島村修平

島村修平

ネパールで見かけたバス。屋根にも人々が乗っている。ぬかるみにはまったようだ。

(写真:佐藤秀明

「自分を見失う」とはどういうことか? コンニャク情報を摂取し続ける自分を俯瞰する方法

前回、島村氏は梅棹忠夫の言葉を引きながら、なぜ私たちが無限に情報を摂取し続けてしまうのかを考えていった。今回はそこから、無限に情報を得続けることは「自分を見失う」ことにつながるのかを見ていく。

Updated by Shuhei Shimamura on November, 9, 2022, 5:00 am JST

実利がないかもしれないコンニャク情報が、人の生を豊かにする

前回見たように、実利を産む情報は、情報社会で私たちが出会う情報のごく一部でしかない。むしろ、大部分の情報はコンニャク的なのだ。しかし、コンニャク情報との付き合いの良し悪しは、まさにそのコンニャク性がゆえに、私たちに実利をもたらすという中枢神経系の元々の目的に照らして判断することができない。実際に梅棹は、コンニャク情報の価値の捉えどころのなさを早くから強調している。

このように述べると、コンニャク情報などというものは価値があるのかないのか分からないようないい加減なものなのだから、それとの付き合い方など、真剣に考えるには値しないのではないかと切り捨てたくなる人が出てくるかもしれない。しかし、これは乱暴な考えである。一口にコンニャク情報と言っても、そこには様々なものが含まれている。たとえば、誰かの闘病記を読んで感動し、自分の今後の生き方について色々と考えさせられたとしよう。だが、私が同じ病気に罹っているのでもない限り、これも私にとっては(ほぼ)コンニャク情報である。それを得たことで、栄養を取りやすくなるわけでも、より力持ちになれるわけでも、それらを手に入れるのに間接的に役立つお金を得られるわけでもないからだ(ただし、もし私が感化されてより自分の健康に気をつけるようになったなら、多少の実利も含まれていたとは言えるかもしれないが。)

一般に、コンニャク情報の中には、実利にどう直結するのかは明らかでないが、私たちの人生を豊かにしてくれると考えられているものがたくさん含まれている。コンニャク情報など無視すればよいという大雑把な提案は、それらを十把一絡げに切り捨てることを意味する。そのような考え方は、私たちの生をあまりにも貧しいものにしてしまうだろう。

本土復帰まもない小笠原の野外��映画館
本土復帰まもない小笠原の野外映画館。「ビルマの竪琴」を上映していた。1971~72年頃。

身の回りに溢れるコンニャク情報との付き合い方を考えることには、身の回りに溢れる食品との付き合い方を考えることとは違って、単純に生物としてのヒトという視点からは捉え切れない、人間特有の次元が関わっている。人間はそれぞれに自分というものを持っていて、コンニャク情報の持つ非実利的価値は、それぞれの自己との関係の中で決まる主観的なものであるために、一筋縄では捉えられないのである。

「自分を見失う」とは何なのか

それでは、こうした主観性を認めつつ、それでもコンニャク情報との付き合い方について一般に言えることはあるだろうか。筆者はあると考える。その一つの切り口が、「情報過多の社会において私たちは自分を見失っている」という前回冒頭で取り上げた警句である。ここで「自分を見失う」ということは、正確なところ、一体何を意味しているのだろうか。また、そうした状態に陥ることを避けるために、私たちは何に気をつけたらよいのだろうか。

前回、自己という概念は取り扱い注意であると述べた。その理由は、「自分」や「自己」という言葉が(何かを指すのだとしたら)一体何を指すのかという問いは、未だに哲学者の間で意見の一致が得られていない難問だからである。そのため、もし「自分を見失う」という表現を文字通りに受け取って、何らかの「自分」というものがあると前提し、それを「見失う」ことについて考え始めると、私たちはたちまち哲学的泥沼にはまってしまう。そもそも「自分」とは何かさえよく分かっていないのに、それを「見失う」とはどういうことか、というわけだ。

