玉木俊明

玉木俊明

中国やタジキスタンにまたがるパミール高原。その名は「世界の屋根」を意味するとされる。

(写真:佐藤秀明

中国を衰退させた、貢物という毒

ヨーロッパは近代に大きく発展し、産業革命を経て世界をリードした。そのときの影響は未だ根強く残り、ヨーロッパ諸国は経済大国でありつづけている。では、そのころ高度な文明をもつ大国であったはずの中国は何をしていたのか。なぜ中国は覇権を握ることができなかったのか。中国が強国にならなかったのは、ドメスティックに最適化していたことがその理由のようである。

Updated by Toshiaki Tamaki on September, 15, 2022, 5:00 am JST

アジアが近代の主役になれなかった理由

15世紀末には、ヨーロッパは明らかに他地域への進出に積極的になった。ヨーロッパの対外進出はますます目立つようになり、それは主として海上ルートによるものであった。しかしアジアがヨーロッパに進出することはなく、アジアはヨーロッパと比較すると後退していったのである。
15世紀末にポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインド洋に到来したとき、東南アジアの海を駆け巡っていた中国の帆船のジャンク船は500~600トンもある大きな船だった。それはポルトガル船よりも大型であった。ところが1600年頃になるとジャンク船は小型化し、200トンを超えるものはほとんど姿を消してしまったのである。
もし明が海禁政策をとっていなければ、ヴァスコ・ダ・ガマが15世紀末インド洋に到着したとき、明はその地で強大な勢力を誇っていたはずだ。そのためポルトガルもそう簡単にアジアで領土を拡大することはできなかったと考えられる。明の海禁政策がポルトガルやオランダのアジア進出を容易にしたのである。

オーストラリア、ダーウィンの海
オーストラリア、ダーウィンの海。

その後のアジアとヨーロッパの発展に大きな相違が生まれるのは、海運力で差がついてしまったからにほかならない。ヨーロッパの船舶はアジアに進出していったが、中国の船舶はインド洋や地中海、大西洋に出ていくことを禁じられていたのだ。

貢物を持ってこさせたことが、衰退につながった

朝貢貿易とは、朝貢国が貢物を中国皇帝に献上する代わりに、皇帝からそれをはるかに上回る価値の中国の文物を授けられるというシステムである。朝貢のためにやってくるのは当然中国船ではなく、朝貢国の船となる。したがって貿易を朝貢だけに限定してしまうということは、自国の海上輸送網を衰退させることになり、このことが中国の歴史を大きく転換させることになった。
ただし明代の中国は、穀物の生産が大きく増えたばかりか、長江下流域では養蚕や綿花栽培が盛んになっていた。さらに絹織物や綿織物といった家内制手工業が広がるなど、経済は発展していた。
しかしその後の世界の覇権を握るには、海上輸送の力が必要であった。明代当初は、世界最高の造船技術と航海術をもっていた中国であったが、「朝貢貿易を対外貿易の主軸に据える」という選択をしたため、せっかくの技術をさびつかせ、ヨーロッパ諸国に取り返しがつかないほどの後れをとってしまうことになったのである。

中国が理解していなかった海上貿易の重要性

乾隆帝の時代の1757年には、外国との貿易を広州一港に限定した。むろん、それ以外にも現実には民間貿易や密貿易もあったので簡単にはいえないが、海上ルートでの世界的物流を中国人の手中に収めるという政策はとってこなかった。それは中国にとって大きなマイナスになった。中国政府は、海上貿易の重要性を理解していなかったと思われるのである。
中国の税制は明末には一条鞭法、さらに清代には地丁銀制が導入された。どちらも銀で税金を納入するシステムである。しかし、その銀は中国で産出されたものではなく、新世界、より具体的にはメキシコのアカプルコからスペインのガレオン船によって輸送されたものであった。日本銀もあったが、その重要性は17世紀後半にはかなり薄れた。
清の経済力が他国より強ければ何も問題なかっただろうが、ヨーロッパの経済力が大きく上昇すると、清に銀が流入する要因がなくなってしまった。清の経済システムは中国が他地域よりも明らかに経済力があることを前提としたシステムであり、それが崩れていったにもかかわらず、新しいシステムの構築には成功しなかったことが、中国にとって大きな問題だったと思われる。

対照的なのは、自国の船で商品を輸出しまくったイギリス

もちろんイギリスが産業革命に成功し、工場制生産により綿織物の生産量を大きく伸ばしたのに対し、中国は依然として手工業の段階にとどまっていたことを忘れてはならない。だが、それとともに忘れてはならないのは、ヨーロッパ、とりわけイギリスは自国の船で商品を輸送していたことである。商品は、つくれば売れるというものではない。それを流通させなければ、売れる道理がない。すなわち、イギリスは機械を用いて綿織物を生産しただけではなく、それを世界中に流通するすべを備えていたのである。
すなわちイギリスの勝利は、生産面のみならず、流通面での勝利でもあったのだ。
中国は、少なくとも唐代以降、積極的に海外交易を発展させていった。それが、永楽帝の時代に頂点に達したと考えてよいであろう。しかしその後、中国は海外との交易を発展させず、海禁政策を強めた。しかも、納税のために使用する銀を新世界からスペインのガレオン船によって輸入することで、海運業の発展を止めた。

海外に進出するヨーロッパと、海外発展しない中国という構図は、中国経済の成長に明らかにマイナス要因となった。ヨーロッパの船舶、とくにイギリス船はどんどんとアジアに進出し、アジア域内交易の担い手となっていった。
産業革命を経験し、とくに19世紀末の第二次産業革命によって、有機物ではなく無機物を経済資源の主体とするようになったヨーロッパと、まだ有機物に依存していた中国とでは、経済構造の差は非常に大きかった。工業と流通でヨーロッパよりはるかに遅れていた中国経済は、実質上イギリスに従属するほかなかったのである。

手数料と物流の経済全史

*この本文は2022年9月30日発売『手数料と物流の経済全史』(東洋経済新報社)の一部を抜粋し、ModernTimesにて若干の編集を加えたものです。