福島真人

福島真人

彼方を見つめるモアイ像。何のために作られたのか、目的は謎に包まれている。

(写真:佐藤秀明

どこへ行く、AIアート?

文章も絵画もAIによる生成で瞬時に作れるようになった。そのことへの評価は、利便性への期待と、人の価値が毀損されることへの恐怖が入り混じっている。人々がAIによるアートに抱く一種の気持ち悪さはなんなのだろうか。実際にはどのような脅威があるのか。アートと「意味」の観点から紐解いていく。

Updated by Masato Fukushima on January, 27, 2023, 5:00 am JST

人は冗談や皮肉をどのように理解しているか

日々の会話の中で、我々はどうやって冗談や皮肉といった、少しひねった表現を理解するのだろうか。この問いに対して、斬新な答えを提供したのは、言語哲学者のグライス(P.Grice)である。彼の主張によると、ひねりのない普通の会話では、我々はある種の標準的なラインを守っている。彼はそれをカント(I.Kant)アプリオリについての議論に従って、量、質、関係、様相という四つの公準に従うものとした。面白いのは、この公準が破られると、そこにいろいろなニュアンス、あるいは含意(implicature)が生じるとグライスが主張した点である。例えば普通に会話する時は、我々はそこそこ常識的な量をしゃべるものだが、もし誰かがそこで、異様に短い返事(あるいはその逆)をしたとすると、聞き手はそこに何か普通ではないものを感じる筈である。それは相手の怒りや戸惑い、あるいは逆に何かを隠しているといった不穏な雰囲気かもしれない。会話の公準とそこからの逸脱という枠組みを通じて、グライスは、我々のコミュニケーションにおける複雑な含意の表現が効果を持つ仕組みを解明したのである。

この考えに基本的に同意しつつ、四つの公準は結局「関連性」(relevance)の原理にまとめられると主張したのが、スペルベル(D.Sperber)とウィルソン(D.Wilson)である。聞き手は何か発話を聞くとその意味を探るが、それが文脈に沿ったもの(関連性がもともとあるもの)であれば、その意味理解にそれほど時間はかからない。しかし内容が、一見会話の文脈から離れていると、その(裏の)意味は何かという処理コストがかかる。時間をかければかけるほど、その発話のニュアンス(含意)の深読みはできるが、その分コストも増える。会話の理解とはこの二つの間の収支バランスで決まるというわけである。

これらの議論は、会話の複雑なニュアンスを我々がどう理解するか、という点について興味深い枠組みを提供しているが、実は両者とも一つの大前提がある。つまり会話の表面的意味だけ追っても、よく分からない場合があり、その際我々は、その表面の裏に、話者の何か隠れた「意図」のようなものを探る、という前提である。特にスペルベルたちは、こうした傾向性を我々の生得的能力であると考えている。

人は「意味」の「意味」を問う

実際、会話の断片について、その字義的な意味だけとってもその内容が決まらないという例は枚挙に暇がない。例えば、「僕はきつね」「私はタヌキ」という会話の断片に関しては、様々な文脈が考えうる。そば屋での会話、というのが一番ありそうな文脈だが、児童劇に参加する子供が、どの動物役をしたいかという会話とも、あるいは憑依現象を観察している宗教人類学者たちが、憑依した動物霊は何か、と議論している会話だと (やや無理があるが)設定することもできなくはない。冗談をいったつもりが字義通り受け取られて場が凍ったといういやな経験は、冗談だという話者の意図がうまく聞き手に伝わらず、字義通りに理解された結果であろう。

このように、表面上の意味に対して、その背後に話者の意図を想定するという行為は日常会話では頻出するが、例えば英語でも、what do you mean by that?という問いが示すように、ここにも表面上の意味(that)に対して、何を意味(意図)しているかを問うという二重構造がある。インドネシア語でもmaksudnya?という表現がよく使われるが、これも本来は「その意図は?」という意味である。

