福島真人

福島真人

ラスベガスにて、記念写真に興ずる人々。2019年ごろ撮影。

(写真:佐藤秀明

英語帝国主義の功罪

日本人が英語話者と話すとき、高確率で英語が用いられる。では、ロシア語話者と話すときはどうか。フランス語は、アラビア語は、スペイン語は、インドネシア語は?おそらく少なくない人が自分と異なる言語を母語としている人とは英語で話している。なぜなのか。英語は多くの人が話せる「国際語」であるからだ。しかしこの「国際語」は複雑な問題を何重にももたらしている。科学技術社会学 (STS)の専門家、福島真人氏が著す。

Updated by Masato Fukushima on December, 29, 2022, 5:00 am JST

フランス文学の研究者は何語で論文を書くのか

我々の周辺には、あまりに当たり前になっているために、その自明性をほとんど疑わないような事象が数多くある。かつてイザヤ・ベンダサンという謎の人物が、日本人にとって「水と安全はタダ」、という名言をはいて、その後広く人口に膾炙したが、環境汚染や昨今の地政学的状況によって、この自明性はだいぶ怪しくなっている。こうした自明性の別の例として、国際語としての英語という状況がある。例えば日本人とアラブ人が会話をする時、お互い下手な英語でしゃべるという光景は珍しくない。また自然科学領域ではこれはほぼ確立した社会的事実と見なされており、私も利用する英語校正サービスの利用者の大多数は、理系の研究者である。戦前、アインシュタイン(A.Einstein)のような研究者がドイツ語で論文を書いていたという事実は、今では何か奇異の目で見られるかもしれない。

だがこの国際語としての英語という常識が、必ずしも自明ではない分野もある、というのが興味深い点である。例えば、フランス文学研究において、論文を「国際語」で書くとしたら、研究者はそれを英語で書くのであろうか。フランス文学研究者は、当然フランス語には精通しているが、それを英語でとなると、今度はフランス語/英語という翻訳が必要となる。実際彼らにそれを尋ねてみると、英語で書くのはあまりピンとこないという。

著名な学者であってもたどたどしい英語で話さなければならない不平等性

新大久保で見かけた風景
新大久保を歩く中で見かけた風景。

話がおかしくなってくるのは、ここからである。今から20年近く前に、発達心理学の巨匠、ピアジェ(J.Piaget)ヴィゴツキー(L.Vygotsky)の両者を記念した国際会議に出席したことがある。前者はスイス人、後者はロシア人で、会議はジュネーブで開かれ、使用言語は国際会議なので英語であった。招待講演者の中には著名な発達心理学者やピアジェ、ヴィゴツキーの研究者も招かれていたが、特にアメリカの学者たちは、即興的でいかにも楽しそうに講演を行っていた。他方、ピアジェ関係の研究者はフランス語圏の人も多く、討論の時間になると、彼らのたどたどしい英語がよく聞き取れないこともあった。更に印象的だったのは、知り合ったロシア人研究者が、発表の前にガチガチに緊張していたのを見た時である。同じロシア人ヴィゴツキーについての発表だが、英語で初めて発表するというのでフリーズしてしまっていた。更に全体会では、故ヴィゴツキーの娘がロシア語で招待講演をしたが、ほとんど全員同時通訳のイヤホンをつけ始めた。ヴィゴツキー関係の会議なのに、である。

ヴィゴツキーは、最近では「心理学のモーツァルト」といった形容詞で語られることも多いが、初期の英訳にかなり問題があるのは業界では有名な話である。マルクス主義者だったヴィゴツキーが資本論等から引用するのを当時の訳者が「これは党のプロパガンダに違いない」と断定して、勝手に割愛してしまったらしい。また彼の論集の完全英語版が出たのは比較的最近の話である。実際英訳に関して研究者が、日本における豊富なヴィゴツキー翻訳書をひきあいに出して、渋る出版者を説得したという。似たような話はフーコー(M.Foucault)の『狂気の歴史』にもあるが、長いこと流通していた英訳は簡約版で、完全英訳版が出たのは2009年というのだから驚かされる。

