実利がないかもしれないコンニャク情報が、人の生を豊かにする
前回見たように、実利を産む情報は、情報社会で私たちが出会う情報のごく一部でしかない。むしろ、大部分の情報はコンニャク的なのだ。しかし、コンニャク情報との付き合いの良し悪しは、まさにそのコンニャク性がゆえに、私たちに実利をもたらすという中枢神経系の元々の目的に照らして判断することができない。実際に梅棹は、コンニャク情報の価値の捉えどころのなさを早くから強調している。
このように述べると、コンニャク情報などというものは価値があるのかないのか分からないようないい加減なものなのだから、それとの付き合い方など、真剣に考えるには値しないのではないかと切り捨てたくなる人が出てくるかもしれない。しかし、これは乱暴な考えである。一口にコンニャク情報と言っても、そこには様々なものが含まれている。たとえば、誰かの闘病記を読んで感動し、自分の今後の生き方について色々と考えさせられたとしよう。だが、私が同じ病気に罹っているのでもない限り、これも私にとっては(ほぼ)コンニャク情報である。それを得たことで、栄養を取りやすくなるわけでも、より力持ちになれるわけでも、それらを手に入れるのに間接的に役立つお金を得られるわけでもないからだ(ただし、もし私が感化されてより自分の健康に気をつけるようになったなら、多少の実利も含まれていたとは言えるかもしれないが。)
一般に、コンニャク情報の中には、実利にどう直結するのかは明らかでないが、私たちの人生を豊かにしてくれると考えられているものがたくさん含まれている。コンニャク情報など無視すればよいという大雑把な提案は、それらを十把一絡げに切り捨てることを意味する。そのような考え方は、私たちの生をあまりにも貧しいものにしてしまうだろう。