測定には隠れた仮定が存在する
《はかる》には手段が必要となる。そのことは詩人も分かっていた。T.S.エリオットの詩「J・アルフレッド・プルフロックの恋歌」The Love Song of J. Alfred Prufrock の中の有名な一節――。
For I have known them all already, known them all:
Have known the evenings, mornings, afternoons,
I have measured out my life with coffee spoons;
と言うのも、すべてのことをもう知ってしまったのだ
夕も朝も午後も一部始終
人生のことは何もかも珈琲スプーンで計ってしまった
と言うけれど、どうやって計るのか、と誰だって思うだろう。見当がつかない。匙加減で塩梅することは できても、スプーンでは人生はおろか塩分濃度すら分からないだろう。しかしながら、詩人は思ってもみないところで真実を語っている。珈琲スプーンで with coffee spoons と断っているように《はかる》には何か情報を中継する道具が必要となるからだ。そして道具だけでは十分でなく、測定を裏づける仮定や理論的知識も必要となる。
コロナ禍で体温測定は日常茶飯事となったが、珈琲スプーンではなく体温計を脇にはさんで《はかる》。この場合を考えよう。昔懐かしい旧式の水銀温度計を脇に挟むこと3分。取り出してみると銀色の線分は赤く彩られた37℃の目盛まで伸びている。体温は37℃である。ほら確かに測れたではないか。でもよく考えてみよう。貴方が見たのは銀色の線であって、体温ではない。言い方を変えれば、水銀の長さを測ったにすぎない。

では何故水銀の長さの測定で体温が分かるのかと言うと、水銀の長さ(L)と体温(T)は相関関係にあると考えられているからだ。もっと正確に言えば、 T∝Lあるいは T=f(L)=kL+c(k、cは定数)が根拠となる。すべての温度域でこの関係が成り立たないことはともかくとして、この式が正しいと分かるには、別の方法でTが測定できなければならない。氷水の入った容器に水銀温度計を入れ、下からバーナーで加熱してゆく。沸騰するまでの間、つまり固定点0℃から100℃までの間、水銀はガラス管内で膨張を続けてゆく。加熱時間(t)に比例して温度(T)が上昇するという前提のもとに、体温計の示度が体温だと推論して、目盛りをつけるわけだ。
このように、測定には隠れた仮定が存在する。t とTの関数関係(比例)は前提であって、そのように推論された仮説にすぎない。もし加熱時間に「真の温度」が比例していなければ、たとえば、目盛りの上での35℃と36℃の間と36℃と37℃の間で真の温度幅が異なるのならば、正確な測定はできないことになる。ならば「真の温度」を知る別の方法を求めようとすると、そこにはまた仮定を設けなければならず、堂々巡りを繰り返すことになる。という事情から、温度計の示度Tをあらためて測定温度として定義するしかない。定義であって証明したのではない。
データとはもともと、感覚によって捉えられるものだった
真の温度は仮にあるとしても知り得ないものなので、代わりに体感温度を考えれば、温度計の温度の仮説性が理解しやすい。熱い、ぬるい、冷たいと言った体感は加熱時間との間に単純な比例関係を示さない。これは熱っぽいと思って体温計で測ったら平熱だった、という体験を説明してもいる。暖房した車内を出てビルに入ると、外気に触れたばかりで寒気を感じているのに、温度センサーが37℃を示してびっくりしたりするのだ。
テルモの電子温度計となると、デジタルなデータが提示され、いかにも客観的な測定がなされたかのように錯覚するが、その数値Tは内部の電気抵抗Rとの関数計算から得られたもので、水銀体温計と同じようにT= f (R) から計算された数値が表示される。水銀温度計のように推論の過程が可視化されておらず、観察者の知覚に訴える元の情報は隠されている。隠れた仮定のブラックボックスなのだ。
データには2種類ある。データという用語は分析哲学者のムーアが拵えたもので、本来はsens data 感覚与件のことであった。dataは datumの複数形で、datumは動詞dare (与える) の過去分詞を名詞化したもので「贈物」「与えられたもの」を意味した。この造語の背景には、この世界を知るための基本的な手がかりは何か、という問題があった。二十世紀初頭の経験主義の哲学者は、伝統的に哲学で重宝された理性やイデア、あるいは神の叡知をもちだすことなく、誰もが経験できる、感覚を通してもたらされる情報、与えられた感覚知見=データを重視したのである。
ということは、暑い、寒いの体感温度の方が、すなわち感覚データの方が本来の意味に近い。他方、体温計や赤外線センサーが示す測定データは、視認された示度には、そこに至るまでの過去 の実験や受け入れられている理論に基づく推論や仮定が含まれている、という意味で間接的であり、構成された感の強い情報である。一般には、こちらの測定データの方が信頼性が高いとされる。だが、このデータは本当に吟味せずに信じていいものか。
イエス、ノーで答える診断テストは正確か?
境界性パーソナリティー障害の診断テストを例にとろう。このテストは質問に対して被験者がイエス、ノーで答える方式である。一例を挙げると、以下のような質問が全部で79問ある。
Q01. 変わった人だねと言われる。
Q02. 嫌なことを言われたら根に持つ方だ。
Q03. 読まなくなった雑誌でも捨てられずに溜まってしまう。
Q04. おどおどした人を見ているとからかいたくなってくる。
Q05. 霊の存在を身近に感じることがよくある
正規の判断基準DSM-5では各チェックポイントについての判断を医師が行うわけだが、診断結果が該当ポイントの数値で表わされる点は同じである。いずれにしても、患者の脳神経系統を調べたわけでも、医師や患者の主観をまじえない基準があるわけでない。数値が高いほど障害の度合が大きくなる、という仮定に基づく、脆弱な基盤しかもたない。より精密で客観的な分析とされるfMRIによる検査を実行しても、境界性パーソナリティー障害を認定することはできない。可能なら既に行なわれている。これもまた、検査値が障害の程度を定義することに基づいている。