島村修平

島村修平

ギリシャの漁師。昔ながらの船と網で海へ乗り出す。

(写真:佐藤秀明

コンニャク情報から「自分を見つける」ことは可能か

前回、島村氏は実利的でないコンニャク情報で自分を見失わないための方法を提示した。このような側面を見ると、コンニャク情報は己を惑わすネガティブな存在のように思えるが、コンニャク情報にプラスの側面はないのだろうか。今回はコンニャク情報を別の方向に使う方法を考えてみる。

Updated by Shuhei Shimamura on November, 29, 2022, 5:00 am JST

コンニャク情報をプラスの方向に働かせることはできるか

前回は「自分を見失う」というネガティブな切り口から、現代の情報社会を生きる上で避けることができないコンニャク情報との付き合い方について考えてきた。農業と工業の発展によってもたらされた飽食の時代が不健康な食生活という新しい問題を産んだように、情報産業の発展によってもたらされた情報社会が、情報との付き合いに関する新しい問題を私たちに突き付けているのはたしかだろう。

しかし、情報社会に生きることは悪いことばかりではないのではないか。日々私たちの関心を絶え間なく引き続けるコンニャク情報との触れ合いが、反対に私たちが「自分を見つける」ことにとってプラスに働くことはないのだろうか。もしそうしたことがあるとしたら、それはどんな仕方でだろうか。しばし考えてみたい。

「願望」は掘り出すための努力が必要になることがある

前回、「自分を見失う」ということを自律性が損なわれることとして理解し直した。この方針に引き続き従うなら、その反対の「自分を見つける」ということは、自律性の度合いを高めることとして理解するのが自然だろう。自律的であるためには、自分が欲していることに自覚的になり、それらのうち、自分が本当に従いたいものとそうでないものを区別した上で、自分の行為を前者の欲求に従って制御する必要があるのだった。以下ではこの中で、自分が持っている様々な欲求に自覚的になるという最初のステップに注目したい。このステップをクリアすることなしには、自律性のその後の条件を満たすことはできない。

しかし、自分の欲していることに自覚的になるという作業には、ときに特有の興味深い難しさが伴うように思われる。このことは、たとえば、「あなたは30年後何歳になっていると思いますか」という問いと「あなたは30年後どうなっていたいと思いますか」という問いを比べてみると分かりやすい。これらはどちらも未来のある事柄に関して私の考えを問う質問である。しかし、前者の問いに即答できず、「分からない」と答える人はおよそ想像しがたいが※1、後者の問いに対して、そのような状態に陥る人を想像することは容易である。このように、一口に「自分の考え」と言っても、30年後自分が何歳になっているかのような事実に関する考えと、30年後自分がどうなっていたいかのような欲求(厳密には後述する「願望」と呼ばれるもの)では、自覚のしやすさは大きく異なる。後者には、「自分は30年後どうなっていたいと思っているんだろう」というように、「掘り出す」ための努力の余地がありうる。

ロサンゼルスから郊外へむけて走る2階建て列車
ロサンゼルスから郊外へ向けて走る2階建て列車。

筆者の考えでは、情報社会で生活すること──すなわち、私たちの関心を引くのに長けた多様なコンニャク情報に囲まれていること──は、自覚するのに努力を要するタイプのこうした欲求を自覚する──そしてそれによって、自身の自律性を高める──上で、重要な役割を果たしうる。しかし、そもそもなぜある種の欲求は、他のタイプの思考と異なり、それを自覚するのに努力を要するのか。また、コンニャク情報に触れることがなぜそうした欲求を「掘り起こす」ことに役立つのか。筆者は、これらの問いに答える上で、思考の「透明性説」と呼ばれる見解が鍵となると考える。そこで以下ではまず、透明性説がどんな見解なのかを見ていくことにしよう。

※1 記憶の障害などの影響で自分の現在の年齢が分からない人であれば、この問いに「分からない」と答えることになるのではないかと考える人がいるかもしれない。しかし、これは誤解である。いま聞かれているのは、「30年後あなたは何歳になっていますか」ではなく、「30年後あなたは何歳になっていると思いますか」という問いなのだった。上で想定した人は前者の問いに対して「分からない」と答えるだろうが、すぐ後で述べるように、その場合、その人は30年後自分が何歳になるかについて明確な考えを持っていないことになる。したがって、後者の問いに対して人は、「分からない」ではなく、「私は30年後自分が何歳になるかに関して明確な考えを持っていない」とはっきり答えることができる。