英語で書かれた雑誌は「国際誌」といえるのか

学術の分野において、「国際語」としての英語という理解については、そもそもの「言語観」の違いによって大きく異なる二つの立場がある。一つは、「言語は単なる伝達の道具」であり、基本中立的だという考え。もう一つは、「言語は文化そのもの」であり、特定の言語を学ぶということはその言語に関わる文化慣習全体を習得することだという考えである。前者の考えは、共通語が英語以外の言語であっても特に問題はないと考えるプラグマチックな視点といえる。

他方後者の考えに従うと、話はかなり複雑になる。例えば、英語誌を単純に「国際誌」という訳にはいかなくなり、その文化的背景が問題になってくる。実際、人文系ではこの言語≓文化の考え方が根強いが、社会科学系でも問題はなかなか微妙である。例えば数年前、英国のある老舗の社会学雑誌編集部の国際部門に参加していたが、そのメンバーの大半は英国の大学、一部が英語圏(豪州等)からで、完全な非英語圏からの参加者は、私も含め、少数であった。投稿内容はもう少し多様だが、あくまで英国社会学が中心で、同心円上に英語圏、その外に非英語圏研究がパラパラと存在していた。で問題は、これを「国際誌」と言えるのか、である。もちろん、その雑誌の投稿規定に準拠していれば非英国人でも投稿出来るから、国際的には開かれているが、内実はあくまで「英国」社会学中心という基本は崩れていない。

実際ここら辺の境界はかなり曖昧である。あるフランスの研究者と、科学技術社会学 (STS)雑誌の編集部とのやりとりを読んだ際、彼はその雑誌の読者を基本的に英語圏(英米豪カナダ等)と解釈しており、それ以外の国民も読む、という点を忘れているようであった。他方、ベルギーの人類学者と会った時に、もともと彼の業績はフランス語が中心だが、たまに英語で書くと、それがどんなにローカルな媒体でも、それは「国際」(international)に分類されると聞いた。またフランスの人類学者が日本の大学でフランス語学術誌があるのを見て驚いていたが、「自分たちは日本語の学術誌は読まない」からだという。つまりフランス語も日本語も、彼女にとっては同等に(英語誌ではないので)「地方誌」だというわけである。

フランス語雑誌が国際誌ではないなら、フランス史やフランス文学研究の論文も、英文国際誌(?)に出すしかなくなる、という奇妙な事態もありうる。実際、特に米国の研究者の中には、英語で書かれたフランス史研究しか読まない人もいるらしい。全て英語文献からなっているフランス史の本について、フランスでは「フランス語でもいい本があるのに」という書評がでたという「怪談」を聞いたことがある。これはいかにも極端なケースだが、この裏には、特に米国において、もし国際的に重要なら当然英訳されているはずだから、それがない以上調べる価値はない、というかなり傲慢な態度があるようだ。

日本の大学の順位がさえない理由

ここでのポイントは、少なくとも形式上、英語≒国際語という標準化が確立した科学界に比べ、人文社会系は話がはるかに複雑で、その背後には言語観や国際的な力関係等、様々な力学が働いているという点である。それゆえ、こうした英語中心主義を一種の帝国主義といった強い言葉で批判する立場もある。とはいえ、自然科学内部でも話はそう単純ではなさそうだ。国際論文はいざ知らず、国内で研究会を開く場合、その言語を日本語にするか、英語にするかはかなり微妙で、私がたまに参加する宇宙科学系の会合はたいてい日本語だが、極地科学系の年次大会では、全編英語でやっていた。両方とも少数の外国人参加者がいたが、後者の方が外国人に親切な一方、日本人同士の英会話を聞くのはなかなかつらい面もある。実際地球科学系の連合大会では、日本語で議論することのメリットについて熱い議論が戦わされていたのを読んだことがあるが、より深い理解という意味では切実な問題でもある。

実際、エスペラントのような相対的に中立な人工語でなく、英語という一地方語が国際標準化したという点の弊害は少なくない。英語圏が文化面でも圧倒的な影響力を持つようになると同時に、例えば国際的な教育システムにも多大な影響を与えるというのがその一つの例である。本邦で毎年騒がれる大学の国際ランキングだが、日本の大学の順位がさえないだけでなく、実は欧州の非英語圏の大学もぱっとしないのは、国際語を学習したい学生を吸収する強い磁力に欠けるからである。9月入学でないから日本に学生がこないといった馬鹿げた議論が一時期横行していたが、愚論である。

