。本当にいやなんですよ、要らないっていうのに、またおばあちゃんが料理を送ってきて、みたいな。ああいうことは世間にはよくあることでしょ。それはあの場合、キキにとってはショッキングですごくダメージになることかもしれないけど、そうやって呑み下していかなければいけないことも、この世の中にはいっぱいあるわけですから(同書、513頁)。

確かに、視聴者はキキの立場から映画を観るので、老婦人の想いやキキの働き、どれだけ一生懸命に頑張ってきたのかを知っている。しかしながら、孫娘の立場であれば、そのような頑張りは頼んでもいないサービスである。そのすれ違いにがっかりしてしまうキキは、職業人としてはお門違いな期待を抱いていたということになる。それでは、キキは最小限の仕事だけで対価を得ることに専念すればいいのだろうか? しかしながら、のちに老婦人はキキのお得意様になり、個人的にケーキまでプレゼントしてくれた。そのとき、キキは涙ぐみ、心から喜んでいる。ニシンのパイのエピソードは青臭い新人の失敗談ではあるが、それこそが彼女に良い縁をもたらしてくれたのだ。個人で自営業を頑張る日々の楽しみと苦悩が、この映画には詰まっている。

働くことは、一足早く大人に近づくこと

第二に、大人になることの肯定的なメッセージが込められていることだ。故郷でのキキは楽天家で、友人も多く、愛される子どもだった。ところが、都会に出てくると人々とのすれ違いで、笑顔を失い、憂鬱そうな表情も見せ始める。楽しそうな若い女の子たちがおしゃれをしているのをみると羨ましい。でも、収入も十分にないので着飾ることもできず、昔ながらの魔女の黒服を着るしかない。食料品を買うので精一杯で、小麦粉と卵でホットケーキを焼いて、節約生活をしている。そんな彼女に、しつこく絡んでくるのが町の男の子・トンボだ。トンボは飛行クラブで人力飛行機を作っていて、ほうきで空を飛ぶキキに無邪気に近づいてくる。キキは、最初は邪険にしていたが、だんだんと彼のことが気になり始める。しかし、おそらく裕福な家の出身のトンボは、仲間たちと車で遊び歩いていて、キキはそこに距離も感じている。

ある日、キキとトンボは飛行船を見にいくことにした。二人で自転車に乗って坂道を飛ばしていると、初めてキキは彼に打ち解けて、親しみを感じ始める。トンボが自分も魔女に生まれてほうきで飛びたかったと言うと、キキは「私のは仕事だもん。楽しいことばかりじゃないわ」と言ってみせる。それでもトンボに「そうかなあ。才能活かした仕事だろ? すてきだよ」と褒められると、やぶさかではない表情を見せ、「私、ちょっと自信をなくしてたの。でもここへきて良かった。海を見てると元気になれそう」と返すと、彼は「よかったら、いつでも連れてきてやるよ。訓練をかねてね」と答える。「トンボっていい人ね」と言い、二人の関係は深まりそうに見えた。ところが、トンボが仲間と飛行船のなかを見せてもらえることになり、キキも誘われたが急にツンケンしてしまう。そのまま自分の部屋に帰ると自己嫌悪に陥り、こんなふうに呟く。

私ってどうかしてる? せっかく友達ができたのに、急に憎らしくなっちゃう。素直で明るいキキはどこかへ行っちゃったみたい

このときの、トンボに対するキキの態度は明らかにおかしい。キキは、トンボや仲間たちとは違って、一足先に仕事に就いて大人になりつつある。そのことに誇りを持ち始めてもいるが、周りが気楽そうに遊ぶ様子をみると、勝手に疎外感を持つ。自分でもコントロールしきれない気持ちに、本人も戸惑っているのだ。しかし、鈍感なトンボにはキキのそんな複雑な感情の機微は読み取れない。キキはひとりで落ち込み始める。魔法の力も弱まり、相棒のジジの言葉も聞き取れなくなり、空も飛べなくなってしまった。挙句に母親からもらったほうきも折れてしまう。彼女はオソノさんに「私、修行中の身なんです。魔法がなくなったら、私、なんの取り柄もなくなっちゃう」と口走り、大ピンチに陥る。

宝であり、枷でもある。才能がもたらす不条理

そんなキキを助けてくれるのは、画家のウルスラである。彼女は年上の女性として、自分の経験に引きつけながら、魔法が使えなくなったキキの話を聞いてくれる。ウルスラは「魔法も絵も似てるんだね。私もよく描けなくなるよ」と語る。キキが「ほんと? そういうときどうするの?」「あたし、前は何も考えなくても飛べたの。でも今はどうやって飛べたのかわからなくなっちゃった」と尋ねると、彼女は「そういうときはジタバタするしかないよ。描いて描いて、描きまくる」と答えた。さらにキキが「やっぱり飛べなかったら?」と聞くと、「描くのをやめる。散歩をしたり、景色を見たり。昼寝したり。なにもしない。そのうちに、急に描きたくなるんだよ」と答える。その話を聞いてキキは「なるかしら?」と不安げだが、ウルスラは「なるさ」と明るく言い切った。キキはその言葉に従うように、ウルスラの家で湖を一緒に眺めたり、料理をしたりして日常をともに楽しむ。