欲求の意識化に、透明性説を当てはめてみよう

思考の透明性説とは、大雑把に言えば、私たちが自分の考えに自覚的になる主な方法は、自分の「内部」に心の目を向け、そこに生じている考えを探すといったことではなく、むしろ意識をその思考の対象そのものに向け、それについての何らかの自問自答をすることによってである、という考え方である。これだけでは何のことかさっぱり分からないと思うので、以下で例を挙げてさらに説明したい。

いま、自分が明日の天気が晴れると考えているのかどうかを知りたいとしよう※2。いかにして私はそれを知ることができるのか。先の透明性の考え方によれば、この場合、私は単に「明日は晴れるだろうか」と自問してみればよい。もしその答えが「はい」であれば、そう答えた時点で、私は明日晴れると考えていると分かる。他方、もし答えが「いいえ」や「分からない」であれば、私は明日晴れるとは(少なくともまだ)考えていないことが分かる。ポイントは、この方法を用いて自分の考えを探る際、私はなんら自分の内面に注意を向けていないという点にある。私の考えは、私にとっていわば「透明」であって、そのようなやり方でいくら探してみても、見つけることはできない。むしろ私は、私の考えという透明なレンズを通して、考えが向けられている事柄──明日晴れるかどうか──の方に注意を向けることで、当の考えに気づくことができるのである※3。

上では、明日は晴れるという考えを例にとって、透明性説という考え方のポイントを確認した。ある事柄を事実として捉えるこの種の思考は、哲学で一般に「信念」と呼ばれる。よって、上で説明したのは信念を意識化する方法に関する透明性説である。しかし、今で注目している思考は、信念ではなく、欲求なのだった。それでは、欲求の意識化についても、やはり同じように透明性説を当てはめることができるだろうか。

筆者の考えでは、透明性説は、私たちが自分の様々な思考を意識化する際に共通する重要な特徴を捉えており、欲求もその適用範囲に入っている。ただし、信念の透明性説は、(議論の余地はあれ)比較的多くの論者によって認められているものの、透明性説を信念以外の思考へも拡張できるかどうかは、現在進行中の論争点であり、まだ定説と呼べるものはない。そのため、以下で述べるのは、あくまで筆者の個人的見解であることを断っておきたい(以下で述べる見解の詳細に関心がある方は、Shimamura(2021)を参照してほしい)。

※2 これは、そもそもおかしな想定に思われるかもしれない。誰か他の人がそう考えているかどうかを知りたい、というのなら分かる。その場合は、その人に「あなたは明日の天気が晴れると思いますか?」と聞いてみる必要があるだろう。しかし、自分に対して「私は明日の天気が晴れると思いますか?」と自問するのは不自然だ。こう言いたくなるかもしれない。しかし、それが不自然なのは、そのように自問する必要なく、私には自分がどう考えているのかが直ちに分かると思われるからだろう。ここで問題としたいのは、なぜ他人の場合とは違い、自分の考えについてはそのように直接的な知り方ができるのかということなのである。
※3 この方法は、自分自身の考えを知るためだけに使える特別な方法であって、他の人の考えを知るためには使えないことに注意してほしい。「明日は晴れるだろうか」という問いに対する私の答えは、私の考えとは連動しているが、他の人も私と同じように考えている保証は全くないからである。

自分の欲求を自覚するための「問い方」

いま、欲求の典型例として、私がケーキを食べたいと欲している場合を考えてみよう。行為の哲学の研究で有名なG.E.M.アンスコムは、「欲求の原初的なサインは、手に入れようと試みることである」(Anscombe 1963, p.68)と述べている。これはもっともな指摘に思える。たとえば、もし私がケーキを食べたいと欲しているなら、特別な事情がない限り、私はケーキを食べようと試みるだろう。それでは、私がこの種の欲求に気づくために、自問すべき問いは何だろう。透明性の考えによれば、私が注意を向けるべきは、欲求そのものではなく、その欲求が向けられている事柄、すなわちこの場合、ケーキを食べることである。よって「ケーキを食べようか」と自問すればよい。もしその答えが「ケーキを食べよう」であれば、私は自分がケーキを食べたいと欲していることが分かる。