ウズベキスタンにある廟の天井
ウズベキスタンにある廟の天井。イスラム模様が美しい。

発話の背後に意図を想定するという聞き手の傾向は、エスノメソドロジーの有名な「実験」でも知られている。これは初期の医療用プログラムであるElizaを使って、相談ごとを持ちかける被験者に対し、カーテンの向こうから、ランダムにイエス、ノーという回答を与えて被験者の反応をみるというものである。その答えは全くでたらめだが、被験者の多くはその応答の意味を肯定的に読み取り、そこから更に突っ込んだ質問をするという反応を続けたという。ただし一部の被験者はその回答に一貫性がないと感じて不信感をもち、応答をやめた場合もあった。

また発達障害の研究の中には、このコミュニケーション能力についての興味深い古典的実験もある。サリーとアンという二人の少女がいて、サリーが籠にボールを入れて出かけたのち、アンがそれを自分の箱に移してしまう。では戻ってきたサリーはどこにボールを探すか、という質問である。健常児、ダウン症児童ともに、サリーは籠を探すだろうと回答するが(なぜならサリーはボールの移動を知らないので)、しかし自閉症児は移動したボールという点から、サリーは箱を探す、と答えてしまうという。この実験は他者の心に関するいわゆる「心の理論」が発達においてどういう役割を果たすかという点について、重要な示唆を与えてきた。

「意図」がなくても、「意味」を読み取る

ここでの関心は、こうした一連の研究が、それ以外の領域とどう関連するかという点についてである。かつてスペルベルは、ある会合で、人がテキストを読む方法も、この関連性原理に従っている、つまり読者はテキストの背後にある著者の「意図」を探しながら読み進める、と主張していた。もちろん、ロシア・フォルマリズムから表層批評にいたるまで、テキストの意味を著者の意図に還元するという批評形式は、言わば「素朴主義」として歴史的な批判に晒されてきた。しかし見方を変えれば、こうした批判は、著者の「意図」をさぐるという言わば自然の傾向性に対して、あえて学術的に抵抗してみせたといえなくもない。こうした意図理論は他の様々な分野にも顔を見せるが、たとえば刑法がその典型である。殺人事件のような場合に、その量刑は、殺害の意図があったとされれば重くなり、なければ相対的に軽くなる。結果としての殺人という事実よりも、意図(殺意)のあるなしを推定することが中心的課題になるのである。

他方、人の「意図」そのものについては、特に分析哲学系の人々が、これを脳の中の実体とみるわけにはいかない、と批判的に分析して見せた。最も有名なのがライル(G.Ryle)によるそれだが、心とか意図といった概念は、それを細かく追っていくとどこかで消えてしまうのである。ここでの教訓は、意図といった概念は、他者の発話や行為、あるいはその生産物を聞き手がいわば丸ごと理解しようとする営みにおいて、より有効な働きをするという点である。先程の実験のケースでも分かるように、そこに特に意図がないランダムな発話であっても、聞き手はそこに意図を読み取り、意味ある形に構成してしまうのだ。経営学者ワイク(K.Weick)のいう「センスメイキング」である。

作者だって学識者だって作品の「意味」がわからないことがある

ここで面白いのは、アートの場合である。現代アート作品に対して、よく見聞きする一般的な反応は、一般観客の「この作品の意味がよく分からない」という反応で、特に抽象画などにはそういう反応に出くわすことも少なくない。場合によっては、そういう質問に対して、作家本人がそれなりの「答え」を準備する場面もないわけではないが、「この作品の意図は○○ということです」という言明にはかなりあやしい面もある。実際は、作家もそもそも自分が何故そういう作品を作ったのか、実はよく分からないという場合も少なくないからである。こういう質問に対して、学識者の返答、といったものがあるとすれば、それは作品の意味(意図)を当該作品が置かれた美術史的、あるいはそれ以外の文脈に置き換えて、その知識によって作品の「意味」を答えるというものだ。「この作品は、戦後アメリカの新潮流の中で、どう誕生し、どう評価されて」といった学識である。