代わりに筆者は、「自分を見失う」という表現を一まとまりで捉え、それを私たちが陥りがちなある状態を表す一種の比喩として受け取ることを提案したい。では、それが比喩的に表しているのはどんな状態なのか。筆者の考えでは、この点を明確化するために、「自律性(autonomy)」という哲学的概念が役に立つ。筆者の提案は、「自分を見失う」ということを、自律性が損なわれる状態として捉え直そうというものである。そうすることで私たちは、「自分とは何か」という哲学的難問に足を取られることなく、「自分を見失う」ということの意味について考えることができる。

「ジョギングしたい」という欲求は、自分自身のものなのか

それでは、自律性とは何か。分析哲学でしばしば参照される『スタンフォード哲学百科事典』によれば、自律性は「人を操ったり捻じ曲げたりする外的要因の産物ではなく、自分自身のものである考えられる理由や動機に従って生きる能力」(p.1)と規定される。この規定には、自律性にとって本質的な二つの要素が含まれている。一つは、自分自身のものであると考えられる理由や動機という要素であり、これは本来性(authenticity)の条件とも呼ばれる。もう一つは、そのような本来的欲求に従って生きる能力という要素であり、こちらは能力(competency)の条件と呼ばれる。順を追って説明しよう。

上の規定によれば、自律的であるために、私たちはまず、単なる外的な要因や欲求と、本当に自分自身のものである(すなわち、本来的な)欲求とを区別できなければならない。たとえば、アルコール依存症の状態にある人が、どうしても酒を飲みたいと思ってしまう。これは外的な欲求の典型例と考えられる。この飲酒欲求は、その人がそれをどう捉えるかとは関わりなく、否応なしにその人に襲い掛かる類の欲求だからだ。それでは、こうした外的欲求と対比される、自分自身の欲求とは何か。

議論の余地はあるが、現在大筋として多くの論者に受け入れられているのは、H.フランクファートによって提唱された二階の欲求に訴える基準である(Frankfurt (1987))。すなわち、ある欲求Dが私自身の欲求であるのは、私がDを支持し、Dに従って行為したいという二階の欲求を持っているときである。先のアルコール依存症の例では、私は飲酒したいという強い衝動に駆られているわけだが、必ずしもこの衝動を支持し、それに突き動かされて行為したいとは思っていない。(むしろ、私はそのように行為することを避けたいという二階の欲求を持ってさえいるかもしれない。)その場合、フランクファートの基準によれば、飲酒したいという欲求は、私自身の欲求ではない。これに対して、たとえば、私がジョギングしたいと思っており、かつこの欲求を支持し、それに動かされて行為したいという二階の欲求をも持っているとしよう※。この場合、ジョギングしたいという欲求は私自身の欲求とみなされる。

ある欲求が自分自身のものである──私自身と同一視できる──ことをそれに対する二階の欲求の存在によって説明するフランクファートの上述の立場には、重要な懸念も指摘されている。たとえば、その二階の欲求自体が、何らかの外的要因によって私に植え付けられたものだったらどうするのか、といった懸念である。しかし、このようなさらなる考察の余地はあるにせよ、私たちが行うことの中には、自分自身の欲求に従った本来的な行為と、外的要因によって強いられたそうでない行為があるという区別はたしかに思える。上の批判は、フランクファートの分析が自分自身の欲求という概念の十分条件を与えてはいない(それを完全に捉え切れてはいない)というものであるが、それは依然として、自分自身の欲求にとっての必要条件(本質的な構成要素)を捉えることには成功しているように思われる。本記事の目的にとっては、さしあたりこの必要条件を押さえておけば足りるので、ここでは本来性の条件にさらに深入りすることはせず、もう一方の能力の条件へと話を移そう。

サウスオーストラリアの道路
サウスオーストラリアの風景。道の先にサーフィンスポットがある。

たとえば、私が今夜ジョギングしたいという欲求を持ち、さらにその欲求に従って行為したいという二階の欲求を持ったとしても、時に私は眠気に負けて、ジョギングせずに寝てしまうかもしれない。このとき、やはり私は自律的に行為しているとは言えないように思われる。能力の条件は、このようなケースを排除するためのものである。すなわち、主体が自律的であるためには、単に自分自身のものである欲求を他の外的要因から区別できるだけでなく、そのようにして区別された自分自身の欲求に従って実際に行為を導く能力が要求されるというわけだ。