このように、一見したところ、私は自分の欲求の意識化についても、当の欲求が向けられている事柄そのものに意識を向けることによって、信念の場合と類比的な形で行うことができるように思われる。しかし、話はそれほど単純ではない。上で見たのは、私が自分の欲していることを実現すべく、適宜動き出す準備が整っている例だった。これを(実現への)意図を伴う欲求と呼ぼう。アンスコムの言うように、意図を伴う欲求は、欲求の最も基本的なケースだと思われる。しかし、欲求の中には、この条件を満たさないもの──あることを欲しているのだが、そのために動き出す意図は必ずしもないケース──もよくある。

第一に、私たちは、必ずしも実現できる見込みのないことも欲求することがある。たとえば、私はケーキを食べたいのだが、財布を家に忘れてきてしまい、ケーキを買うことができない場合がそれに当たる。第二に、私が互いに両立しないと信じている複数のことを同時に欲求してしまう場合も考えられる。たとえば、私はケーキを食べると太ってしまうと考えていて、なおかつ太りたくないと欲しているかもしれない。これらの場合、たとえ私がケーキを食べたいと欲していても、「ケーキを食べようか」という自問に対する答えは「いいえ」であるかもしれない。そのため、上で記述したようなシンプルな方法によっては、この種の欲求に自覚的になることはできない。

いま、これらのタイプの欲求を、意図を伴う欲求と対比して、「願望」と呼ぶことにしよう。願望に対しても、透明性説の考えを当てはめることができるだろうか。筆者の考えは、すでに予告した通り、イエスである。自問する問いの内容を工夫して、当の願望が行為を導くのを抑えているところの理由を、仮想的に取り除いてやればよい。たとえば、第一のケースでは、単に「ケーキを食べようか」と自問する代わりに、「もしそうできるとしたら、ケーキを食べようか」と自問すればよい。同様に、第二のケースでは、「もし食べても太らないのだとしたら、ケーキを食べようか」と自問すればよい。私は、これらの問いに「はい」と答えることで、自分が本当はケーキを食べたがっている(しかし、手持ちがないために、あるいはダイエットのために、それを我慢している)のだということに自覚的になることができる。

これらの自問は、依然として、自分自身の心の内を覗き込むような内向きのものではなく、願望の対象となっている事柄そのものに向けられたものであることに注意してほしい。そのため、これらの問いを経由して自身の願望に気づくという上述の手順は、あくまで透明性説の一例とみなすことができる。

願望を抑えている理由の候補をカッコに入れて考えるためには、想像力が必要

しかしまた、願望を自覚するための手順には、それ以前に見てきた手順と比べて、重要な違いもある。同じ透明性説であっても、願望を自覚するために私たちが自問すべき問いには、願望の向けられている事柄そのものについての「○○しようか」という内容に加えて、その願望を抑えている理由を仮想的に取り除くための「もし××だったとしたら」という条件節が加わっている。そのため、信念を自覚する手順と比べて、願望を自覚する手順は次の二つの点で複雑になっている。

第一に、××に入れる理由の候補はあらかじめ決まっているわけではなく、多種多様でありうる。このため、信念を自覚するために問うべき問いは一つに決まっていたのに対して、願望を自覚させてくれるかもしれない問いは、××に入りうる候補の数だけ、多様に開かれている。私たちはまず、自分が持っているかもしれない願望を抑えている理由の候補である××に当たりを付けて、自問すべき問いを選ばなければならない。第二に、そのようにして選んだ問いに答える段階にも、信念等の場合にはなかった複雑さが含まれている。願望の場合には、私たちは、××という現実とは異なる想定の下で、○○しようかという問いに答えねばならない。××の内容は、場合によっては現実から大きく離れた突飛なものでありえ(例:もしケーキを食べても太らないのだとしたら)、そうした仮想の下で○○しようかを考えるためには、豊かな想像力が必要となるかもしれない。

