安岡宏和

安岡宏和

森の中の子どもたち。(著者提供)

農耕民に「至らなかった」わけではない。狩猟採集民の生き方

私たちはごく自然に、人間は狩猟採集社会から農耕社会そして工業・情報の社会へと社会を「移行」させてきたと思っている。しかし、今でも狩猟採集を続けている人々を見ていると、そのような考え方がどうやら間違っているらしいことに気づく。人々の生き方の選択は実に多様なのだ。

Updated by Hirokazu Yasuoka on January, 20, 2023, 5:00 am JST

前回まで、コンゴ盆地の森にくらすバカ・ピグミーたちの生きる〈世界〉のなりたちについて、彼らの狩猟にかかわるタブーを切り口として探求したうえで、「平等社会のパラドクス」をいかに回避しているかという観点から、肉の分配について考察した。ただ、今日ではゾウ狩りを継続することが困難になっているし、バカたちの生活全般が変化の渦中にあって定住化・農耕化の傾向を強めている。とはいっても、フィールドで生活をともにしていると、彼らの生き方には狩猟採集民とよびたくなる何かがあるような気がしてくる。そこで今回からは、バカたちの資源利用の特徴をふまえながら、狩猟採集民とはどのような人々であるかについて考えてみたい。それが、人間の生き方についての、読者の想像力の幅を押し広げることにつながれば、さいわいである。

場当たり的な畑づくりをしているバカは、未熟な農耕民なのか?

狩猟採集民はどのような生活をおくっているのだろうか。「野生の生物だけを食べる生活」というのが、もっとも素朴なイメージかもしれない。しかし、個人や世帯単位であればまだしも、それなりの人口をもち再生産可能な規模の集団が、野生の動植物だけを食べて生活している例は、もはや存在しないと思われる。コンゴ盆地の森では、バカなどの「ピグミー」とよばれる狩猟採集民にくわえて、焼畑農耕民が古くから暮らしてきたが、今日、両者は似たような食物を食べて生活している。

農耕民とバカ。(著者提供)

しかしながら、バカたちと生活をともにしていると、彼らが農耕民になりつつあるとはいいがたい、という印象をうけるのである。プランテンバナナやキャッサバなどを栽培しているとはいえ、一年のうち数か月は森のキャンプで生活するし、森の動植物はあいかわらず重要な食物源である。農耕民も森の動植物を利用するが、あくまでも農耕を生業活動の基軸としている。しかし、バカにとっての農耕は、いくつかの選択肢の一つでしかないようにみえるのだ。そもそもバカの畑は、農耕民の畑と違って、いつでも食物の入手を期待できる場所ではない。適切な時期に特定の場所にいけば相当量の収穫を期待できるヤマノイモや果実・ナッツ類があるなかで、畑の作物は、バカたちにとって卓越した重要性をもつわけではない。

焼畑をつくること自体は、バカたちにとって難しい作業ではない。問題となるのは、いつ、どれだけの畑をつくるかである。農耕民とくらべてバカの畑は小さく、毎年かならず畑を伐開するわけでもない。農耕民は、たとえばバナナについていえば、生長に時間がかかるうえに収穫適期が短く、貯蔵もできない、という特徴をよく勘案したうえで、年間をとおしていつでも収穫できるように一年半から二年後の畑の状況を想像し、そこから逆算して畑の大きさ、植える品種、栽植のタイミングなどを調整している。一方、バカの畑づくりは場当たり的だ。いまある畑から収穫できる作物が減少してきたところで、ようやく新しい畑をつくりはじめる。畑の伐開を途中でやめて森のキャンプに移動してしまったり、収穫期に森のキャンプにいたために自分の植えた作物を食べられなかったりすることもある。

このようなバカたちの生活は、農耕生活への移行途上にある未熟な段階なのだろうか。むろん、そのような見方は単純すぎるし、誤りでさえある。第一に、それは、ありのままの自然に依存する狩猟採集生活と、人間の都合にあわせて自然を改変する農耕生活という二項対立にとらわれている。第二に、ミクロな集団における生業の変化にたいして、狩猟採集生活から農耕生活へというマクロな人類史を投射してしまっている。それゆえ、農耕を生業の一部にとりいれたバカたちの生活を、古いものから新しいものへの移行途上にあるものと捉えてしまう錯誤を犯しているのである。

狩猟採集は「ありのままの自然に依存する」わけではない?