※ 実際の時系列としては、ジョギングしたいという欲求に動かされて実際にジョギングしたいという二階の欲求が先に生じ、この二階の欲求に動かされて、ジョギングしたいという一階の欲求を自分の中に(何とか)喚起し、最終的にジョギングする、という場合もしばしばある。しかし、ここでの規定にとっては、一階の欲求と二階の欲求がともに揃ってさえいればよく、どちらが先に生じたのかという点は問題とならないことに注意してほしい。

ダラダラとYouTubeを見続けて時間を見失っていたとしても、自分を見失っているとは限らない

ここまで、「自分を見失う」ということを自律性が損なわれるということと解釈した上で、自律性を本来性と能力という二つの条件によって分析する標準的見解に基づいて、自分が見失われる二つのパターンを明らかにしてきた。次に、以上の分析が「私はコンニャク情報に溺れて自分を見失っていないか」という懸念と向き合う上でどのように役立つのかを考えてみよう。上の分析は、あるタイプのコンニャク情報Iとの付き合いにおいて、この懸念が私たち自身に当てはまっているかどうかを判定するのに役立つ二つの基準を提供してくれる。たとえば、仕事に必要だなどの特別な理由もないのに、毎日2時間YouTubeの動画を見ている人がいるとしよう。しかし、単に必要性や実利に関わらない動画を長時間見ているというだけで、直ちにその人が自分を見失っているとは限らない。自分を見失っているかどうかは、そのような仕方で単純には判断できない主観性を含む事柄なのだった。では、その人が自分を見失っているとみなされるのはどんなときか。

第一の基準は、自分が当のコンニャク情報との付き合いに関して、何らかの明確な価値判断を下せるかというものだった。この基準を満たさない典型例は、「毎日2時間YouTubeの動画を見ることをどう思うか?」という問いに対して、明確に答えることができない場合である。暇があるとサイトを開いているので、気づくとそれくらいになっているが、改めて問われても、いいとも悪いとも即答できない。このような場合私は、YouTubeを見たいという欲求を明示的に意識化し、それと向き合って評価することができていないため、自分自身の欲求とそうでない外的欲求との区別がついていない。このために、本来性の条件が損なわれることで、自分を見失っている状態と言える。逆に、たとえ傍からはダラダラと時間を浪費しているようにしか見えないとしても、私は自分がYouTubeを見たいと思っていることを明確に自覚しており、かつその欲求に従って行為することに対して肯定的な評価を下しているなら、少なくとも自分を見失っていることにはならない。

自律性という観点から考えるときに、私が「自分を見失っている」ことになるもう一つのパターンは、能力の条件が損なわれる場合だった。先の例で言えば、私はYouTubeを見たいという欲求を自覚しており、それに従って行為するのはよくないことだと判断しているものの、それにも関わらず、ついYoutubeを見てしまうという場合がこれに当たる。この場合、少なくとも当の欲求が自分自身の欲求ではないという判断はできているので、本来性の条件は満たされている。しかし、自分自身の欲求に従って自分の行為を制御するという能力を発揮し損ねているという意味で、やはり私は自分を見失っている。いわゆるゲーム廃人のような状態は、コンニャク情報に溺れて自分を見失うこの第二のパターンの極端な例として位置付けることができる。

「自分を見失っているか」を確かめる方法

以上の考察を要約すれば、「自分を見失う」ことを自律性が損なわれた状態として捉える場合、私があるコンニャク情報Iに関してその状態に陥っているかどうかを判断するには、まず次のように自問してみればよい:「なぜ私はIと付き合っているのだろう?」もしこの質問に答えることができないなら、私はIとの付き合いを促している欲求に対して十分に反省的な評価を下せていないということであり、自分にとって大切なこととそうでないことの区別を見失っているという意味で、自分を見失っている恐れがある。

この基準をクリアしている場合、次に自問すべきは次の問いだ:「もしIとの今の付き合い方がよくないとしたら、私はそれを正すことができるか?」もしこの問いに肯定的に答えることができない場合、自分の実際の行動を自分がそうあるべきと思う仕方でコントロールできていないという意味で、やはり自分を見失っている恐れがある。

参考文献
情報の文明学』梅棹忠夫 (中央公論新社 1999年)