「甘え」を英訳できるのか

ユーコン川といかだ
ユーコン川にて。筏のシルエットが水上を進んでいく。

一地方語としての英語が決して中立的な道具ではないという点は、同じヨーロッパ系言語内で翻訳するとしても結構苦労が絶えないという点からも見て取れる。例えば、マルクス主義的視点を心理学に導入した批判心理学という学派があるが、ドイツ語での「弁証法的」な議論展開を、論理実証主義に親和性のある英語になおすのは実は非常に大変だった、とその英訳書の序文に書いてある。ここら辺は言語間の翻訳にまつわる膨大な悲喜劇の一例に過ぎないが、人文社会系の研究者が身に沁みて感じている点である。学生から聞いた話では、ある日本の社会学者が何故その研究を英語にしないのかと問われて、自分の研究内容は日本文化に深く根ざしているのでそれは英語では表現できないと答えたという。これは別に日本に限られたことではなく、エスノメソドロジーというミクロ社会学で有名なガーフィンケル(H.Garfinkel)は、その研究内容が深く英語の文脈と関連しているという理由で、長らくその著作の他言語への翻訳を許可しなかったという。「甘え」という言葉が英語に翻訳できないという認識から『甘えの構造』という大ベストセラーも生まれたが、これは一応英訳されてThe Anatomy of dependenceというタイトルになっている。しかしdependence(依存,従属)というのはかなり否定的なニュアンスをもち、「甘え」の微妙に肯定的な側面をうまく表現できていない。かつて学生時代にその訳者としゃべるチャンスがあったが、それ以外訳しようがなかったと弁明していた。

表面上の情報を英語が支配することで、見えなくなる現象もあるのでは

事実上の国際語と化した英語がもつ圧倒的な情報量の背後で、英語を必ずしも媒介としない、言わば「インターローカル」というべき文化交流が見えなくなるという危険もある。かつて80年代にインドネシアでフィールド調査をしていた時に本屋でよく見かけたのは、エジプトの改革派イスラム思想のインドネシア語版の本の山であった。また自閉症の研究史を調査していた時に、高機能自閉症の基礎的な概念である「アスペルガー症候群」という概念が当時の日独関係によって比較的迅速に導入された一方で、これが英米圏で認められたのはかなり後だったというのも興味深い事実である(近年ではこの著者とナチスとの関係が問題視されて、評判ががた落ちのようではあるが)。

STSは、社会科学の立場から自然科学のダイナミズムを観るという視点をとるため、言語は道具なのか文化なのかという議論には人一倍敏感である。とはいえ、英語帝国主義の前提を暗黙に受け入れている面もある。例えば学界の賞の対象は英語の著作だけで、それ以外の言語で書かれた著作が賞を取ったのを見たことがない。他方、特に米国のそれは近年の政治的動向に敏感で、米民主党的な民族的多様性の強調の結果、国際会議での多言語主義的アプローチを模索しているようだ。しかし残念ながらこれはあまりうまくいかないだろう。仮に国際学界でスペイン語や中国語の発表が並んでいても、その言語が出来なければわざわざ聞きにいかないからである。EUのように参加国全てに対応した同時通訳をつけるのは難しく、残念ながら、英語帝国主義は、実に便利なのである。

政治哲学者のシュミット(C.Schmitt)は、民主主義が、意見の多様性の尊重と、多数派による一致した行動の必要、という二つの相反するベクトルをもった矛盾した制度だと指摘している。英語帝国主義も、英語圏による文化支配という面と、事実上の国際的インフラであるための圧倒的利便性という、二つの矛盾したベクトルを持つ。我々はその利便性は最大限に生かしつつ、その文化的限界についても常に気をつける必要がある。迷走する英語教育論争を見聞きするたびに、そう感じるのである。

参考文献
『日本人とユダヤ人』イザヤ・ベンダサン(角川書店 1971年)
『「甘え」の構造』土居健郎(弘文堂 1971年)
独裁—近代主権論の起源からプロレタリア階級闘争まで』カール・シュミット 田中浩・原田武雄訳(未來社 1991年)
Madness and civilization : a history of insanity in the age of reason, Michel Foucault( Pantheon Books 1965年) 
Critical psychology: contributions to an historical science of the subject,Charles W. Tolman & Wolfgang Maiers (eds) (Cambridge University Press 1991年)