ザッカーバーグが夢見た、共感しあえる幸せな世界
レフ・トルストイは芸術、なかでも自分の芸術形態である物語芸術を「人々の気持ちを一つにし、生きるうえでも個人および人類の幸福をめざす進歩のためにも不可欠な、人と人を結ぶ手段」として称賛した。
その100年後に、マーク・ザッカーバーグが同じような夢に熱中した。フェイスブックがハーヴァード大学の女子学生を魅力度で格付けする手段として、学生寮のザッカーバーグの部屋で立ち上げられたことは悪い意味で有名だ。しかし数年後、この幼稚で失礼なテクノロジーは改善され、家族や友人の橋渡しをするテクノロジーとして生まれ変わった。まもな く、ザッカーバーグは自分のサイトについてあからさまに理想主義的な言葉で語り始めた。フェイスブックが一つのウェブで全人類をつないで、物語、思想、感情を共有できるようにすることで、私たちは互いに共感できるようになり、かつての偏見や誤解がなくなり、それとともに調和と幸せが世の中に満ちていくはずだと。

この中でザッカーバーグが表明していたのはトルストイの見解だけでなく、マーシャル・マクルーハンの「グローバル・ヴィレッジ〔地球村〕」の21世紀版でもあった。マクルーハンはマスメディア――ラジオ、映画、テレビ、電送される活字情報――という驚くべき新テクノロジーが世界中の市民に同じ価値観と物語を浸透させ、全員を一つの人間集団にまとめると述べた。
そし てしばらくの間、何千万人もの人々が日常的に同じテレビドラマを観て、ラジオで同じニュースや歌を聴き、同じ映画の前に座っていた放送メディアの最盛期には、マクルーハンの描いたヴィジョンが実証されるかに思われた。同じマスメディアを消費することで、私たちは両極端からその中間に引き寄せられた。そのため、放送メディア時代のストーリーテリングは恐るべき画一化のテクノロジーであると多方面、特に左派の知識人たちから非難された。とりわけテレビは人々をゾンビ化し洗脳して中流白人の慣習に染めると言われた。批判した人々の懸念が間違っていたわけではない。彼らにはそれに取って代わるテクノロジーが輪をかけて悪質である可能性を見抜けなかったのだ。
ストーリーバース:個人仕様版の現実
放送メディア最盛期でさえ、私たちは同じバーチャルな村に住んではいなかった。しかし同じ普遍的な「ストーリーバース」の中に住んでいて、そこから抜け出すのは難しかった。「ストーリーバース」とは私の造語で、子供時代に枕元で聞いたお話からネットフリックス、インスタグラム、ケーブルテレビのニュース、礼拝の場で聞く説教まで、あらゆるメディアで私たちが消費する物語が作り出した、心と感情と想像の中の空間を指す。ストーリーバースは「現実」ではなく、個人仕様版の現実だ。このストーリーバースの法律はひとかたまりのマスター・ナラティブ(たった一つのこともある)によって定められることが多い。これが、暗号化されたデータを元に戻す復号キーのように、私たちが周囲の世界をどう理解するかを決めている。