井山弘幸

井山弘幸

1980年代の多摩川。二子玉川にて。

(写真:佐藤秀明

「はかる」ことから考える、データの弱点

科学知識のもととなるデータの多くは《はかる》ことで得られる。「測る」「計る」「量る」「衡る」そして「秤る」のように、計量するものや手段によって表記は異なるが、それでも人は《はかる》ことでこの世界を知ろうとする。だが《はかる》ことで世界を正確に知ることはできるのだろうか。

Updated by Hiroyuki Iyama on December, 2, 2022, 5:00 am JST

測定には隠れた仮定が存在する

《はかる》には手段が必要となる。そのことは詩人も分かっていた。T.S.エリオットの詩「J・アルフレッド・プルフロックの恋歌」The Love Song of J. Alfred Prufrock の中の有名な一節――。

For I have known them all already, known them all:
Have known the evenings, mornings, afternoons,
I have measured out my life with coffee spoons;

と言うのも、すべてのことをもう知ってしまったのだ
夕も朝も午後も一部始終
人生のことは何もかも珈琲スプーンで計ってしまった

と言うけれど、どうやって計るのか、と誰だって思うだろう。見当がつかない。匙加減で塩梅することはできても、スプーンでは人生はおろか塩分濃度すら分からないだろう。しかしながら、詩人は思ってもみないところで真実を語っている。珈琲スプーンで with coffee spoons と断っているように《はかる》には何か情報を中継する道具が必要となるからだ。そして道具だけでは十分でなく、測定を裏づける仮定や理論的知識も必要となる。

コロナ禍で体温測定は日常茶飯事となったが、珈琲スプーンではなく体温計を脇にはさんで《はかる》。この場合を考えよう。昔懐かしい旧式の水銀温度計を脇に挟むこと3分。取り出してみると銀色の線分は赤く彩られた37℃の目盛まで伸びている。体温は37℃である。ほら確かに測れたではないか。でもよく考えてみよう。貴方が見たのは銀色の線であって、体温ではない。言い方を変えれば、水銀の長さを測ったにすぎない。

アメリカのルート50
アメリカのルート50。アメリカで最も孤独な道と言われている。

では何故水銀の長さの測定で体温が分かるのかと言うと、水銀の長さ(L)と体温(T)は相関関係にあると考えられているからだ。もっと正確に言えば、 T∝Lあるいは T=f(L)=L+c(、cは定数)が根拠となる。すべての温度域でこの関係が成り立たないことはともかくとして、この式が正しいと分かるには、別の方法でTが測定できなければならない。氷水の入った容器に水銀温度計を入れ、下からバーナーで加熱してゆく。沸騰するまでの間、つまり固定点0℃から100℃までの間、水銀はガラス管内で膨張を続けてゆく。加熱時間(t)に比例して温度(T)が上昇するという前提のもとに、体温計の示度が体温だと推論して、目盛りをつけるわけだ。

このように、測定には隠れた仮定が存在する。t とTの関数関係(比例)は前提であって、そのように推論された仮説にすぎない。もし加熱時間に「真の温度」が比例していなければ、たとえば、目盛りの上での35℃と36℃の間と36℃と37℃の間で真の温度幅が異なるのならば、正確な測定はできないことになる。ならば「真の温度」を知る別の方法を求めようとすると、そこにはまた仮定を設けなければならず、堂々巡りを繰り返すことになる。という事情から、温度計の示度Tをあらためて測定温度として定義するしかない。定義であって証明したのではない。

データとはもともと、感覚によって捉えられるものだった

真の温度は仮にあるとしても知り得ないものなので、代わりに体感温度を考えれば、温度計の温度の仮説性が理解しやすい。熱い、ぬるい、冷たいと言った体感は加熱時間との間に単純な比例関係を示さない。これは熱っぽいと思って体温計で測ったら平熱だった、という体験を説明してもいる。暖房した車内を出てビルに入ると、外気に触れたばかりで寒気を感じているのに、温度センサーが37℃を示してびっくりしたりするのだ。

テルモの電子温度計となると、デジタルなデータが提示され、いかにも客観的な測定がなされたかのように錯覚するが、その数値Tは内部の電気抵抗Rとの関数計算から得られたもので、水銀体温計と同じようにT= f (R) から計算された数値が表示される。水銀温度計のように推論の過程が可視化されておらず、観察者の知覚に訴える元の情報は隠されている。隠れた仮定のブラックボックスなのだ。

