専門家になるということは「自分の分野の訓練がされていない論文が奇妙にみえること」
専門家になるためには、その分野の知識の蓄積機構である「ジャーナル共同体」参入のための訓練をする必要がある。ジャーナル共同体とは、当該分野の専門誌の編集・投稿・査読活動を行う共同体を指す。そしてジャーナル共同体は、科学の知識生産にとって以下の四点において重要である。第一に、科学者によって生産された知識は、信頼ある専門誌にアクセプト(掲載許諾)されることによって、その正しさが保証される(妥当性保証)。第二に、科学者の業績は、専門誌に印刷され、公刊(publish)されることによって評価される(研究者の評価)。第三に、科学者の後進の育成は、専門誌にアクセプトされる論文を書く教育をすることからはじまる(次世代の育成)。第四に、科学者の次の予算獲得と地位獲得は、主に専門誌共同体にアクセプトされた論文の本数と質によって判断される(次の研究のための社会資本の基盤)。このようにジャーナル共同体は、科学的知識生産における品質の保証、評価、後進の育成、予算獲得の各側面で大きな役割を果たす。この共同体に参入するための訓練とは、共同体の査読者に掲載許諾(アクセプト)される論文を書く訓練である。この訓練に成功すると、その分野の問題設定がその研究者にとっての暗黙の前提となる。そして研究者が何本かの論文を掲載して査読者になった暁には、自らの経験に基づいて後続の論文を同様に指導するようになる。その結果、当該共同体の訓練のない論文はますます奇妙に見えるようになり、問題設定が分野の常識からずれているように見えるようになる。その分野の常識にあった書き方がなされていなければ、論文は掲載拒否(リジェクト)される。この繰り返しによって専門分化はますます進行する。査読システムによって、専門分化への正のフィードバックがかかるのである。
このように、専門家になるということは、「自分の分野の訓練がされていない論文が奇妙にみえること」と同義である。村上氏が指摘するように、「学問において、一つの領域に沈潜することは、往々にして、他の領域に心を開く余裕を失わせる」。しかし、その領域の限界を越えて他分野と協力しなければ、現代社会の問題を解決したり、一般のひとの「知りたい」に答えたりすることはできないのである。
異分野摩擦が起きる理由
専門家になると同時に他分野とも協力するためには何が必要なのだろうか。村上氏は別の場所で、「既成・既存の学問枠に捉われることなく、教条主義的にルーティン化された学問への道をしりぞけ」「固定観念をほぐして柔軟さを取り戻し、ときにはまだ存在さえしていない学問の可能性を探ろうとする、そのような知を営むこと」の必要性を説く。ここで必要となるのが、自らの専門と、それ以外の分野の問題設定との間の「往復」なのである。
それでは、なぜ専門分野が異なると往復が難しくなり、他の分野のひとと意見があわないのだろうか。意見があわない原因は、先にも述べたようにジャーナル共同体において専門分化の正のフィードバックがかかるためであり、その専門分化によって専門分野ごとの妥当性要求の違いが研究者に内化されるためである。より詳しくみていこう。
ジャーナル共同体の査読システムは、当該ジャーナルにおける知識の審判機構を果たす。査読者および編集者の判断により、ある論文群は掲載許可(アクセプト)となり、ある論文群は掲載拒否(リジェクト)される。査読者と編集者の判断という行為の積み重ねの結果、各ジャーナル共同体の境界というものが形成される。拒否された論文はその境界の外にあり、受理された論文はその境界の内側にある。この境界を妥当性境界とよぼう。この境界の基準は、明文化されているわけではない。また、確固たる境界が最初からあるわけではなく、査読者・編集者の諾否の判断の積み重ねとして形成される。このようにジャーナル共同体によって集団的に形成された境界は、ふだんは意識されないが、ある研究者が他の境界に属するひと、あるいはその分野における素人と出会って、「何か問題の立て方が、語彙が、研究のしかたが違う」と思ったときに、急に意識されるようになる。そのように意識されたとき、異分野摩擦(専門分野が異なると意見があわない)がおこる。村上氏が上で「固定観念をほぐして 柔軟さを取り戻し」というとき、これは自らの属する専門分野の妥当性境界を相対化することを意味する。異なる妥当性境界間の往復こそが柔軟性の意味である。
異分野摩擦はリベラルアーツへの出発点
異分野交流論の授業では、制度の壁や専門の壁を往復してもらい、異なる価値をもつ他者と出会うことによってみずからを相対化する訓練をしている、と述べた。実際、この授業の学生レポートの中にも異分野摩擦が生じるメカニズムについて深い考察を示したものがあった。
自分の専門領域の中でものを考え、勉強したものを自分のなかで再構成し、自分が語る言葉を選びとり、自分の知覚世界を言説に転換していくのであるが、自身が構築した言説と相容れない考えや論理を受け入れたがらない自分がいることに、異分野の学生との対話で気がついた。気づかないうちに、私のなかで、自分が知覚しないものが存在しないものへと転落してしまっていたとも言える。自身が知覚し言語化できるものと、そうでないものの間の相互移行が欠けた状態が長く続くと、自身の見ている世界と見ていない世界の間の溝が広がっていく。その溝は、見ていないものは受け入れたがらないという対立関係へと容易に転じうるのだと、強い危機意識を感じた。
同じ専門分野の人間だけの閉じられた空間のみで話をしているといつのまにか壁が作られてしまうメカニズムを、ジャーナル共同体概念を用いずに俊逸に説明している。このような壁の境界を外へ開き、壁を所与と考えないで再考するために異分野交流はある。つまり、異分野摩擦は忌避すべきものなのではなく、リベラルアーツへの出発点なのである。異分野のひととの議論を通して、まず「専攻が違うとこんなにも視点や発想が異なるのかということに驚かされ」る。次に、「日頃自分がいかに無意識に偏ったものの見方をしているかということ」に気付く。そして、「自分の専門分野の知識を改めて言語化することの難しさ」を実感する。そのことを通して、「今まで見過ごしていた自分の意見の土台を再確認し、専門知識のない人にもそれを短時間で一からわかりやすく伝えようと努力」し、「自らの暗黙の前提に立ち返りながら議論をすすめる」ことができるようになる。このようにして、「それぞれの固定されていた価値観や先入観が少しほぐれ、多角的に物事を考えることができるようになる」。この多角的な思考力が、壁を所与と考えないリベラルアーツの力の育成になる。この段落で用いた「」内の言葉はすべて上記授業の学生のレポートからの引用で同じことを妥当性境界概念を用いて言い換えると次のようになる。異分野のひととの議論を通して、まず「専門が違うことによる妥当性境界の内化による違い」に驚かされる。次に自らの妥当性境界に気付く。自分の妥当性境界を改めて言語化することの難しさを実感する。そのことを通して、妥当性境界を再確認し、ひとに説明しようと努力し、暗黙の前提となっている妥当性境界に立ち返りながら議論をすすめる。このようにして、それぞれの妥当性境界が相対化され、多角的に物事を考えることができるようになる。
*この本文は2022年10月25日発売『専門家とは誰か』(晶文社)の一部を抜粋し、ModernTimesにて若干の編集を加えたものです。