では、もし作家がAIだとすると、この図式はどうなるだろうか。こうした作業の社会的インパクトに対して、エンジニアたちはだいぶ無感覚のようで、AIによる文章や芸術作品の自動生成といった試みは比較的無邪気に続けられているが、米国の著名なリスク分析民間組織であるユーラシアグループは、このAIによる文章の自動生成その他の関連事象を、ロシア、中国のリスクに並ぶ2023年度の第三位のリスクに挙げているくらい、その似非情報流通への危機感が強いのである。

陽光に照らされる建築たち
陽光に照らされる建築たち。ウズベキスタンのサマルカンドにて。

似たような傾向はAIアートにもみられるが、これはまさに過去の絵画データを機械学習し、そこから作品を自動生成するという試みで、森美術館『未来と芸術展』(2019年)でも、その種の作品が紹介されていた。こうして生成した作品は果たしてアートといえるのか、といった哲学的、実践的な議論も既に始まっているようだ。しかしこの問題が結構やっかいなのは、芸術作品の定義に関して、作者の意図を基準とするのはかなり微妙だという点である。先程のエスノメソドロジーの実験にもあるように、視点を被験者(観客)の側に置いた場合、与えられるのがランダムな回答であっても、聞き手はその中にある種の意図を読みとってしまう。あの程度で被験者が深読みできるなら、現在の発達した機械学習では何でもできるだろう。他方、先程の分析哲学の批判ではないが、作者側の意図性を実体的にとらえようとすると、幽霊のようにその実体が見えなくなる。前述したように、結局それは行為の後付けといった側面も否定できないのである。先に体が勝手に動き、それを事後的に「意図」という形で再構成している、というわけである。

幽霊のような「意図」を頼りにすれば、AIアートを否定できない

視点を観客側におけば、どんなものにも意図は読みとりうるし、また作者側に置くと、意図はまるで蜃気楼のようにその姿を消す。どちらに転んでも、意図性をもとにAIアートを否定する根拠にはなりにくい。観客が、それはそれなりにアートとして面白い、と考えはじめれば、従来の人間によるアートとの弁別が成り立つかはかなりおぼつかない。むしろそれを区別するとすれば、ほとんどトップダウンの法文化的規定が必要なのではないか。欧米のアート理解においては、かなり根強い伝統として、アートと工芸を区別し、実際異なる機関(例えば違うタイプの博物館、美術館)がそれに対応している場合が多い。こうした弁別の根底にあるのは、歴史的に半ば神秘化された個人的インスピレーションのような概念である。こうした歴史的前提を切り崩そうとする試みは多くなされているが、この弁別は意外と強固に存続しているという印象をうける。人間の意図性をいくら基準にしても、それは蜃気楼のように消えてしまう。法律の体系は、法人概念のように、新たな現象を古典的な人間概念とリンクさせることで従来の法体系を拡張してきた。同様に、こうした伝統的アート概念を暗黙の根拠にして、AIアートもまた、半ばトップダウン的に、その定義を決めていくしかないのではないだろうか。

参考文献
心の理論-自閉症の視点から』サイモン・バロン-コーエン他 田原俊司監訳(八千代出版 1997年)
『経験としての芸術』ジョン・デューイ 栗田修訳(人間の科学新社 2003年)
『エスノメソドロジー-社会学的思考の解体』ハロルド・ガーフィンケル 山田富秋訳(せりか書房 1987年)
グライス理性の哲学-コミュニケーションから形而上学まで』三木那由他(勁草書房 2022年)
心の概念』ギルバート・ライル 坂本百大他訳(みすず書房 1987年)
関連性理論-伝達と認知』ダン・スペルベル、ディアドリ・ウィルソン 内田聖二他訳(研究社出版 1993年)
センスメーキングインオーガニゼーションズ』カール・エドワード・ワイク 遠田雄志、西本直人訳(文眞堂 2001年)