データには2種類ある。データという用語は分析哲学者のムーアが拵えたもので、本来はsens data 感覚与件のことであった。dataは datumの複数形で、datumは動詞dare (与える) の過去分詞を名詞化したもので「贈物」「与えられたもの」を意味した。この造語の背景には、この世界を知るための基本的な手がかりは何か、という問題があった。二十世紀初頭の経験主義の哲学者は、伝統的に哲学で重宝された理性やイデア、あるいは神の叡知をもちだすことなく、誰もが経験できる、感覚を通してもたらされる情報、与えられた感覚知見=データを重視したのである。

ということは、暑い、寒いの体感温度の方が、すなわち感覚データの方が本来の意味に近い。他方、体温計や赤外線センサーが示す測定データは、視認された示度には、そこに至るまでの過去の実験や受け入れられている理論に基づく推論や仮定が含まれている、という意味で間接的であり、構成された感の強い情報である。一般には、こちらの測定データの方が信頼性が高いとされる。だが、このデータは本当に吟味せずに信じていいものか。

イエス、ノーで答える診断テストは正確か?

境界性パーソナリティー障害の診断テストを例にとろう。このテストは質問に対して被験者がイエス、ノーで答える方式である。一例を挙げると、以下のような質問が全部で79問ある。

Q01. 変わった人だねと言われる。
Q02. 嫌なことを言われたら根に持つ方だ。
Q03. 読まなくなった雑誌でも捨てられずに溜まってしまう。
Q04. おどおどした人を見ているとからかいたくなってくる。
Q05. 霊の存在を身近に感じることがよくある

正規の判断基準DSM-5では各チェックポイントについての判断を医師が行うわけだが、診断結果が該当ポイントの数値で表わされる点は同じである。いずれにしても、患者の脳神経系統を調べたわけでも、医師や患者の主観をまじえない基準があるわけでない。数値が高いほど障害の度合が大きくなる、という仮定に基づく、脆弱な基盤しかもたない。より精密で客観的な分析とされるfMRIによる検査を実行しても、境界性パーソナリティー障害を認定することはできない。可能なら既に行なわれている。これもまた、検査値が障害の程度を定義することに基づいている。

ジェローム・K・ジェロームの「ボートの三人男」の主人公は、医学辞典を調べあげて自分があらゆる病気に罹っていると知り、恐怖を覚える。これは「自分は病気ではない」という実感(感覚データ)と、医学書の記載事項(測定データ)の不一致の喜劇的な例である。

精密器械の測定データであれば信頼できるというわけでもない

アンケート調査や記述的な判断基準ではなく、精密器械による測定データならば信頼できるのだろうか。つぎに嘘発見器を例にとって考えてみよう。

嘘発見器はポリグラフとも呼ばれ、人が本当のことを言っているかどうかを判断できる、とされた機器である。1980年代にはアメリカで200万件の利用が報告された判定方法で、主として警察の取り調べや企業の内部調査に利用された。発明者はレナード・キーラー Leonarde Keelerでキーラー・ポリグラフ(Keeler Polygraph)とも呼ばれる。計測するのは被験者の脈拍、呼吸回数および皮膚の電気電導度だが、とくに後者の数値は生理的な興奮に比例して増大すると考えられ、この変化を見て嘘をついていると判別された。ポリグラフは名前の通りにグラフに記録され、電位の変化が大きいほど振り幅が大きくなる。だが、電位変化が嘘をつくことによる被験者の緊張を表わすかどうかについては、反証も報告されていて、一見したところ客観的で精密に思われるこの測定もまた、隠されたあやふやな仮定に依存するものであることが分かる。

同じポリグラフを用いた荒唐無稽な研究がバクスターによって行なわれている。クリーヴ・バクスター Cleve” Backster, Jr. は1924年生まれのアメリカ人で、CIAの訊問官を務めた後ポリグラフ研究所でキーラーに師事した技術者である。バクスターは人間ではなく植物を相手にポリグラフ測定を行ない、植物には感覚があることを発見し、世界中に衝撃を与えた。たとえば鉢植えのドラセナの木に装置を接続し、そのそばで生きたエビを沸騰した湯のなかに落とした。するとちょうどエビが熱湯に落ちたその時に、ポリグラフの電位変化が起きた。同じ実験をエビではなく単に水を注いだ場合には、変化は起きなかった。