こうして私たちは、冒頭で取り上げた、なぜ自分自身の願望に関しては、他のタイプの思考とは異なり、それに対して自覚的になるために努力を要する場合があるのかという問いに対して、透明性説の観点から一つの解答を得たことになる。すなわち、自身の願望にそうした「掘り出し」の余地があるのは、願望を自覚する際に携わる自問自答のプロセスが、他のタイプの思考の場合とは異なり、上の二つの点で複雑だからである。

コンニャク情報は隠れた願望に気づかせる

このことを踏まえて、冒頭で取り上げたもう一方の問いへと目を向けよう。もし自身の願望を自覚する手順が、上述の透明性説的なものであるとすると、情報社会に生きることが、なぜその手順を遂行する上で有利に働くのか。筆者の考えでは、その理由は、情報社会には私たちの注意を引くよう巧妙にカスタマイズされたコンニャク情報が溢れているからである。そうした情報は、私たちが抑えている願望の対象である事柄へと注意を向け、それを実現するということがどういうことなのかについて、様々な現実の障害を仮想的にカッコに入れた上で考えるのを手助けしてくれうる。

アラスカ、ユーコン川の空と雲
ユーコン川の青空と雲。アラスカにて撮影。

再びYouTubeを例にとって説明しよう。YouTubeでは、AIが過去の動画視聴歴に基づいて、私たちに動画を勧めてくる。いま、そうした動画の中で、ソロキャンプの動画が私の目を引き、ふと見始めたら引き込まれたとしよう。もちろん、これだけでは、私がキャンプに行くことを望んでいるとは限らない。私は単に出演者が気になっただけかもしれないし、その人が食べていたご飯がおいしそうに見えただけかもしれない。しかし、こうした経験は、そこに私自身がまだ完全には意識化できていない何らかの願望──掘り起こす余地のある願望──がありうることを示唆する。私はキャンプそのものについてのありうる問い──「キャンプに行こうか」、「もし時間に余裕があったら、どうか」、「もしコロナの心配をしなくてよいとしたら、どうか」等々──を問うきっかけを与えられるのである。

さらに、動画を視聴するという経験は、これらの自問に答える上でも役に立ちうる。まず、動画を観ることで、私は自分の想像力を働かせなくても、キャンプに行くということがどういうことかについて考えることができる。さらに都合のよいことに、ただ動画を観るだけなら、私は実際にキャンプに行くことを阻みうる様々な理由を自然と考慮から外すことができる。たとえば、動画を観るだけなら、時間もさほど取られないし、コロナの心配をする必要もない。そのため私は、動画の視聴を通して、キャンプに行くことを阻む様々な現実的理由を一旦仮想的に考えの外で置いた上で、キャンプについて考えることができるような状況に自分を置くことができる。そしてその結果、「もしできるなら/コロナの心配がないなら、キャンプに行こうかな」等々と考えるに至ったなら、私は自身の隠れていた願望に気づいたことになる※4。

意識せずに何らかの願望を持っていたという経験に全く身に覚えがない、という人はまれだろう。そうした形で願望を持つことは、私たちが実現できるかどうか分からないことを願ったり、互いに相容れない複数の事柄を同時に望んだりすることができてしまうような存在であることからの、ほとんど避けがたい帰結であると思われる。どうすればいいのかは分からないが、本当は好きなことだけをして暮らしたい。太るのは嫌だが、本当はケーキを思う存分食べたい。仕事を失うのは困るが、本当は朝の満員電車に乗りたくない、等々。この種の当面実現しそうにない願望を、常に意識し続けるのは辛い。そのため、おそらく一種の防衛本能として、私たちはしばしばそれに蓋をして意識の外へと追いやり、そのうち忘れてしまう。しかし、そのような願望が、ふとしたきっかけで(たとえば、コロナの流行によってリモートワークが広まって、満員電車に乗らなければならない理由が失われたことで)表に噴出し、実感されることがある。上で描写したのは、これと同じことを仮想的な自問を通して能動的に行う方法に他ならない。

