莫大な軍事支出に耐えたからこそ、イギリスはリーダーシップを握ることができた
戦争のための出費が膨大になり、17〜18世紀のヨーロッパで、国家支出に占める戦費の比率が急激に上昇した。この時代のヨーロ ッパ諸国を形容するに際し、もっとも適切な用語はおそらく「財政=軍事国家」であろう。
「財政=軍事国家」とは、その語のとおり、国家財政に占める軍事費の割合が非常に高い国家のことであり、具体的には18世紀のイギリスを意味した。戦時においては、イギリスの国家予算に占める戦費の割合は60パーセントを超えていた。1710年においては、国民所得に占めるイギリスの軍事費は9パーセントであったが、1760年になると14パーセントにまで上昇したのである。
もともと「財政=軍事国家」は、1989年にイギリス史家ジョン・ブリュアの著書『権力の腱』(大久保桂子訳『財政=軍事国家の衝撃』名古屋大学出版会、2003年)によって提唱されたものであり、現在では近世のヨーロッパ諸国を表す用語として、広く使用されるようになった。それは、国家予算に占める軍事費の支出が増えるのは、なにもイギリスにかぎられた話ではなかったからである。
しばしば忘れられるが、ブリュアの議論が出現したのも、ヨーロッパ的規模での財政史研究の発展があったからである。かつてシュンペーターが喝破したように、「財政需要がなければ、近代国家創成への直接要因は存在しなかった」とすれば、財政史研究こそ、近代国家形成の研究といえるのである。
イギリスが「財政=軍事国家」として存在しえたのは、莫大な軍事支出に耐えることができたからである。「軍事革命」で最大の成功を収めた国は、イギリスだったといえよう。「軍事革命」は近世のヨーロッパ全体におよんだ現象であった。そして「軍事革命」によっ て各国の軍事支出が急速に増大した。ここから考えるなら、ヨーロッパ諸国が「財政=軍事国家」となり、そのなかでイギリスが最大の成功を収め、やがて大英帝国を形成したのである。イギリスがヨーロッパでもっとも成功した「財政=軍事国家」となったこと自体に、他のヨーロッパ諸国以上に帝国主義時代にリーダーシップを握りえた理由の一つが隠されていると考えるのが当然であろう。
戦費の調達こそがヨーロッパ諸国の課題だった
17世紀の段階から、ヨーロッパ諸国は絶え間ない戦争のため、軍事費が大きく上昇していた。
けれども、17世紀の戦争は、18世紀の戦争ほどには「財政=軍事国家」形成のうえで大きなインパクトは与えなかった。
近代ヨーロッパ世界の大きな特徴の一つに、ヨーロッパ外世界への進出があった。むろんそれは大航海時代以来、現代に至るまでかなりの長期間続いたわけであり、本格的な拡大は19世紀後半の帝国主義時代のことであった。
しかし軍事史から見れば、18世紀は、ヨーロッパ外世界でヨーロッパ人が初めて戦争をおこなった点で、それまでとの決定的な相違点があった。そのため、戦費はうなぎのぼりに上昇した。戦費の調達こそ18世紀ヨーロッパの諸国家が直面した課題であった。それはヨーロッパ内部で戦争をしていた17世紀とはまったく違う規模の衝撃を、ヨーロッパ諸国に与えたのである。
99年の長期債や奢侈品の消費税……優れた借金返済システムや税収の設計で差をつけたイギリス
イギリスの政府が肥大化した理由は、戦費調達にあった。フランスとの戦争を遂行するために第二次百年戦争(長い18世紀)のあいだに、数多くの戦争をしなければならなかったのである。
しかしイギリスとフランスの二国の財政を比較すると、少なくともイギリスの方が明らかにすぐれていたようには思われない。1788年の時点においてさえ、イギリス政府は名目GNPの約1.8倍の借金をしていたといわれる。実際、18世紀においては、戦争のたびに巨額の借金をしている。イギリス国民人あたりの税負担は、フランスよりずっと大きかった。イギリスは、いったいどのようにして借金を返済していったのだろうか。
イギリスは借金漬けの財政状態にあったが、フランスとの戦争に勝ち抜き、やがて覇権国家となった。それは、いったいどうしてなのか。
1721年にウォルポールが首相になると、南海泡沫事件の後始末のためにも、イングランド銀行が国債を発行し、その返済を議会が保証するファンディング・システムを形成するようになった。現実に議会の信用がどこまであったのかはわからないとはいえ、イギリスが、安定して国債を発行する基盤を形成したことは間違いないであろう。
戦争中に借金をして、それを平時に返していくというファンディング・システムがうまく機能していたからにほかならない。しかもイギリスは、たとえば99年で償還する国債などの長期債を発行した。これはイギリスの財政に安定性をもたらした。
イギリスよりも早く財政システムの発展があったオランダは、国債ではなく各州が公債を発行し、しかもその公債は長期債ではなく短期債であり、何度も借り換えることで流通した。したがって財政の安定性はイギリスよりも劣っていたと考えられる。明らかにイギリスは、オランダよりも進んだ借金返済システムを考案したのだ。