ヨーグルトを食べただけで、乳酸菌が感情的な反応をすることも報告している。ヨーグルトに電極を差し込み、別の容器に入ったヨーグルトをバクスターが食べると、顕著に電位が変わったのだと言う。もっと凄いのはさきほどのドラセナの実験で、彼が「葉を燃やしてやろう」と心に抱いただけで反応があった!誰だって分かることだが、ポリグラフの電位変化よりも、エビやバクスターの行為や心のなかをドラセナや乳酸菌が知覚できたことの方が不思議である。植物の視覚やテレパシーの方が超常現象なのだ。

このイグ・ノーベル賞級の研究は再現実験で確証されなかったにせよ、この事例は、客観的な数値で測定データが示されると、そのことだけで誤って信頼が得られることを物語っている。

結局は、データは読み込むときの仮定と理論がなければ使えない

だからと言って感覚データの方が信頼できる、と言っているわけではない。感覚データにも推論や仮定が含まれていることがあるからだ。芥川龍之介の小品「手巾」の中の一節を読んでみよう。
東京帝国法科大学教授、長谷川謹造先生宅に教え子の母親が訪れ、息子の逝去を伝えるが――

柿取り
柿取りをする人。奥多摩の秋の風景。

 こんな対話を交換してゐる間に、先生は、意外な事実に気がついた。それは、この婦人の態度なり、挙措なりが、少しも自分の息子の死を、語つてゐるらしくないと云ふ事である。眼には、涙もたまつてゐない。声も、平生の通りである。その上、口角には、微笑さへ浮んでゐる。これで、話を聞かずに、外貌だけ見てゐるとしたら、誰でも、この婦人は、家常茶飯事を語つてゐるとしか、思はなかつたのに相違ない。――先生には、これが不思議であつた。

 息子が死んだのになんて冷酷な女人なんだろう、と最初に思ったのは、涙を流さぬ微笑さえ浮かべる相手の様子の観察に基づいている。ところが、である。

 その時、先生の眼には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持つた手が、のつてゐる。勿論これだけでは、発見でも何でもない。が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるへてゐるのに気がついた。ふるへながら、それが感情の激動を強ひて抑へようとするせゐか、膝の上の手巾を、両手で裂かないばかりに緊く、握つてゐるのに気がついた。さうして、最後に、皺くちやになつた絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれてゐるやうに、繍ひとりのある縁を動かしてゐるのに気がついた。――婦人は、顔でこそ笑つてゐたが、実はさつきから、全身で泣いてゐたのである。

長谷川先生が得た第二の感覚データは、強く握られたハンケチであった。それは感情を押し殺す自制の表われであると推論した。だから婦人の抑制の美徳と見たのである。だが話はここで終わらない。西山篤子夫人が帰ってから読みかけのストリンドベルクの演劇論を開くと、そこには「顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂くと云ふ、二重の演技」のことが書かれていた。同じ感覚データを異なる仮定のもとに読み替えたのである。もし婦人を嘘発見器にかけていれば、その電位変化である測定データが得られ、抑制なのか演技なのか決着をつけることができたかもしれないが、その場合でも、心の動きを電位差として検出できる、という仮定のもとにおいてなのである。

データは、日常に得られる感覚データであれ、メディアでは信憑のシンボルとされることのある測定データであれ、そのデータを読み込むときの仮定や科学理論を知らなければ、適切に事実を判断することができない。エリオットの人生を《はかる》珈琲スプーンが無謀に思えたのは、その仮定や理論について皆目見当がつかないからである。

参考文献
プルーフロックの世界 T.S.エリオットの限りなく悩めるもの』遠藤光(春風社 2020年)
ボートの三人男 もちろん犬も』ジェローム・K・ジェローム 小山太一訳(光文社 2018年)
ハインズ博士再び「超科学」をきる 代替医療はイカサマか?』テレンス・ハインズ 井山弘幸訳(化学同人 2011年)
植物は気づいている バクスター氏の不思議な実験』クリーヴ・バクスター 穂積由利子訳(日本教文社 2005年)
芥川龍之介全集』第一巻 芥川龍之介(岩波書店 1995年)
Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Edition, American Psychiatric Association(Amer Psychiatric Pub Inc 2013年)
境界性パーソナリティー障害診断テストの一例:https://crcm.jp/wp-content/uploads/2020/03/cc8f30c9f85a77b88ffc82dde177c381.html