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「魔女の宅急便」(1989)より。

ウルスラはキキに対して、自分自身の在り方について思い悩むことを肯定している。キキ自身は明るく素直な自分を失ったことに落ち込んでいるのに、彼女は「あんたの顔いいよ、この前よりずっといい顔してる」と言う。キキの悩みはまさに思春期の葛藤だ。周囲と自分を比べて一喜一憂し、激しい感情に襲われ、迷いなくできていたことが、急に不安になったり、手や足が止まったりして、身動きができなくなる。それは、アイデンティティを確立するための発達心理上に必要な葛藤でもある。キキとウルスラは寝床でこんな会話をする。

「私さぁ、キキくらいのときに絵描きになろうってきめたの。絵描くの、楽しくってさ。寝るのが惜しいくらいだったんだよ。それがねえ。ある日、全然描けなくなっちゃった。描いても描いても気に入らないの。それまでの絵がだれかの真似だってわかったんだよ。どこかで見たことがあるってね。自分の絵を描かなきゃって」
「苦しかった?」
「それは今もおなじ。でもね。そのあと、少し前より絵を描くってこと、わかったみたい」
「魔法ってさ、呪文を唱えるんじゃないんだね」
「うん、血で飛ぶんだって」
「魔女の血か。いいね。私、そういうの好きよ。魔女の血、絵描きの血、パン職人の血。神様から誰かがくれた力なんだよね。おかげで苦労もするけどさ」

ここで「血」と言われているものは、「才能」と呼ばれるもののことだろう。キキもウルスラも、若くして、「魔女」や「画家」のように自分の進む道を決めた。それは、自分の「なりたい」という気持ちもあろうが、誰かから与えられた才能がある(と本人が判断した)からだ。才能があることは、宝物を持っていて特別な道に進めることである。同時に、たとえそれがうまくいかなくなっても、そこから逃れられない枷でもある。客観的な技術を向上させるための努力をするだけではなく、ほかの人にはできない自己表現にたどり着かなくてはならない。その過程で、ときに人はなぜか上手くいかなくなって、あがけども浮上できない時期がある。二人の会話は、そうした不条理な葛藤について描き出している。

自立することとは、大きな目標を達成することではなく、浮き沈みのある人生を受け入れること

この場面は、宮崎の考える「少女にとっての成熟」とは何かがよく表れている。宮崎は、キキの物語はハッピーエンドで終わるのではなく、これから彼女が何回も落ち込み、それでも這い上がりながら生きていくことを示唆している(宮崎、1996年、前掲書)。彼は「商売がうまくいくようになったから、あるいは町のアイドルになったからめでたしめでたしで終わるんじゃなくてね。落ち込んだり元気になったりをくりかえしていくんだろうなと……。とにかく職業成功物語にしては絶対にいけないと、それは初めから気をつけていたことです(同書、512頁)」と語っている。つまり、宮崎は自立することとは、なにか大きな目標を達成することではなく、浮き沈みのある人生を受け入れることである。彼は次のようにも述べる。

まわりの人に助けてもらって、ね。本人が気づいていないうちに、ですけど。キキにとっていちばん大事なことは、商売がうまくいくとかいかないかとかじゃなくて(もちろんそれも大事にはちがいないけど)いかに自分一人でいろいろな人と出会えるかってことでしょ。ホウキに乗ってネコ連れて空を飛んでるうちは、自由ですよ。人から距離をとっているわけですから。でも、町に住むってことは、つまり修行するってことは、もっとあからさまな自分になって、つまりキキで言えばホウキも持たず、ネコも連れずに一人で町を平気で歩けてね、人と話ができる。そういうふうになれるかどうかなんですよ(同書、515頁)。

宮崎にとっての少女の自立とは、人間関係のなかにある自己を確立することである。それは、自分の才能を信じて、自分の殻に閉じこもることでもなければ、他人と比べて一喜一憂して、自分を見失うことでもない。成熟した人間は、他人の助けを上手に借りて、人間関係のなかで生きていくことを楽しめるのである。宮崎は、映画「魔女の宅急便」を通して、うまく人を頼ることのできない若者たちや、かつての自分自身を思い浮かべながら、大人になることへの肯定的なメッセージを送っているのである。

物語の主人公が明るい美少女でなかったならば……?

そういう意味では、映画「魔女の宅急便」はオプティミズムに満ちている。もちろん、バブル景気の最中という時代背景はあれども、どこまでもハッピーな世界観が貫かれている。キキは感情の揺れ動きはあるものの、いつも誰か善き人が助けてくれる。両親に愛され、可愛らしく才能に溢れた若い女の子である。みんなが、彼女の力になってくれる。その物語が説得力を持つのは、アニメーションのなかでキキが美少女として描かれていることも大きいのではないか。物語の登場人物も、視聴者も、溌剌として表情豊かな彼女を愛さずにはいられない。

その裏を返せば、キキが美少女でなければこんな物語は成立しないのではないか、という疑念が湧いてくる。素直で明るくて可愛いキキ。では、卑屈で根暗で美しくない女の子が主役だったら……? その疑問の答えになるのが、映画「ハウルの動く城」(2004)である。この作品は、すでにバブルが崩壊した21世紀初頭に製作された。主人公は、自分を醜いと感じ、いつも暗く沈んだ表情で労働に励んでいる。さらに、彼女は老婆になる呪いにかかってしまった。キキとは正反対のような主人公を、宮崎はどのように描くのだろうか。次回は映画「ハウルの動く城」を取り上げたい。

参考文献
出発点』宮崎駿(徳間書店 1996年)

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