※4 ただし、このような仕方で自分の持つキャンプへの願望に気づくとき、その願望が私が元々持っていたものではなく、動画を観ることで触発され、新たに持つようになったものだと思われる場合もあるかもしれない。前者のケースと後者のケースをどうすれば区別できるのかというのは、重要で非常に興味深い問いだが、残念ながら紙幅の都合上、本記事で立ち入ることはできない。

現代のコンニャク情報だけが特別なわけではない

もちろん、この方法を純粋に自分自身の想像力だけを用いて実践することもできる。また、わざわざYouTubeなど持ち出さなくても、人から話を聞いたり、本を読んだり、映画を観たりすることで、それを行う助けが得られるという場合も考えられる。たとえば、誰かの自伝を読んで、自分がしたかったのはこんなことだと気づく場合などはそれに当たる。コンニャク情報自体は昔から様々な形態で存在していたのであり、なにも現代のコンニャク情報だけが特別だというわけではない。しかし、現代の情報社会では、昔と比べて私たちはずっと多くのコンニャク情報に触れる機会がある。さらに、そうしたコンニャク情報は、しばしば私たち個人に合わせてカスタマイズされ、より私たちの関心を引きやすいものになっている。

情報社会のこれらの特徴は、前回論じたように、コンニャク情報の過剰摂取の問題を招きかねない警戒すべきものではある。しかし透明性説の観点に立つなら、それは、私たちが自身の注意を引く事柄、すなわち気づかない内に持っている自分の願望の対象であるかもしれない事柄について、立ち止まって考えてみるきっかけと考えを進める上での手助けに、それだけ恵まれているということでもある。この意味で、情報社会とは、予期せぬ自分に出会う豊かな機会を提供する社会であるとも言えるだろう。

コンニャク情報で「自分を見つける」

最後に、本記事全体を振り返っておこう。初回は、本稿の主題である、私たちは情報社会に生きることで自分を見失っているのではないかという漠然とした懸念にスポットライトを当てた。その上で、この懸念に向き合う準備として、まず梅棹忠雄の提案したコンニャク情報という概念を用いて、情報社会の特質を浮かび上がらせ、先の懸念がそうした社会に生きる我々の誰もが無視できない普遍的な問題であると論じた。続く第二回では、自律性という哲学的概念を用いて、先の懸念における「自分を見失う」ということの内実を明確化した上で、自分がその状態に陥っているかどうかを判別し、そうなることを避けるために何をしたらよいのかについて考えた。ここで鍵となるのは、自分を動かしている欲求に自覚的になり、その欲求を支える理由を適宜自問することだった。最後に今回は、コンニャク情報の氾濫という情報社会の特質を生かし、逆に自分を見つける可能性を追求してみた。その結果、自己意識に関する透明性説に従えば、コンニャク情報は、私たちが無意識に抑えている願望の対象へと私たちの注意を向けることで、私たちがそうした願望に気づくきっかけとなりうることが分かった。

前回と今回を通して、私たちは情報社会でよりよく生きるための術を二つの側面──自分を見失わないことと自分を見つけること──から考えてきたことになる。そこで共通に浮かび上がってきたのは、情報をただ受動的に享受するのではなく、享受している自分を振り返って、自分はなぜその情報を楽しんでいるのかと能動的に自問することが、重要な役割を果たすということである。考えてみると、これは当たり前の結論かもしれない。しかし、この当たり前の教訓がどんな点で重要なのかをいくらかでも明らかにできたなら、筆者の目的はひとまず達成された。

参照文献
情報の文明学』梅棹忠夫(中央公論新社 1999年)
Anscombe, G. E. M. (1963). Intention, 2nd edn. Cambridge: Harvard University Press.
Christman, J. (2020). “Autonomy in Moral and Political Philosophy” in Stanford Encyclopedia of Philosophy (the Fall 2020 Edition). 
Frankfurt, H. (1987). “Freedom of the Will and the Concept of a Person,” in The Importance of What We Care About, Cambridge: Cambridge University Press, pp.11–25.
Shimamura, S. (2021). “The Transparency of Desire as Motivation”, Review of Analytic Philosophy, Vol. 1, No. 1, pp. 19–50.