そもそも「ありのままの自然に依存する狩猟採集民」というイメージが間違っているのだ。たとえ野生生物を利用する場合であっても、人々が働きかけることによって生物は何かしら変化しており、その変化にあわせて人々が対応していく、という相互作用がつねに進行している。

バカのヤマノイモ利用はその典型だといえる。カメルーンの森には食用になるヤマノイモ(日本ではジネンジョやナガイモが知られている)が10種あまりある。それらは一年周期で蔓をつけかえるか、もっと長い期間で蔓をつけかえるかで、二つのタイプにわけることができる。たくさん収穫できるのは一年周期のものである。雨季がはじまるとイモに蓄えておいた養分をつかって蔓をのばし、葉をひろげて光合成をする。光合成でつくられたデンプンは再びイモに貯蔵され、乾季になると蔓などの地上部を枯らす。こうしてそれぞれのイモが同調して肥大・縮小するので、収穫は雨季の終わりから乾季にかぎられるが、いちどに大量のイモを収穫できる。

このような一年周期のヤマノイモにとって、樹木が複数の層になって生い茂る熱帯雨林は、それほど適した環境ではない。もともとは季節変化が明瞭で、日光条件のよい、もっと乾燥した地域に分布していたのではないかと考えられる。ただ、熱帯雨林でも、大木がまわりの木々を巻添えにして倒れてできた林冠ギャップがあったり、地形によっては高木層がまばらで地表に近いところまで日光が射し込んでいたりする。そのような場所では、種子を遠くまで散布してすばやく生長するパイオニア植物が繁茂している。一年型のヤマノイモが生えているのは、そういった環境である。ただし、森のなかにまんべんなく分布している林冠ギャップとくらべて、ヤマノイモの分布はかなり限定されている。新しくできたギャップにつぎつぎと侵入していく典型的なパイオニア植物ほどには、ヤマノイモの拡散力は強くないようだ。

ひろい森のなかでヤマノイモの群生地が集中している場所をバカたちはよく知っており、家財道具一式をいれた籠を背負って、ときには村から40kmも離れたところまで出かけることがある。そこでは100人もの人々が一つのキャンプにあつまり、数か月を過ごすことができる。私自身、2002年と2005年にそうしたキャンプに参加し、ヤマノイモや蜂蜜、獣肉などをたらふく食べることができた。

では、これらのヤマノイモは、どのようにして特定の地域に集中分布するようになったのだろうか。2012年にフィールドを再訪したとき、あるバカの男から、この問いにかかわる興味深い話を聞いた。「おまえと一緒にいったキャンプ跡を通ったとき、サファ(ヤマノイモの一種)がたくさん生えていた」というのである。そこで私は、そのキャンプ跡を訪れてみた。すると、たしかに100個体をこえるヤマノイモが生えていたのだった。バカたちによれば、調理したときに捨てたイモの小片から再生したのだという。

キャンプの変化。(著者提供)

つまり、こういうことだ。もともとヤマノイモの群生地があつまっている地域では、しぜんとキャンプの機会が多くなる。キャンプでは採集されたイモの小片がばらまかれ、新たな群生地ができる。それがくりかえされることで、その地域ではヤマノイモの分布がより豊かになり、キャンプの機会がさらに増える。こうしたフィードバックをとおして、現在のヤマノイモの分布が形成されてきたのだと考えられる。

「ありのままの自然」は存在しない

じつは、どれだけのヤマノイモがあるのかは、熱帯雨林における人類の歴史を知るうえで、とりわけ重要な問題とされてきた。というのは、熱帯雨林では純粋な狩猟採集生活は不可能でないか、という疑義が呈されていたからである。熱帯雨林は生命の宝庫ではあるものの、人間の食べられる食物はそれほど多くない。じっさい、森の狩猟採集民についての数多くの民族誌では、近隣農耕民から入手するなどした農作物が、食物のかなりの割合をしめていた。そのうえ、純粋な狩猟採集生活が可能であることをしめす生態学な証拠は、いちじるしく不足していた。であれば、森の狩猟採集民とよばれる人々は、農耕民と共生関係を構築するなどして農作物を入手できるようになって、はじめて熱帯雨林のなかで生活できるようになったのではないか、つまり純粋な狩猟採集民ではないのではないか、というわけだ。こうして巻きおこった論争のなかで、ヤマノイモは、熱帯雨林における人間生活の基盤となる可能性をもつとされ、そのアベイラビリティ(入手可能性)が争点になったのだった。