イギリス財政がフランス財政と比べてすぐれていた点は、マサイアスとオブライエンの共同執筆論文によって明らかにされた。18世紀においてイギリス財政は主として間接税に依存していたのに対し、フランスは直接税の比率が高かった。もう少し詳しく述べると、イギリスは間接税のなかでも、とくに消費税による税収を高めていったのである。
イギリスの税金は、主として奢侈品にかけられた。それは需要の所得弾力性が高く、経済成長率よりも税収の伸びの方が大きな商品である。そのためイギリスは経済成長によって税収が増加し、借金を返済することができたのである。
それに対し直接税(ほとんどが地租)が税収の中心であるフランスでは、経済成長があっ ても税収は増えず、財政が破綻状態に至ったのである。
それでもオランダの金融ノウハウにイギリスは歯が立たなかった
イギリスで南海会社が1711年に創設されたのは、スペイン継承戦争(1701~13年)によって1600万4000ポンドから5300万7000ポンドへと拡大した債務を、政府が返済するためであった。南海会社は、スペイン帝国との貿易を独占することからえられる利益、そして政府の国債を購入する代わりに、年間56万6543ポンドにものぼる政府年金を手に入れることからえられる利益を期待して設立された。南海会社の株価は急速に上昇する。1720年にはイギリスの公債を南海会社が引き受けることになり、ますます株価は上昇するが、たちまちのうちに低下することになる。このときにバブルが弾けたのである。
1720年5月頃に、南海会社の株価の法定平価は約5倍に急上昇した。その理由の一つは、オランダ人が南海会社に投資したことにある。また、彼らはロンドンのシティの金融業者とともに南海会社の株を高値で売り、その利益をより安全なイングランド銀行に投資した。また1694年のイングランド銀行設立には、オランダ人の力が働いていた。
オランダ人は、彼らがもっている情報量の多さと質の良さ、ロンドンのシティとの緊密な関係のために、このようにうまく立ち回り巨額の利益をえたのである。結局、オランダの金融ノウハウに、イギリスは歯が立たなかったということであろう。オランダは金融の先進国であった。
さらにロンドンとアムステルダムの結びつきは、2週間に一度、郵便船がロンドンからアムステルダムに向かっていたことからも明ら かである。
同じようなシステムを用いても「保証なし」のフランスは失敗し続けた
オランダ資金は、南海泡沫事件以降イギリスに急速に流入した。ここで注意しておかなければならないのは、それ以前には、フランスにも大量に流入していたことである。しかしフランスでジョン・ローのシステムが失敗すると、フランスへのオランダ資金流入はほとんどなくなる。
スコットランド人ジョン・ローは、南海会社と同様なシステムを考え、フランスに適用しようとしたのである。ジョン・ローのシステムとは、増大する財政赤字を解消することを目的として王立銀行が銀行券を発行し、これを特権貿易会社であるミシシッピ会社が引き受けて政府に貸付をし、政府はその資金を元手に財政支出やそれまでの債務の償還をおこなうものであった。そのためミシシッピ会社は、大量の国債を引き受けることになった。
ローは、それに加えて不換紙幣を発行している。これを受けてミシシッピ会社の株価は一時的に急騰することになるが、すぐに急落しこのシステムは崩壊してしまうのである。
このように、フランスにおけるジョン・ローのシステムの崩壊は、イギリスにおける南海泡沫事件と似ていた。フランスはミシシッピ会社が、イギリスは南海会社が国債の購入を引き受けたのである。決定的な違いは、フランスは不換紙幣を発行したのに対し、イギリスは金本位制にとどまり続けた点にある。
フランス政府が発行した不換紙幣は、フランスに大きなインフレをもたらした。ジョン・ローのシステムの崩壊はフランスに、南海泡沫事件はイギリスに暗い影を投げかけたが、イギリスはこのショックから立ち直ったのに対し、フランスはそれに失敗した。
このような相違の理由の一つとして、イギリスではファンディング・システムにより議会が国債の償還を保証したのに対し、絶対王政下のフランスでは、そのような保証が欠如していたことがあげられることが多い。少なくともイギリスと比較して、フランスは国家財政の基盤は脆弱であったことはたしかである。
さらに南海泡沫事件以降、オランダ資金はフランスではなくイギリスに向かうようになった。
したがって、イギリスは南海泡沫事件があったからこそ、イングランド銀行を中心に財政制度が一本化され経済発展ができたと考えられるのである。それはまた、フランスではなくイギリスに投資する誘因となったはずである。イギリスのファンディング・システムは、やはり有効に機能したのだ。
18世紀のイギリスは、大西洋貿易の発達に代表される「商業革命」を経験した。そのためには、為替決済シス テムの洗練などは不可避であった。この時代のイギリスは、経済史的にも商業と金融の「二重革命」の時代であったということができよう。それにはオランダ資金と、オランダ商業のノウハウが必要だったのである。イギリス政府は経済活動に介入し、経済成長に大きく貢献したのだ。
*この本文は2022年9月30日発売『手数料と物流の経済全史』(東洋経済新報社)の一部を抜粋し、ModernTimesにて若干の編集を加えたものです。