狩猟時の獲物の写真。(著者提供)

しかしながら、この純粋な狩猟採集生活をめぐる論争には盲点がある。なぜなら、バカやその祖先たちがヤマノイモを採集して食べてきた森は、人間の生活とは独立して存在している「ありのままの自然」ではなかったからである。意図的であれ、非意図的であれ、彼らがヤマノイモを食べれば食べるだけ、イモ片がキャンプ内外にばらまかれ、結果としてヤマノイモの群生地が増えてきた。つまり、熱帯雨林における人間生活の基盤は、人間とヤマノイモの相互作用をとおして形成されてきたのであった。

この種の相互作用は、大なり小なり、あらゆる生物のあいだに生じているはずである。熱帯雨林は、あるいはいかなるランドスケープであれ、人間をふくむ多様な生物たちの相互作用の絡まりあいとして構築されているのであって、そこで「ありのままの自然」を前提とする「純粋な狩猟採集生活」が可能であるかどうかは、本質的な問いではなかったのだ。

他の生物と相互依存に陥ることを避けて生きる「アンチ・ドムス

このような人間生活の基盤を形成する、人間と他種生物の相互作用に着目することで、採集と農耕の連続性が浮かび上がってくる。それは、採集から農耕へという通時的な連続性ではなく、両者のあいだに広がる領域を、共時的に見わたすパースペクティブである。

上述のように、今日、農耕民もバカも似たような食物レパートリーをもっており、表面的には両者の生活にはあまり差異がないようにみえる。しかし、やや極端な例をあげるならば、家庭菜園で野菜づくりをしているサラリーマンのことを農耕民とはいわないように、たとえバナナやキャッサバを栽培しているにしても、バカたちを農耕民とはよべない気がするのである。この感触をすこしだけ理論的なかたちで表現すると、さまざまな食物を入手するためになされる種々の生業活動を束ね、その全体を特徴づけ、方向づけている〈生き方〉において、狩猟採集民と農耕民ではどのような差異があるのか、ということになる。

その補助線として着目したいのが、人間・動植物・微生物の集住する空間としての、ドムスという概念である。ドムスとは、もともとラテン語で家屋や家庭を意味する語で、英語のdomesticの語源であるが、ジェームズ・C・スコットが『反穀物の人類史』のなかで、ドムスに生息する人間、動植物、微生物の関係に着目し、その関係の変化がどのように国家形成につながったかについて論じている。さらにスコットは、ドムスは進化のモジュールであり、ドメスティケーション(家畜化/栽培化)とは、生物がドムスに適応して「ドムス生物化」することだといえるのではないか、と指摘している。

ドムス生物化は、むろん人間にもあてはまる。たとえば、単一種の穀物と相互依存して生きる人々は、その穀物とともに、ドムス生物化しているといえる。多様な作物を栽培し、野生の動植物や半栽培植物をよく利用する焼畑農耕民がつくりだすドムスに目を移せば、そこにあつまる生物たちのドムス生物化の度合いは、やや小さいといえそうだ。そして狩猟採集民は、ドムス生物化のスペクトラムにおいて、穀物農耕民の対極に位置づけられるだろう。すなわち、いかなる生物とも相互依存に陥ることを避けて生きる人々である。そのような生き方を、私は、アンチ・ドムスと名づけることにした。

次回は、このアンチ・ドムスという〈生き方〉について、考察を深めていきたい。

参考文献
森棲みの社会誌:アフリカ熱帯林の人・自然・歴史Ⅰ』木村大治・北西功一 編(京都大学学術出版会 2010年)
焼畑の潜在力:アフリカ熱帯雨林の農業生態誌』四方篝 編(昭和堂 2013年)
反穀物の人類史:国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット(みすず書 2019年)
野生性と人類の論理:ポスト・ドメスティケーションを捉える4つの思考』卯田宗平 編(東京大学出版会 2021年)